第5話 一日目 1-4


 悠実はいったん部屋に戻り、真っ白なシーツが敷かれたベッドに体を預ける。ふわりとした柔らかい感触が全身の疲れをじわじわと溶かしていく。その感覚がどうもあまりに心地よくて、ついには頭の隅に転がってた睡魔が悠実を襲った。

 さて、もうこのまま寝てしまおうか。彼は別段食事にこだわることはない。むしろ料理を口に入れなくとも気にしないし、あくまで栄養補給のための食事だと思っている。だからこうして今晩食事を取らなくとも、平然としていられる。空腹で腹と背がくっつくこともない。

 心残りがあるとすれば──やはり先程の神田の発言だろう。偶然とはなんだろう。いや、ここで考えても仕方ないと決めたばかりなのに、なぜまた同じことを。自分で自分が愚かしく思えてきた。こんな性分だからこそ、探偵の助手という仕事には合ってるのかもしれないが、人間性として欠如しているのではないかとも思えてくる。

「どうすれば直るんだろう……」

 悠実は悩まし気に、ため息をつきながらつぶやいた。そのあとも何回かため息をつく。明日になるまで百回ほど記録を更新できそうだという冗句じようくが頭のなかに浮かぶ。

 大して面白くもないくせに、ふっと鼻で笑ってしまった。つまらない人間だなと思う。

「さて」悠実は自身に鞭を打ってベッドから飛び起きる。眠気が少しずつ退散していく。悠実はその部屋をあとにする。赤いカーペットが敷かれた廊下を歩いていく。ロビーに向かって。スリッパを履いて歩いているわけだが、カーペットというのは踏むたびに気持ちが良くなる。むしろ歩くという動作を心地よいものだと思わせるために存在していると言ってもいい。

 まあもつとも、そのうち気にならなくなる。時間というあまりに強大なものが、そんな些細な感覚を忘れさせてしまうのだ。

 そして同様に時間というものは自室から大食堂への長い道のりを忘れさせるものなのだ。

 両扉をゆっくりと開けて大食堂へと入る。中は相変わらずにぎやかでいた。

「お、悠実ー。お前なにをしてたんだー」

「えっ?」

 入口のそばにいた悠実の目の前に頬を淡い紅色に染めた男が現れた。一瞬、礼儀知らずな不審な男なのかと疑ったがそうではなく、べろんべろんに酔った哀れな神田龍之介であった。

「所長、なにしてるんですか」

 悠実は眉を下げて呆れたかのような口調で問いかける。

「え? そんなの決まってんだろ?」

 酒臭いなと悠実は鼻を強くつまむ。

「今は最高に楽しくてなあ。なあなあ、お前も飲むだろ? おい、飲むだろ?」

 とボトルを片手に念押ししてくる神田。結局悠実の問いかけには答えてもらっていない。しかし今の彼にはもう、普段の冷静さは失われてしまっているため、そんな応答はできないのだろう。

「飲みませんよ、僕がお酒苦手なこと知っているでしょう」

「え? そうだったか?」

 どうやら記憶も曖昧なようだった。今までも時折こんな事態に陥ったことがあったが、どうしても慣れるものではない。適当にあしらえばその場で怒号を響かせたり、あるいは泣いたりするし、彼が神妙な面持ちで話を聞いていても「もっと笑いやがれ」と眉間にしわを刻んで迫ってくる。

 だからこそ、酒なんか嫌なんだと悠実はため息をついた。ああ、まただ、またため息をと肩を落とした。

 まあしかし──神田が酒を飲むと、良いこともあるので、止めることはできないわけだが。

「ああ、ちょうどよかったぜ。お前も誘おうと思ったんだ」

「え?」突如話しかけてきたのは浅黒い肌をもち、派手なピアスを耳につけたちゃらちゃらとした軽そうな男であった。

「あとリュウノスケってやつも、どうだ」

「えっと、いったい何を──」

「ギターの演奏会でもしよう、ということかな?」神田が口を動かした。男のほうはもちろん、悠実も目を丸くさせきょとんとしている。

「君の左手の指にへこんだような跡がある。それにまだ新しいし、深い。弦の太さから考えると、おそらくアコースティックギターだ。さては君、ギター初心者でさっきまで陰でこそこそ練習していたんじゃないか?」

