Exit

 桜色のスクリーンがやわらかく解けていく。

 やはり僕はその場に呆然と立ち尽くすほかない。

 取り戻した様々な記憶が僕を十分に混乱させていた。

 最悪の気分だった。

 この場に跪き、胃の中のものを全て吐き戻してしまいたかった。

 けれど薄暗い後悔も奥歯を鳴らすほどの戦慄もここに立つ僕にとってはまるで他人の夢だとでもいうように素知らぬふりをしてまた歩き始める。


 僕はなぜあんなことをしてしまったのだろう。


 そう考えずにはいられなかった。

 兄のそばに侍り、兄に従い、そして兄を敬っているふりをしていればそれで平穏な日々が約束されていたはずなのに。

 けれどその答えはわりと見え透いているように思えた。

 答えはきっとあの先にある。

 確信めいた視線を送ると霧の向こうにうっすらと四つめの角が見えた。

 あそこを曲がった先にこの回廊の結末があるのだろう。

 怖いか。

 その自問に僕はわずかに首をかしげた。

 怖くはないといえば嘘だ。

 けれど恐怖とはまた別の不穏な感情が胸のどこかにひっそりと身を隠している。

 それがなにかは分からない。

 僕はふと思い出したように視線を真横に向けた。

 すると予期していたよりもずっと美しい光景がそこにあった。


 満開になったしだれ桜。

 いっせいに花開いた無数の花弁。

 それは天空から降りてくる薄紅色の瀑布と見紛うほどに。


 僕は眩しげに目を細める。

 のっぺりとした灰白色の霧中に屹立する桜はただそれだけで情婦のように艶かしく映る。

 僕はフッと短く息を吹き出し、視線を道へと戻す。

 どうやらそれぐらいの自由は許されているらしい。

 確実なことがひとつだけある。

 あの角の先、そこにはあずきがいて、そして僕はなにかしらの決断を下す必要がある。

 そして彼女が自分をと言った意味も明らかになる。

 僕は決意した。

 足は前に進み続け、やがて右に舵を切った。

 すると花びらが舞い、四枚目のスクリーンで僕を取り囲んでいく。


 薄暗い部屋で僕は椅子に座っていた。

 視界がぼんやりとして部屋の様子はよく分からない。

 立ちあがろうとしたができなかった。

 僕の両腕は後ろ手にされ、椅子の背に縛り付けられていた。

 また身体を動かそうとするとあちこちに鋭い痛みや痺れを感じて僕は呻いた。

 

「おはよう、鳴海」


 耳慣れた声に顔を上げると薄闇に兄の顔が浮かんでいた。


「驚いたぜ。おまえにこんな派手なことをする度胸があったなんてな」


 そう言って快活に笑った兄はジャケットの内ポケットからタバコを取り出して咥えた。


「まあ、気持ちは分からんでもない。足の着かねえ大金だ。天下の回りもんを幾許いくばくか自分の懐に入れたところで誰にも文句を言われる筋合いはねえよ、けど」


 細工が刻まれた金色のZIPPOで火をつけた兄はそこで細い煙を吹き出した。


組織オレの金に手を出すとは鳴海、こりゃいったいなんの余興だ」


 悪人に似つかわしくない兄の澄んだテノールを耳にしながら僕はいま一度おもむろに部屋を見渡す。

 目が慣れたのか、あるいは意識がはっきりしてきたせいか、視覚が部屋の様子をおぼろげにとらえる。

 それほど広い部屋ではない。

 白っぽい壁紙。木製のドア。

 真横に書斎机。

 その向こうにキングサイズのベッド。壁には重厚な額縁の絵画。油絵のようだがはっきりとは見えない。

 視線を外そうとした僕はベッドの上に蠢く何かを見つけて目を瞠った。

 僕の表情に気がついた兄は顔をしかめてその何かを指差した。


「ところで、おまえさ。こんな痩せぎすが良かったのか」


 そしてベットの傍らに足を運び、それを見下ろしながら不思議そうに首をひねる。

 それは手足を拘束され、さらに猿轡を噛まされているのだろう。

 くぐもった呻きを上げながら全裸の身をよじっている。


「この女が洗いざらい喋ってくれたぜ。こいつの腹ん中に赤ん坊がいるんだってなあ。しかもそれが鳴海、おまえのガキだって言うじゃねえか。本当なのか、そりゃ」


 咥えタバコで振り向いた兄に僕はひとしきり逡巡し、それからわずかにうなずく。すると途端に兄の高笑いが部屋に響き渡った。


「おいおい、言ってくれよ。そういうことは兄貴である俺に真っ先にさあ」


 そして笑声を鎮めた彼はタバコを紗江の太腿に押し付けた。

 潰された悲鳴が耳に届き、僕は思わず目を伏せる。


「今のはちょっとした祝儀だ」


 その言葉に薄目を開くと兄はいつのまにか正面に立ち怪訝な顔つきで僕を見つめていた。


「けど、まあそんなことはどうでもいい。おまえがどこの誰を孕ませようと俺の知ったことじゃない。でもよ、それにしてもこの痩せぎすな女はいったいなんだ。もしかしておまえ、俺が連れてきた女どもと仕方なくヤってたてのか。そうなのか。ハハッ、傑作だぜ。笑えるなあ」


