第2話 一日目 1-1

一日目。



「よう、いらっしゃい。おや、連れもいるのかい?」

 玄関を開け、顔をのぞかせたアンドレイはこの上なく人好きそうな微笑みを浮かべて言った。

 アンドレイ・アントニー。細身で長身、肌は色白で、ゆるりとした髪質に、若干パーマがかかっていて、鼻が高く、瞳も碧色に似たものだった。

 白いシャツの上に黒のセーターを着ている彼は、まさに美青年と言ったところだろう。

「早く上がらせてくれ。寒くて仕方ねえよ」

 神田はぶるりと体を震わせて、彼に言った。車で来たのだが、山まで来てみれば、その時点で地面は純白に染まっていた。あまりの絶景。しかし、車から出ることに対する恐怖感を同時に胸に抱いた神田と悠実であった。

「ああ、そうだね。さあどうぞ」とアンドレイは扉を大きく開け、彼らが入れるようにする。そのとき、冷たい風が何本かの針のように二人の肌を突き刺した。

「さむ……」

 なんで僕まで……。

 悠実はそこでため息をついた。

 神田と悠実は館のなかへ入った。悠実は、館の内装を見て「おお」と瞼を大きく開ける。

 そこは、きらびやかな黄金と、燃えるような赤色で満ちていた。二階へと続く大階段には濃い赤色のカーペットが敷かれていた。それこそ赤いドレスを着た女性が降りてきても違和感のないほどのものだった。

 ふと顔を上げる京極。

 星の輝きのように見えたし、または太陽に光を注がれ、満面の笑みを浮かべる向日葵ひまわりがあるようにも見えた。

 それはシャンデリアである。

「……すごい」

 そう悠実が感動を声に乗せると、「無駄にでっけーな、あのシャンデリア」と神田が同じように天井を見上げて言った。

「……はあ」

 なんでいつもいつも……。

 困惑や驚きといった感情ではなく、むしろ呆れに呆れ切った相好そうごうで横にいる神田を見つめた。

「どうした」と彼が怪訝そうに訊ねた。

「いえ、なんでもありません」

「それじゃ。二人の部屋を案内するよ」

 アンドレイは目を細めて、微笑みを絶やさずに言った。

(きっと、こういう人が人から好かれるんだろうな)

 悠実は先頭で歩いているアンドレイ・アントニーという青年の背中を見つめながら言った。

 アンドレイは右沿いに大階段を昇った。おそらくは右──西館に向かおうとしているのだろう。

 アンドレイは西館の廊下を歩いていく。

 あ、そういえば……と悠実が神田に耳打ちした。

「アンドレイさんって所長の友達なんですよね?」

「ああ。大学時代からだな」

「……ってことは、アンドレイさんって三十代……?」

「ああ。そうだぞ」

「嘘でしょう。どこからどう見ても好青年にしか見えませんよ」

「たまにいるだろ。老けない奴」

「そういうもんですかね」

 と悠実が神田の耳から口を離すと、「そういうものですよ」とアンドレイが突然口を開いた。

「えっ」悠実がしまった、とばかりに口に手を添えて声を洩らした。「すいません、聞こえてましたか?」

「いえいえ。よく言われるんですよ、歳の割に若すぎやしないかって」とアンドレイが苦笑まじりに言った。

「そ、そうなんですか」悠実も苦笑いをした。

「だがこいつの趣味は年齢以上に老人だぜ?」

「ちょっ、所長」

「本当だぞ? な、アンドレイ」と神田が訊くと、彼は「う、まあ」と曖昧な返事を残した。

 悠実は、その趣味ってなんなんですか? と訊ねようとしたとき、アンドレイが「はい、ここです」とその部屋の横に立ち、扉を指し示した。

 悠実は、そこまで人に話したくないほど恥ずかしい趣味なのだろうか、と逆に俄然興味が湧いた。一体どういった趣味なのだろう。老人のような趣味、というと、盆栽かな?

「これは、お部屋の鍵です」

 訊ねようとしたとき、アンドレイは近くにいた悠実に部屋の鍵を手渡した。少し古風な鍵であった。多少さびれていて、大丈夫なのだろうかと心の隅に不安が湧いた。

「これから俺らはどうすりゃいいんだ、アンドレイ」

 神田が訊いた。

「荷物を置いて、少し休憩したら大食堂に来てくれ。一階の西館に大きな両扉があるから、そこにくればいい」

 わかった、と神田が肯いた。そして「悠実、部屋を開けてくれ」悠実に向かって言った。悠実は肯き、右手のひらに乗せていた鍵を指で挟んで、その扉の鍵口へ、壊れないようゆっくりと挿入した。うまく入り込んだあと、さらに丁寧に半回転させる。するとがちゃり、と開錠の乾いた音が鳴ったのがわかった。

