夕暮れの齢

るつぺる

夕暮れの齢

 大人になったらもう子供ではいられないんだ。そう思うといつまでも子供でいたい僕は星が右から左へ、はたまた左から右へと流れるのを期待してずっと夜空を見上げていた。けれどいつまでたっても星はその場で輝き続けるだけで、時折気持ちの悪い赤い月が僕のことを嘲笑った。

 日に日に伸びる背丈をなんとか押しとどめようとポケットやら鞄へ石を詰め込んで歩いた。それでも時は残酷で僕はいよいよ父より高い目線で物を眺めることになり、彼が禿頭であることを知ってしまう。

 通学路の途中の大きな家を囲む塀の上。マチルダはいつも寝そべって、僕が隣を通り過ぎる時には片目を開いて「ご機嫌よう、坊や」と言った。高貴な毛並みのその猫はそれでいて盗賊なのだと自らの素性をかたってみせた。何が盗賊だ、いつも寝ているだけの平和ボケした野良猫じゃないか。僕は子供でありたいと願いながらもマチルダに子供扱いされていることが癪に触った。どうして僕はマチルダの名を知っていたのだろう。彼女はどうして僕だけには僕らが使う言葉で語りかけたのだろう。そんなことの答えをどれひとつ知ることなくある日マチルダは姿を消して僕はそのときもまた一つ歳を重ねた。

 

 大学生になる頃にかつて子供でありたいと願った少年は解かれた鎖に甘んじてかりそめの自由を喜んだ。何もしなかったわけではなかったが大層なことは何一つなさないまま流れる時間に抗いもせず、ただただ旅客のように振る舞った。それが更に自由になるにつれて僕はかえって窮屈さを覚えることとなり、何をなしてもよいといわれても何をなせばよいのかがわからないでいた。僕は何もしないでなんとかなっていた頃を思い出し、消えた盗賊を思い出し、星を眺めた夜を思い出していた。どれもが優しくて虚しかった。闇雲に走っては息を切らして喉の奥に血の味を覚え、呼吸が整うまでへたり込んだ土の上は生暖かく、虫の形も草の色も声変わりする前と何も変わらないのに、度の合わない眼鏡をかけたみたいに全部がぼんやりとしてしまっていた。すっかりこぎ方も忘れられた小さな自転車、渇ききった水鉄砲、空っぽの犬小屋。もう僕とは踊らない。さようなら少年。君はたしかにここで暮らした。さようなら少年。ついぞ鳥にはなれなかった君。扉はひらく前に眠ってしまえそうだ。顔はどこまでも砂まみれ。だからどうした  僕は…… …… ……


 駅前の噴水が絶えず水を吐き続ける。無邪気な子供たちは腰まで水に浸しても御構いなしだ。僕はもう彼らではない。それなりのスーツが濡れることを嫌う。ふかした煙が忌むべきものだったのも遠い昔だ。僕はもう生きる街を選ばない。その昔かついだ石入り鞄よりずっと重いキャリーケースには車輪が付いていて引き摺ることはあっても引き摺られはしなかった。切符は正規の値段で買う。もちろん咎められはせず、僕らは存分に列車を待つことを許されていた。誰もが列車を待つ間、持て余した暇の使い道を考えている。噴水に飛び込めたらと思う。高い声でつまらないことにも笑えたらとも思う。やがて人々は吐き出されたり吸い込まれたりしながら、プラットホームからはけていき、落ち着きとともに列車は走り出す。もうそれは別れでさえない。一日の一部だ。陽は昇り、また沈んでは昇りを繰り返す。夕暮れというのは今年でいくつになるのだろう。僕なんかよりずっと年上なはずの陽の光はまるで褪せることもなく愚かな期待の羽根を焼く。顎を摩るとざらついて、それが全部だった。

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