 兄は自分の価値観を否定されることにひどく臆病だった。

 そしてそういう気配を少しでも漂わせた者には容赦なく制裁を加えた。

 圧倒的な暴力は独断的な世界を構築することをかくも許してしまうのだと僕は兄から学んだ。けれどそれゆえに僕はそのいびつな兄の世界からの逃避をいつも夢見ていたように思う。


「だったらよ、細身の女を用意してくれって正直に頼めばいいじゃねえか。そうすりゃ別に文句はねえよ。なんなら街で見かけた女を指させばそれで済むぜ。誰かがそいつを連れてくる。俺は俺の女を、おまえはおまえの気に入った女を抱く。それでウィンウィンだ。それが多様性ってもんだろ」


 兄の声が、そのトーンが徐々に尖っていく。


「ふうん、そうか。そうだったんだな。従順なふりをしておまえは内心で俺を嘲笑ってたってわけだ。こいつ、デブ専かよってな」


 兄が踵を返した。そして僕の前で屈み、耳元に唇を近づける。

 タバコの匂いが鼻をついた。


「でもまあ、それもいいさ。許すわけじゃねえが、そりゃまた別の話だ。けどな、今回の件はいくら可愛い弟とはいえさすがに見過ごせねえ。これでお咎めなしじゃあ組織の不満が暴発するだろう。いくら俺でも抑えが効かねえよ」


 そう囁いた彼は腰のあたりからなにかを取り出して僕の目前にかざした。


「選べよ、鳴海。おまえにとってどっちが都合のいいみそぎだ」


 ヒヤリとするサバイバルナイフの横腹が頬にペタペタと当たった。


「これで自分の首を掻っ切るか、それともあの痩せぎすな女の下腹を裂いて赤ん坊を取り出すか。二つに一つだ。まあ、どっちが得かは誰がどう考えても明白だろうがな」


 その言葉が聞こえたのだろう。

 ひと呼吸ほど間をおいて紗江が暴れ始めた。

 けれど手首を縛ったロープはベッドヘッドに括り付けられているようで、露わになった下半身が釣られた魚のように左右にのたうつ。

 ただ、それでもくぐもった悲鳴はそれなりの音量で部屋に響き渡った。

 それを兄は横目に睨んだ。


「うるせえ、カス女。ここは山ん中だ。どんだけわめいても誰も来ねえよ」


 そして腰を浮かせて、そこでふと思い出したように告げた。


「ああ、それと茶髪の男は死んだぜ。弾丸たまがこめかみに当たってな。まったく幸せなこったよなあ。こんだけのことしておいて拷問受けずにあの世に行けたなんてよ。だが、まあいい。その分はてめえにきっちり払ってもらうからなあ」


 言い放ち、不敵に嗤ったその声に紗江の呻き声がさらにボリュームを上げる。


「なあ、鳴海。俺は世の中の誰も信用しちゃいねえ。おまえ以外の誰もだ。お袋も親父も幹部たちの誰もだ。おまえだけが俺の家族だ。いいか、俺はおまえを愛してるんだ。理由なんてねえ。結局は感覚なんだよ、そういうのは」


