第3話 一日目 1-2
アンドレイ・アントニーは、大食堂へ来ていた。彼ら──神田と悠実を部屋に連れていったあとのことだ。
大きな両扉を開けて、大食堂に入る。そこは騒然としていて、それは賑やかとも言える空間であった。アンドレイは、自信が招いた客たちに挨拶を交わす。
彼が招待した客は、全部で七人。それはもちろん神田と悠実を含めての話だ。
「アンドレイ!」
耳に派手なピアスをつけた、調子の良さそうな男性が話しかけてくる。浅黒い肌に、鼻は高く、目は垂れ気味。それでもって、質の良さそうなスーツを着ている。ほんの少し頬を紅色に染めている。おそらく原因は彼が右手にもっているグラスに入っているワインだろう。
「ジョセフ」
アンドレイは微笑みながら彼の名を呼んだ。
ジョセフ・ボーンズ。それが彼の名前だ。
「いやあ、お前が友達でよかったぜ」とジョセフはアンドレイの肩に手をぽん、と置き、目を細めて言った。「この酒も美味いしな」とグラスに残ったワインを全て喉に通した。
「こらこら。そんな馴れ馴れしくするべきでないよ、ジョセフ」
「いいじゃねえか。友達なんだからこれぐらいよ。だろ? 親父」
親父、つまり顎髭を生やした太り気味の男は、ジョセフの父親である。名をジョン。アンドレイはジョンさん、と呼んでいる。
「ジョンさん」アンドレイは微笑みを絶やさないまま、ジョンのほうへ向いた。「楽しまれてますか?」
「ああ。ジョセフの言うとおり、酒も美味いんでまいっちゃうね」ははは、とジョンは景気良さそうに大笑いする。その笑いにつれられたのか、彼の妻であるミシェルもやってきた。ミシェルは普段、あまり笑わない。しかしアルコールの効果もあってか、ミシェルは淑女らしい微笑みで近づいてきた。
「あら、アントニーさん。お招きいただき、感謝いたします」
「いえ。ボーンズ夫妻にはお世話になりましたから。当然です」
アンドレイ・アントニーは外科医である。彼は過去に、資産家であるジョン・ボーンズの腎臓移植を行った。通常のものよりも多くの治療費をもらい、アンドレイが勤務している大学病院にとっては莫大な支援金となった。
その働きにより、アンドレイはその病院内での立場は数段上となったのだ。
「へえ。なかなか広いじゃん」
「所長はなんでそんな偉そうなんです」
アンドレイよりも後ろに神田と悠実が両扉から現れた。
「広いところは好きだなあ。安心する。でもね、狭いところは本当にだめだ。そういうところは魔境でしかねえんだよ」
アンドレイは振り返り、神田に視線を移した。
「……僕は広いところより狭いところのほうが安心しますね」
「ほう。貧乏人気質だな」神田は皮肉を口にするかのように口角を上げた。「うるさいですね。これでも裕福でしたし、あと失礼だからそういうことは言わないでください」
神田はアンドレイと顔を見合わせ、「何かおいしいものはねえか。腹が減ったんだ」
「ああ。いいのがあるよ。こっちに来て」とアンドレイが手招きする。ボーンズ夫妻とその息子にアンドレイは会釈をする。神田は失礼、と一言。文字通りの失礼さに申し訳なくなって、悠実はすいませんと頭を深く下げてから、彼らのもとまで行った。
ボーンズ夫妻──とくにミシェルのほうは、神田を訝し気に見つめていた。あの態度はどうなんだ、とほんの小さな怒りが湧いてくる。ミシェル・ボーンズはひどく高慢である。とくにこういう風に体中にアルコールが回ると、その衝動は抑えきれない。
「ちょっと待ちなさい。そこの男」
「えっ?」
と声を洩らしたのは悠実である。しかし、そこの男とは悠実のことではない。むろん彼の前にいる、流麗な黒の長髪を垂らす男のことだ。
神田は振り返り、「なんだ?」と訊ねた。その言葉によってさらに自分の衝動が喉からせり上がってくる。
「私はミシェル・ボーンズ。ボーンズ家の当主であるジョン・ボーンズの妻です」
「あっそう」
「──ご存じありませんの?」
「知らねえよ。あいにくと俺は名家には興味ないんでね。そうだな、興味のあるものはこの大食堂で転がってる食べ物ぐらいなもんだ」
「私を怒らせたいの?」ミシェルは顎をひいて、その声を怒りで震わせた。
「もう行ってもいいか?」
「それで私がそう簡単に了承するとでも?」
「冗談ですってもう、本気にしないでくださいよ。──俺は、神田龍之介。日本の、神奈川県横浜市にある探偵事務所で所長をしてる。といっても、何でも屋でしかねえんだがな」
探偵、と不審そうな瞳でミシェルは勘だを見つめた。
「くだらないですね」
そして彼女はそうはっきりと、神田の職業を侮辱した。なんの迷いもないものであったので、むしろそれが罵倒とわかるまで数秒の時間を要した。
「ああ。この場でいう探偵は常に嫌われ者だからな。慣れてんだわ、あいにくと」
と彼は微笑みながら言った。
ミシェルはあっけにとられていた。そのため喉から言葉がでなかった。そのあいだに神田は彼女に背を向けてから、アンドレイに「ところで美味しいものはどこにあるってんだよ?」と呑気に訊ねていた。
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