「な、別にいいだろ初心者でもよっ」と男は頬を赤く染めて、恥をかいたとばかりに声をあげている。

 かっこいいなあと悠実は心のなかで拍手をしながら感心していた。そう、彼は酒を飲んでからやっと〝探偵〟になれる。このように推理をするときは口調だって変わる。悠実は、神田のそういったところに憧れている。しかし、そのことを口に出して言ったことはない。理由はまず言ったとしても馬鹿にされるのと、普段の神田のことを考えるとその気持ちは薄れてしまうためだ。

 簡単に言ってしまえば屈辱なのだ、彼に誉め言葉を送ることなど。

「で、結局どうすんだよ。来るのか? それとも来ないのか?」と未だに頬を赤くしているジョセフは、神田と悠実の二人に問いかけた。主に神田のほうを睨みつけて。

「ええ、もちろん来ますよ」と悠実は微笑みながら答えた。それに続いて神田は「仕方ねえな。聞いてやるよ。ほんと、仕方ねえな」と腕を組んで言った。

「……なら無理に来なくたっていいのによ」

 不満そうに唇を尖らせてジョセフは言った。

「だーかーら、仕方なく聞いてやるっつうの。やるならやるで早く行こうぜ」

 しかし、すぐに普段通りの口調に戻る。まあある意味、このほうが安心するとも言えなくはない。この乱暴な口調こそが神田龍之介という男はちゃんと神田龍之介なんだと指し示すものとなるのだから。やはり妙な安心感である。

 ジョセフはついてこい、とばかりに背中を見せてきたので神田と悠実の二人は彼の向かう先へついていった。その途中、「ぷはあ。やっぱボトルでラッパ飲みは最高だなあ!」とおぼつかない足取りの神田がうるさかったので、悠実の本音ではやっぱり断ればよかったと思っていた。

 ジョセフの向かう場所とは彼の自室である。ジョセフの部屋は一階の東館にあるため、大食堂とは正反対のところに位置する。

「よし、着いたぜ」

 とジョセフが言う。ジョセフは少しアンティークな雰囲気漂う、あるいは古臭く、少々錆びた鍵で部屋の扉を開ける。先にジョセフが入り、神田、悠実の順で入っていく。ジョセフの部屋をまたぐ際に神田はゲップをした。

「ああ、すまねえすまねえ」

 とへらへらと神田は笑うばかりで、反省の色は見えなかった。当然だ。こんなことは今までだって何度もあったのだから。

「次は気を付けてくださいよ、失礼ですから」この言葉も今回で何回目だろうと思うとやはりため息をつけずにはいられなかった。が、息を吐く寸前に思いとどまって、そのあとはいたって普通にゆっくりと息を吐いた。

 ジョセフの部屋はいやに豪華であった。よく磨かれた床の上に敷かれたふわふわの茶色のカーペット、ログハウスの内装を思わせるインテリアがそろってある。しかもヴェランダには柄物のカーテン付き。

 なんだこの差はと悠実は首を傾げた。

「おい、なんだよこれ」

 そんな悠実の疑問を代弁してくれたのは神田だった。

「なんだよって、オレの部屋だぜ?」

「そういうことじゃねえよ。俺の部屋と全然内装違うじゃねえか。なんなんだよ、この差はよ」

「ふん。そんなの決まってんだろ? オレがボーンズ一族の御曹司だからな」

 とジョセフは自慢げに胸を張って言った。悠実は眉間にしわを作る。少しいらっときたのだ。しかしもう一人の神田のほうは怒りで両手を拳にして握りしめていた。そしてジョセフのほうを強くにらんだ。

「また名家だからだのなんだのと。そんなの関係ねえよ。金があろうがなかろうが同じ人間だろうが。さっきだってそうだ。さっきの女もまるで自分が神なんだと言わんばかりに。神でもネズミでもねえ。人間だ。それ以上でもそれ以下でもねえっつうの」

「なっ……てめえ、オレに喧嘩売ってんのか?」

 じりじりと肌を焦がしていくほどに張りつめた空気で満ちていた。ジョセフと神田の間で火花が散っている。実際、悠実にはそう見えた。

 まずい、止めないと。

 悠実がそう思って、神田に制止の声をかけようとしたとき。

「頼む。金を恵んでくれ。二か月分も家賃滞納してねえんだ」

 と神田は頭を下げた。いったい先程の長々しい言葉はなんだったというのだ、と悠実はふとため息をついた。あ、と口元に手を添えてまたため息をとさらに自分が愚かしく思えてきたのだ。

「あのですねえ」悠実は声を震わせる。「ふざけないでください!」上司をしかるりつける怒号がロビーにまで響き渡った。

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