 兄がナイフで僕の手首を縛ったロープを切った。

 そして奥襟をつかんで僕を立たせ、よろめく僕をベッドの傍らに引きずっていった。


「だからな、鳴海。俺はおまえを失いたくないのさ」


 耳元で兄が囁く。


「だからな、鳴海。この女を殺せよ。ここにこうやってコイツを突き立てればいい」


 暴れる紗江の脚を押さえつけた兄はナイフの先で陰毛の生え際をゆっくりと刺した。

 部屋にくぐもった絶叫が響く。 

 白い皮膚にドス黒い血の球が浮き、それがしずくとなってひとすじ流れ落ちた。

 紗江の長い黒髪はベッドの上でぐしゃぐしゃに乱れ、その両眼は恐怖に目一杯見開かれた。溢れる涙は化粧を滲ませ、その周囲を青黒く染めていた。

 まるで道化師のようだなと僕は少しおかしな感想を頭に浮かべた。

 それからやはりまともには見ていられず、目を逸らすと不意に兄は僕の腕を取り、手のひらにナイフの柄をうずめた。


「印は付けておいた。あとはそこめがけてブッ刺すだけだぜ。鳴海、やれよ。おまえのガキを俺に見せてくれよ。今、この場でな」


 込み上げてくる可笑しみを噛み殺した兄は窓際に歩み寄るとゆったりとした動作でカーテンを開けた。

 刹那、部屋全体が真っ白な光にさらされた。

 余りの眩さに反射的にうつむいた僕はしばらくしてゆっくりと目線を上げていく。

 黒だと思っていた絨毯は深い臙脂色をしていた。

 白い壁はよく見ると淡いアイボリーだった。

 ベッドのシーツはやはり純白で、紗江の血がそこに複雑な形の赤黒いシミを描いていた。

 飾られていた絵画は日暮れの街を描いた印象派のようだった。

 気が付かなかったけれど額縁の隣には鏡が掛けられていて、そこに青白い僕の顔が映っていた。

 そうか、僕はこんな顔をしていたんだっけ。

 ぼんやりとそんな他愛のないことを思ったそのとき、僕の中に眠っていたなにかが不意にきらめいたのを感じた。

 もしかして。

 そして逸る気持ちを抑えきれずまぶたを薄く開けて窓の外に視線を向けると、そこに待ち受けていたのは僕が予想したままの光景だった。


 ガラスの向こう。

 それは春風に花びらを舞い散らせるしだれ桜。


 抱えていたいくつかの謎や疑問が紅茶に落とした角砂糖のようにほろほろと崩れ去った。


 そうか。

 そういうことだったんだね、あずき。


 その瞬間、僕の中ですべてがつながり、そしてすべてを解した。

 僕は深く安堵し、窓の外を見つめながらやがて静かに口を開く。


「兄さん、僕はあなたのことを尊敬している」


「ほう、そりゃ初耳だ。てっきりゴキブリみてえに嫌われていると思ってたけどな」


 兄がおもむろに腕組みをする。

 すると背に逆光を浴びたその姿はひょろりとした一本の影すじのように見えた。


「うん、嫌いだよ。大嫌いだ。けどね、その嫌悪がひれ伏すぐらい尊敬もしているんだよ。ただ一点においてだけね」


「ふん。そんな憎まれ口を叩いたところで手放すつもりはないぜ。おまえは一生俺の作った檻の中だ」


 僕は軽く肩をすくめた。


「分かった。でもひとつだけ約束して欲しい」


「なんだ、言ってみろよ。いいぜ。おまえがちゃんとできたらご褒美に約束でも命令でも聞いてやる」


 その答えに僕はうなずき、右手のナイフを握りなおした。


「良かった。安心したよ。兄さんは約束をたがえない。どんな相手でも、どんな約束でも絶対に。それだけは本当に尊敬してるんだ」


 そして不審げに首を傾けた兄に僕は精一杯の微笑みを向けた。


「兄さん、たしか選択肢は二つだったよね。紗江の腹を裂くか、僕が自分の首を掻っ切るか」


「鳴海、おまえ、まさか」


 逆光の影に兄が表情を変えるのが見て取れた。

 そして腕組みを解き身構えると片足をベッドに乗せる。

 その剣呑な気配に紗江がふたたび喚き始めた。


「約束だよ、兄さん。僕が死んだら彼女を無事に解放して」


「おい、やめろ。そんなことさせね……」


 両手で握ったナイフの刃を首に当てると跳躍して近づいてくる兄がスローモーションになった。


 僕は心の中で詫びる。


 ごめん、あずき。

 キミの願いは聞いてあげられそうにない。

 だって僕はキミの……。


 紗江を飛び越えた兄の腕が僕に迫ってくる。

 その背景は朧げな紅色。


 そこにいなければいけないのはきっと僕のほうだから。

 

 目前に迫った兄の顔が焦りに歪んでいる。

 それを見つめながら僕は奥歯を噛み締め、ナイフの刃を勢いよく自分の首に滑らせた。

 痛みはなかった。

 ただ焼けるような熱が首筋に走り、そして血液が噴き出していく感触があった。

 倒れていく身体を兄が受け止め、その肩口に顎を載せる格好になった。

 血飛沫がベッドにまだら模様を描いていくのが見えた。

 耳元で兄が大声でなにか叫んでいる。

 視界が霞んでいく。

 意識が遠ざかっていく。

 僕は最後に呟く。


「兄さん……その子の名前は……あずき……だよ」

 

 そして世界は閉じられた。


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