第29話 お姉さんと事件の香り




 とりあえず玄関で立ったままでは落ち着けないだろうと思った秋人は、ひとまず黒峰を部屋の中にあげる。


 ちらりと視線を向けると、彼女は今もなお不安そうに顔を曇らせている。普段のおっとりとした明るい雰囲気は霧散し、その動揺と不安げな様子は目に見えて隠しきれていなかった。そんな彼女の身を案じた秋人は彼女をリビングの椅子に座らせるとリラックス効果のある紅茶を用意する。ぽつぽつと言葉を紡ぐ黒峰の話に耳を傾けた。


 すると、驚くべき内容が彼女の口から言い放たれた。



「———誰かに付き纏われた、ですか?」

「うん、そうなの……」



 唐突なその訴えに思わず秋人はオウム返しで聞き返すと、目の前の彼女は首をこくんと縦に振って肯定した。


 彼女の話を聞く限り、どうやら大学の講義を終えてアパートに帰るまでの道中、誰かに追いかけ回されたらしい。これまで一度もそんな事はなく、彼女は地理の利があるので今日は人混みの中に紛れたりわざと遠回りして帰宅したようだ。奇跡的になんとか無事だったようだが、ここまで話を聞いていた秋人の頭の中ではとある単語が思い浮かんでいた。



「……それって、もしかしてストーカーじゃないですか?」

「ス、ストーカーだなんてそんな大袈裟な……!」

「いや、大袈裟じゃないですよ。黒峰さんはお綺麗なんですから、警戒しておくに越した事はないです」

「き、綺麗だなんて、そんな……っ」



 ぽっと頬を赤く染めながら紅茶に口をつける黒峰をよそに、秋人は真剣な表情で顎に手を当てて考え込む。彼女自身の美貌、大学生活、アルバイト先、イラストレーターなど、様々な可能性から付き纏われている事態が想定出来る以上、気の所為だろうなどと決して軽くは考えられなかった。



(もし、もしもだ。黒峰さんが傷付くような事態に陥ったら、僕は……)



 最近ではストーカーから発展して殺傷事件にまで至るという。


 黒峰千歌としての付き合いは短いが、同じ大学に通うアパートの隣人としてそれなりに濃い時間を過ごしてきた秋人。そんな彼にとって、何者にも代え難い大切な彼女が危険な状況に晒されているというのは到底看過出来るような問題ではなかった。


 ふと両親が亡くなった時のことを思い出した秋人は、ぎゅっと奥歯を噛み締める。昨日投稿した新作短編ラブコメが、先程一位を獲得した喜びなどとうに消え失せていた。


 こうして真っ先に自分を頼ってくれるのは嬉しいが、とにかく今は目の前の彼女の心配や不安を取り除くべきだろう。秋人は切り替えるようにして頭を振ると、安心させる為に柔らかい口調を意識して話し掛けた。



「何か心当たりとかありますか? ここ最近変わったこととか……?」

「うーん、変わったことかぁ……。大学でもバイト先のスーパーでも視線を感じるのはいつものことだし……特に、これといってないかなぁ」

「そうですか……」

「ご、ごめんなさい。やっぱり、私の勘違いだったのかなぁ? たまたま帰り道が途中まで同じで、私の後ろを歩いてきてただけだったり……」



 そう言って笑顔を浮かべる彼女だが、その笑みはぎこちない。

 黒峰が述べる大学やスーパーで視線を感じるというのは、きっと彼女の綺麗な容姿やその明るくおっとりとした雰囲気……素敵な魅力が原因だろう。

 残念ながら確証がない以上推測の域をでない。どうやら空想上の第三者を疑うことは勿論、今回の件をストーカーと断定するのは優しい彼女にとっておそらく難しいようだ。


 しかし、この件で黒峰が明らかな恐怖を覚えたのも事実。はいそうですかと納得する訳にもいかなかった秋人は、真面目な表情のまま口を開いた。



「黒峰さんの言う通り、この出来事が杞憂だと良いのですが……そういった人物の影があった以上油断は出来ないでしょう」

「そ、っか……」

「本当なら、こういう場合は警察に相談するのが理想ですが、正直難しいかもです。ストーカーに付き纏われている、では警察はまともに取り合おうとはしないですからね。……一応、警察に連絡してみます?」

「ううん、勘違いだったら恥ずかしいし、警察に連絡するのはストーカーだって確定してからの方が良いかも」

「……そうですか。わかりました」



 秋人はそう返事を返しながら頷く。


 今日は誰かも知らない人物に追い掛け回されたのだ。怖くて背後を振り返らなかったので性別は判別出来なかったらしいのだが、心身ともに疲弊してしまった事実は変わらない。


 黒峰にはしばらくこの部屋でゆっくりと休んで貰うとして、せめて自分だけでも明日最寄りの警察署に行ってこの一件を伝えた方が良いだろう。黒峰の意思に背いた行動なので大変心苦しいのだが、パトロールの強化を促す程度ならばもしバレたとしてもきっと許して貰えるはずだ。



