第4話 一日目 1-3
2
悠実は疲れ果てていた。いきなりフィンランドへ行くと言い出し、実際に来た。それに加えて神田とミシェルの対峙。そして神田に連れまわされるばかり。
「もう帰りたい」
それは本心である。
「さて。でも帰る方法がわからないし」
悠実はさらにため息をつく。たしかに、神田の言うとおり、ため息ばかりついている。誰かから聞いた話によれば、ため息の数ほど不幸になっていく、と聞いたが、神田龍之介という男といるだけで数々の不幸に遭ってしまう。
「本当、僕は何をしているんだろう」
苦笑まじりにつぶやく。ある種、それは諦めにも似たものであった。とことん地獄までついていくしかないな、という覚悟でもある。 瞼を閉じて、瞑想するようにして深呼吸をする。たったそれだけの動作なのだが、それでもやはり気持ちの整理ができるというのは、人間の面白いとこである。
悠実はそれを何度か繰り返したあとで、よおし、と気合を入れた。のちのち、それは自分に言い聞かせるものでしかないと気付いたとき、少々むなしくなった。
さて、彼のもとへ向かおう。
悠実はそう思い、一つの丸いテーブルにかじりついている神田に顔を向けていくと、彼の視線を遮るように女性が横へ通っていった。
奇麗、だった。
美しい自然のなかで、最も美しいといわれる花のようで。
ノワール調の世界のなかで、唯一色彩を持つ小さな蝶のようで。
奇麗という言葉のなかに潜む、多彩な表現をひねり出しても出し切れないのだった。
その女性は、ドレスを着ていた。血のように深い赤のドレスで、そういえばさきほどの大階段で、同じような服装の女性を想い浮かべたなと思った。
そしてもう一つ、驚くことにそのときの想像の女性の姿と酷似しているのだ。
さて、こんな偶然があるものだろうかと首を少し傾げた。とりあえず確認してみるかと悠実は足を踏み進めた。
「あの」彼はその赤いドレスを着こなした女性に近寄る。「先程、大階段で会いませんでしたか?」
彼がそう訊ねると、その女性はきょとんと目を丸くさせて、そうやってしばらくすると、ぷっと笑い出した。なにがおかしかったのだろうかという疑念もあるが、いざ笑われると恥をかいてしまったのかと不安が胸につのる。
「い、いえ。すいません」腹をおさえて笑っていた彼女は、少しずつ落ち着きを取り戻してきたところで言葉を口にした。「あまりにも真剣な眼差しでしたので。──そうですね、たぶん会っていないと思いますよ」
悠実はそこで、彼女に見とれてしまった。彼女のその優しそうな微笑みを見て、思わず目を見開いてしまったのだ。不意打ちと言ってもいい。
「そ、そうですか」
しばらくの間を空けてから、悠実は返事をした。「それじゃ僕はこれで」と女性の横を通ろうと思ったら、その彼女はちょっと待ってくださいと引き留めてきた。
なんだろう、と悠実は眉を上げつつ彼女のほうに顔を向けた。
「失礼ですが、お名前は?」
「あ、はい。僕は谷崎。
と、悠実は頭を深々と下げる。彼は美しい女性の前だと、仰々しくなってしまう。たとえばこのように悠実は、ぱっと何か本能を感じたかのように腰を曲げて、頭を下げてしまうのだ。
それはおそらく、姉の存在が大きく関わっている。悠実の姉は彼女と同じくひどく奇麗な女性なのだが、しかし姉のあの傲慢な性格はどうも苦手で、距離を置いていた。それはある種、恐怖と似た感情だった。
つまり悠実のなかでは奇麗な女性というのは、それはもう傲慢で、独裁者のようなものと誤認している。誤認という自覚はあるが、本能の一部と化しているため、直したくても直せない。ああもう、もどかしくて仕方がないと悠実は不満に思っている。
「タニザキハルミさん?」
「ええ。日本人なんですよ」
「ああ、そうなんですね。わたしの生まれはフランスで、育ちはここなんです。ちなみに名前はルウリィ・ブラウン。気軽にルウリィって呼んでね」
とあざとくウィンクするルウリィ。たしかにあざといが、それでも少しあどけなさが残る顔を持つルウリィがやれば目の保養となる。
「じゃ、じゃあ僕はこれでっ」
悠実は何回か軽く頭を縦にふって、ルウリィの横を通っていった。最初こそ恐怖でしかなかったが、今となってはルウリィに対して身勝手ながら親しみを持っている。
「どうした、そんなにやにやしやがって。気持ち悪いぞ、仏がにやにやしたみたいでよ」
口に含んでいたチキンを胃に入れたあと、神田は悠実の顔を見て、少し引き気味に眉間にしわを刻んで口を開いた。
「べ、別にそんな。というか気持ち悪いとか言わないでくださいよ」
まあたしかに気色悪いのだろうなと悠実は不本意ながら神田に同意した。
「ところでさっきの女は?」
と神田が訊いてきた。
「奇麗でしたよね。ルウリィ・ブラウンさんって人なんですけど」
「へえ。偶然じゃねえか」
偶然? 悠実は頭のなかで反芻しながらつぶやいた。
「偶然ってどういうことですか」
「は? お前、もしかして気づかなかったのか?」
気づかなかった?
僕が?
いったい何に?
悠実の疑問は増すばかりで、どんなに考えても答えが明確に出ることはなく、唐突な閃きさえも起こらなかった。
「だからさっき──」
「リュウノスケー、ちょっとこっちに来てくれ」
神田の後方にいるアンドレイが、口に手を添えて彼を呼んでいた。神田は振り返り、「なんだ、美味いもんか?」料理の取り皿を片手に持ってアンドレイのもとまで行った。
悠実が「あ、ちょっと」と神田を呼び止めようとしたのだが、結局彼が止まることはなく、そのまま悠実から離れていった。
しばらくの沈黙と身体の硬直。心のなかでは彼は気になって仕方ないとばかりに
〝だからさっき──〟
ということは今からかなり近い時間に、その偶然とやらが起こった。それでその偶然とはなんだろう。
「ううむ」
どんなに考えてもわからない。だからこそ今この場で考えること自体は無駄なのだ。それはもう重々承知でいる。
「だめだ、これじゃ食べ物さえ喉に通らない。部屋で静かにしていよう」
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