天使
泣きたくなるくらいの赤色が、夕焼けの空に塗りたくられていた。黄色から赤、ピンク色、紫色、それから藍色へと、誰かの忘れ物みたいにいろんな色が落ちていて。
それはすごく綺麗で。だから私も、こんな空の中に一緒に落ちていけたらな、なんて思ってしまった。
いまどき施錠もされていない6階建のマンションの屋上。そのフェンスに体重をかけた。
今まさに踏み越えようとしたその瞬間だった。透明な高い声に、私の動きは阻まれた。
「ねえ、靴くらい、揃えて行ったら?」
「え、……うわぁっ」
声に驚いて私はフェンスから落ちた。前ではなく後ろに。
だから私の企みは失敗して。一瞬のうちにすっかり寒くなった空は、あなたなんか抱きとめてなんてあげない、とばかりに、暗い紫色に変わっていた。
「びっくりさせてごめんね。怪我はない?」
声の主は、尻餅をついた私の腕を取って立たせてくれる。
そこにいたのは、ワンピースを着た少女。長い髪がサラサラと揺れる。色白で身体は細く、全体に白い空気をまとっている。
なんだろう、白い服を着ているわけではないのに、そこにある空気が白いのだ。
まるで、天使みたいだと思った。
「何があったの? ……なんて、聞くだけ、野暮かな」
「……助けてくれたつもりなの? 余計なお世話」
命の恩人に向かって、私は憎まれ口を叩く。絶好のタイミングを逃させられて、せっかく振り絞った勇気をふいにされて、行き場のない怒りを関係のない彼女にぶつける。
「この人、あなたの恋人?」
彼女はいつのまにか、投げ捨ててあった私のカバンを勝手に漁り、定期券入れを取り出していた。
「ちょ、ちょっと、なに勝手に」
「別にいいでしょ、死ぬつもりだったなら……えー、拝啓、親愛なるユウ……」
「も、もうやめてってば!」
定期券入れに入っていた私の元恋人の写真を覗いたばかりか、大事に封筒に入れておいた遺書まで勝手に破いて中身を音読してくる始末だ。
「どうせ人に読ませる予定だったんでしょ? なに恥ずかしがってんのよ? 死んだらこれ、みんなに読まれるんだよ?」
確かにそれは正論だけど。死んでから読まれるのと、生きてる今目の前で音読されるのとでは全然意味が違うと思う。
「うるさいな……あんたみたいなやつに言われたくないよ」
「あんたみたいな、ってどういう意味?」
彼女は心底わからない、というふうに首を傾げる。そのあざとい仕草も、憎らしい。
彼女のような、天使のように美しい人間には、どうせ凡人の、私のようなブスの気持ちなんかわからない。
私にはつい最近まで付き合っている恋人がいた。生まれて初めてできた恋人で、すごくすごく大好きだった。
私たちは5年付き合って、来月には結婚する予定だった。
だけどあの人は、入籍直前になって急に心変わりした。他に好きな人ができたと言われて、私たちは別れた。
ただでさえショックなところに、追い打ちをかけるように後から知ったのは、私が二股をかけられていたということだった。それもずいぶん前から、2人は身体の関係にあったらしい。
私の恋人を寝取った相手の女は、今目の前にいる彼女のように、天使のように美しい、無垢な顔をした小悪魔だった。
よくある話だ。だけど弱い私は、それを受け入れることができなかった。
せめてもの抵抗に、相手への恨みつらみを書き殴った遺書を残して死のうと思った。それなのにこの体たらくだった。
「……そっか。辛かったね」
目の前の天使は、私の話を聞くと、静かに私の背中に腕を回す。
私よりもずっと小柄なのに、触れるとまるで包み込まれているみたいで。温かくて、安心する。天使じゃなくて、生きている生身の人間なんだな、って今更のように思った。
「でも、いいなぁ。……そこまで大好きな人に出会えたんだもん。それって素敵なことだよ」
天使はそう言って笑う。全く、人の気も知らないで、無邪気な顔でそんな勝手なことを言う。
「……ねえ、まだ死にたい? どうせ死んじゃうなら、その前にお願いしたいことがあるんだけど」
彼女は、真っ直ぐ私の目を見て、真面目な顔でそう言う。
今度は私が、彼女の話を聞いた。
「私ね、天使なんだ」
「……は?」
「だからね、たった今、空から降りてきたの」
「何言ってるの? 頭おかしいの?」
つい驚いてそんな反応を返すけれど、彼女の白いオーラを見ていると、疲れている私は、それを信じてもいいような気にもなってくる。
私の反応なんて気にせず、彼女は続きを話し始める。いわく、彼女は正確には天使の見習いなのだそうだ。
住んでいた天界というところで罪を犯してしまったせいで、羽をもがれて地上に降ろされたところなのだと言う。
そしてこの地上で、誰か人を幸せにしなければ天使に戻ることができないらしい。
「……罪ってあんた、何をやったの?」
「それは、内緒」
いたずらっぽく、彼女は笑う。
「だからね。死んじゃうまでの間でいいからさ」
彼女は私の耳元でささやいた。
「あなたを幸せにさせて」
「……え、幸せにって」
彼女は私の返事も待たずに、ちょっとだけ背伸びをする。長い髪のせいで、私は目の前が見えなくなった。
※
涙が出そうなくらい眩しい朝日が、部屋の窓から寝室に入り込んでくる。
「……眩しいよ」
私の横で、長い髪の女が目を覚ます。光に文句を言いながらも、私を捕まえて唇を探った。
6階建てのマンションの最上階。今は屋上は封鎖されているけれど、ここのテラスからは夕焼けも夜景も、それから朝日も、美しく見える。
窓際の壁に貼った写真は、日光のせいですっかり色褪せてしまった。お揃いの白いドレスを着た女ふたりが微笑んでいる、ずいぶんと昔の写真だ。
「ねえ、昔の約束、覚えてる?」
まだ眠そうな彼女に話しかけてみる。
「え、なんのこと?」
全く覚えていないというように笑う彼女。相変わらずの白い肌が憎らしい。
「私、まだまだ全然足りないからね」
そんなことを言ってみる。
「なぁに? しぶといなぁ、もう」
そう言ってまた押し倒された。
違うの、そういうことじゃない。
そう思いながらも、頭の中は真っ白に溶けていく。人間らしい体温が混ざり合う。
地上に降り立ってから幾十年。
彼女が天使に戻る気配は、まだない。
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