(後悔は、したくない)



 何かあってからでは遅いのだ。どうしようもなかった両親の交通事故があった手前、せめて出来ることはさせてほしいと強く思う秋人。


 なので、次のような言葉が出るのも必然だった。



「明日、黒峰さんは大学の講義ありますか?」

「う、うん。明日の一コマ目から午後の三コマまで必修を含めた履修科目があるけど……?」

「わかりました。黒峰さん、明日は僕と一緒に大学に行きませんか?」

「えっ!? そ、それは確かに心強いけど、秋人くんの予定は大丈夫なの……?」

「はい、もし良ければ帰りも。ちょうど僕も黒峰さんとですし、男が一緒にいるだけでも抑止力にはなるでしょう。ま、まぁ黒峰さんが嫌じゃなければ———」

「い、嫌じゃないですっ!」



 急に立ち上がって大きな声でそう言い放つ黒峰だったが、きっと無意識だったのだろう。はっとした様子でごめんなさい、と謝りながら座り直すと再び口を開いた。



「正直にいえば、とても不安だったんです……。こんなこと初めてで、どうしようって気持ちで頭の中がいっぱいだったんですけれど……」

「? けれど?」

「その、頼りになる人で真っ先に思い浮かんだのが、秋人くんだったといいますか……。うぅ、ご、ごめんねっ? 私の方が年上なんだから、本当は迷惑なんてかけたくなかったんだけど……情けないね、私」

「それは違いますよ、黒峰さん」

「え……?」



 きっと心優しい彼女のことだ。恐怖心や不安を抱えながらも、その感情を強引に仕舞い込むか第三者に打ち明けるか、ここに来るまでの間に酷く葛藤したのだろう。


 秋人はふっと表情を和らげると言葉を続ける。



「年上だとか迷惑とかそんなの関係ありませんよ。それよりも、怖かったですよね。悩みや恐怖を打ち明けるのは、そう簡単なことじゃありません。勇気を出して僕に相談して、頼ってくれてありがとうございます」

「…………っ」

「黒峰さんは情けなくなんてないです。とっても勇気のある、凄い人ですよ。よく頑張りましたね」



 少しでも安心出来るように、不安を取り除けるように優しい声音で心からそう告げる秋人。その温かな視線を受けた彼女は、目蓋を震わせてそっと顔を俯かせた。


 しばし無言になる黒峰だったが、ふとがたんと椅子から立ち上がる。一体どうしたのだろうと秋人が小さく首を曲げると、こちらに近寄って来たではないか。やがて口を開く。



「秋人くん、立って」

「え、ど、どうしたんですか?」

「いいから、立って?」

「? は、はい。わかりまし———」

「んっ」



 おっとりとした、しかし黒峰さんらしからぬ有無を言わさぬ口調でそう言われてしまったら、残念ながら意図は読めないが従わざるを得ない。不思議に思いながらも秋人も椅子から立ち上がったその瞬間、彼女にギュッと抱きしめられた。



(!?!?!?!??!!??)



 突然の抱擁に秋人はその瞳を白黒とさせる。黒峰の甘い香りとたわわに実った大きな胸の感触がダイレクトに秋人の身体を刺激した。


 こう見えて秋人も男だ。勘違いされかねない彼女の行動にぐるぐると目を回しそうになりながらも、なんとか理性と平静を保とうとぎゅっと拳を握る。


 そうして混乱する頭のまま口早に言葉を紡いだ。



「くく、黒峰さん!? きゅ、急に抱きしめていったいどうしたんですか?」

「もう、あんなこと言われちゃったら……」

「?」

「———絶対離したくなくなっちゃうなぁ」



 耳元で蠱惑的な声音で囁く黒峰にくすぐったさを感じつつも、目をぱちぱちとさせる秋人。どういうことだろうかと口を開こうとしたが、途端に彼女は身体をパッと離した。



「なーんてっ」

「へっ」

「ありがとう秋人くん。とっても嬉しいよ! それじゃあ明日、一緒に大学に行こうね!」

「は、はい……?」

「うふふっ、頼りにしてます〜!」



 この部屋に訪れたばかりと違い、不安や恐怖の感情が少しでも払拭出来たのか普段の明るい笑みを浮かべる黒峰。


 ストーカーの件が解決した訳ではないので気を抜くような状況ではないが、そんな彼女を見ていると自然に口角が上がる秋人だった。



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