 悠実は鍵を鍵口から離し、扉を開けた。

 そこは人を安心させるようなアンティークな雰囲気と、程よい清潔さであふれていた。

 木造の部屋だった。しかしベッドの真っ白いシーツこそが、ここの潔癖さをよく表している。まるで新しくできたかのようだ。

 奥にはベランダがあり、そこから景色を楽しめるようになっている。その手前の左沿いに、一定の距離を保って並べてある二つのベッド。右にはテレビや、小さなテーブルがある。それとカーペットが敷かれていた。

「いい部屋ですね」

 悠実は感嘆の息を口からこぼしながら言った。すると神田が片眉を上げて、「そうか?」と訝し気に訊ねた。

「いや、いいところじゃないですか。ちょっとした古臭さとか、でもそれに見合うぐらいのちょうどいい清潔感とか」

「ホテルと変わらねえけど」

 相変わらず冷めたことを言うな、この男は──と悠実はとうとうあきれ果てていた。悠実は大きくため息をつく。

「どこでもお前はよくため息をつくなあ。なにか嫌なことでもあったのかよ」

「誰のせいだと」

「誰だ?」

「……いえ」

 これを笑えばいい、というのであれば盛大に笑ってやろう。それはもう感情という火の灯らない、乾いたからからの声で。

「それじゃ荷物置いて、少し休憩しましょう」

「だな」

 神田と悠実は部屋の隅に荷物を置き、右側のベッドを悠実が、左側のベッドを神田が使用することを決め、さっそくそこに腰をかけた。

「いや、しかしまさかこんなことになるなんて」

 いきなりの出来事。

 ポストに入っていた新年会の招待状。その主催者であり、神田の友人でもあるアンドレイからの突然の電話。金銭も気力もなく、断るはずが、結局こうしてフィンランドの山にある別荘に来ている。

「僕、もうここで暮らしたいです」悠実はベッドに倒れ込んでから言った。すると神田がふむ、と指で顎をさすっていた。

「どうしたんです?」

「たしかここは、」

「え?」

「いや、なんでもねえ。たぶん勘違いだろ」

 勘違い、とは。

 その言葉が悠実の胸にひっかかった。彼──谷崎悠実は気になったことはどうしても放ってはおけない性格なのだ。たとえば小説のなかである登場人物の行動に対して、気になる点があったとすると、彼はそれを教師に訊ねる。そこまでは一般的な、いやむしろ生徒のかがみといえるだろう。

 しかし。

 教師が説明する内容に納得できなければ別の話だ。そうなると悠実は自分に納得できるものでなければ受け付けぬようになった。

 よく言えば、好奇心旺盛。

 悪く言えば、利己的。

 まあそれも、神田といっしょに仕事をするようになってから、少々は矯正されてきたが。

「なんですか、気になりますよ、そんな言い方されたら」

「いや、本当になんでもねえんだって」

「いえ、教えてください」

「だから、なんでも──」

「教えてください」

 矯正された。そう、〝少々〟矯正されただけだ。

「はあ」と藍沢が完敗だ、といわんばかりにため息をつく。「昔、なにかで読んだんだ。フィンランドでの大量殺人事件」

「大量殺人事件?」

 悠実が開けていたベランダの窓から、さあっ、と冷たい風が吹き抜ける。

「その事件現場である洋館は、それ以降、人狼館を呼ばれるようになったらしくてね。ふん、まあ殺人事件を空想と結びつけるのはどうかと思うけどな」

 と、神田が腕を組んで言った。

「人狼館と呼ばれたのは、なぜですか?」

「それはな──」

 ごくり、と悠実は息を呑む。

「わりい。俺もよく覚えてねえんだわ」

 と悠実は後頭部を掻きながら言った。

「なんですか、それ」

 まだ納得できない部分もあるが、とりあえずはこれで大人しくしておこうと京極は思った。

「それが、ここだと?」

「だから、そこまではわからねえっつの。勘違いかもしれないんだよ。ま、もしそうだとしても、そんな簡単に事件は起こらないだろしな。ましてや幽霊が出るなんてことは絶対にない。絶対にな」

 実際の真理はわからないが、神田のその言葉は、悠実にはただ単に幽霊という存在に怯えを感じていて、それを隠すための言い訳にしか聞こえなかった。

「まあ、大概そういうときって当たったりしますけどね」

「ふん。小説の世界じゃあるまいし。あり得るわけねえだろ」

 フラグ、という言葉があったな……と悠実はしみじみ思った。

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