Corner 3

 僕はまたもや呆然とその場に立ち尽くし、再び目の前に現れた桜色の道を見つめた。

 なぜあんな芝居を打つ必要があったのか。

 さっぱり意味が分からない。

 けれどそこに不穏な気配が満ちていることだけはしっかりと感じ取れる。

 僕はひとしきり眉をひそめ、やがてなるほどと得心すると再び足を前に進め始めた。

 要するにこの回廊は僕の過去なのだ。

 そしてそれらを時系列でたどり、全てを見せた上でなんらかの決断を僕に求める。たぶんそういうことなのだろう。

 なんと回りくどいと少々呆れたが、それでもあずきが望んでいるのならやむを得ないことなのだろうと僕は自分に言い聞かせる。

 そしてさっき見終えた映像についてもう一度考えを巡らせてみた。

 男のことはやはり何も思い出せなかった。

 名前も素性も分からない。

 ただ物騒な印象だけが残っている。

 僕は呟いてみた。

 紗江。

 別に彼女のことを思い出そうとしたわけではなかった。

 なんとなくそういう名前だったと思い返しただけのつもりだったが、すると思いがけず脳裏に褐色じみた映像が浮かんだ。


 それは最初、土中で冬眠する小さな動物の写真に見えた。

 とても矮小で出来損ないの手足を持つ得体の知れない動物。

 けれどそれがわずかに蠢いた瞬間、僕はその正体をはっきりと思い出した。

 リアルタイム3Dエコー画像。

 生後三ヶ月の人間の胎児の姿。


 紗江のいうようにはその表情までが見てとれたわけではなかった。

 顔が横向きだったせいかもしれない。

 けれどその小さな手足は時折ぎこちなく動き、羊水の中で必死に向きを変えようとしているように見えた。

 紗江の下腹部には紛れもなくひとつの生命が宿っていた。

 それを目の当たりにした僕の中にどういう感情が芽生えたのか。

 それもうまく思い出せない。

 その胎児が本当に自分の遺伝子を受け継いだものなのかどうか、たぶん、そういうことを疑っていたような気がする。

 そこで記憶はふっつりと途絶えた。

 なぜだろう。

 不意にそこはかとない腹立たしさが込み上げてきた。

 そして同時にそれが現実世界の僕が抱えている身悶えするほどの感情であることも不思議と理解できた。

 けれど誰に対してのものかは分からない。

 僕が紗江に向けた怒りだろうか。

 あの胡乱げな男への復讐心だろうか。

 それともその対象となるべき人物がまだ他にいるのだろうか。

 判然としない心持ちを抱えたまま僕は進んでいく。

 右手にはやはり怪異のような姿を晒すしだれ桜がひっそりとたたずんでいた。

 けれど蕾に目を凝らすとさっきよりもずっと大きく今にもほころびてしまいそうに膨らんでいた。

 どうやら桜は僕が角を曲がるたびに開花へ向けてそのステージを進めていくようだった。

 僕は桜に向けて彼女の名を呟いてみる。

 一度だけ、それもほんのわずかな時間をともにしただけの彼女がなぜか胸を抉られるほどに愛おしかった。

 あずき。

 唇がその形に動く。

 けれど声は出ない。

 なんとか声を吐き出そうと抗ってもただ細切れのような息が漏れ出すだけだ。

 僕は諦め、代わりに彼女の姿を思い浮かべてみる。

 するとその幻像は結びかけて、儚くほつれて散っていく。

 しっかりと目に焼き付けたはずなのに、すでにあずきを思い返すことさえできない。

 まるで自分がこの桜道をたどるためだけに作られたロボットのように思えて、その虚しさにため息をつくと刹那、また霧がわずかに開いてそこに三つ目の曲がり角が現れた。

 そして僕は三度みたびの桜吹雪に包まれていく。

 

「ヤベえ。気付かれたんじゃねえのか」

 大きく膨らんだリュックを背負った茶髪男が血走らせた眼を背後の僕に向ける。

「なによ、防犯センサーやカメラは切っておいたはずじゃなかったの」

 黒いニット帽とネックウォーマーで顔を隠した紗江も振り向き、眉根を引き攣らせて咎めた。

 僕は走る彼らを追いながら弁解する。

「もちろん全て切った。けど、僕の知らないセンサーがあったのかもしれない」

 そう答えた瞬間、僕の脳内で暴発したようにとめどない記憶が奔流となって溢れ出た。

 そこは郊外にある寂れた電子部品工場。

 その地下室に組織の金が集められていることを金庫番である僕が知らないわけがなかった。

 麻薬、売春、特殊詐欺、広域指示強盗。

 口が裂けても出所を明かせない金がここにストックされ、そして一定の額を超えると地下銀行で洗濯ロンダリングされて真っ当な金になる。

 そういう仕組みだと組織の首領である兄は言っていた。


 兄。


 彼は本来の意味での家族ではなかった。

 僕の母は側妻だった。

 相手は、つまり僕の父親は大手IT企業の重役で、兄はその家のひとり息子だった。

 無論、僕と兄の間に一抹の交流もない。

 だから僕は十七歳の時までその存在さえ知らなかった。


 ある日、高校の授業を終えて住んでいたアパートに帰宅するとドアの前に背が高くほっそりとした体型の男がたたずんでいた。

 彼の髪はツイストパーマがかかった淡い緑色で体と同様に顎のラインも細く、薄い色のサングラスを掛けていた。

 数歩手前で立ち止まった僕が訝しげな視線を送ると彼はサングラスを少し下にずらして上目遣いに僕を見つめた。


「おまえが弟くんか。初めましてだな」


 首を傾げると彼は遠慮のない足取りで僕に近寄り、いきなり肩を抱いた。

 タバコの匂いが混じるきつい口臭がした。

 よれたTシャツと短パンに、その装いにはまったく不釣り合いな見るからに高級なカーキ色のジャケットを引っ掛けていた。


「鳴海、今日から俺の組織に入れ」


 耳元で囁かれたその不穏な言葉は決してまともには断れない気配に満ちていた。そして僕は否応もなく組織に引き込まれてしまった。


 僕はそこでなにをしていたのだろう。

 具体的なことはなにも思い出せない。

 けれど危険が伴うような仕事はひとつとしてなかったように思う。

 ただ組織がアジトとしていたどこかの雑居ビルで兄の吐き出す紫煙を見つめながら胡乱げな話を聞いていただけのような気がする。

 あるいは集められた金をパソコン上の帳簿に付け、少しばかり複雑なシステムを介してそれを一旦曖昧で有耶無耶うやむやなただのデータに変換し、最終的に誰にも追求されようのない真っ当な金に戻していく。

 そういう仕事をしていた。

 どうやら僕は一介の大学生にしてはそういうスキルに長けていたようだった。

 そしてその仕事ぶりに兄も満足していたのだろう。

 兄は僕を本当の弟のように扱った。

 常にそばに置き、他の側近たちには決して見せないような柔らかな表情を見せ、たまに一緒に女を抱いた。

 兄の連れてくる女たちは皆一様にふくよかな体つきをしていた。

 そして舌足らずな喋り方をして、なにも拒まない女たちだった。

 応接ソファをベッド代わりに僕たちは代わるがわるに相手を変えて彼女たちを抱いた。


 薄紅色のスクリーンに工場裏の駐車場が映った。

 夜だ。

 外灯の光が一台のワンボックスと背の高いフェンスを照らしている。

 かつての僕の視界だとすぐに思い出した。

 前を茶髪の男と紗江が走り、僕はそれを追っている。

 後ろからは駆けてくる複数の硬い足音。

 慌てた様子で車に乗り込む男と紗江。

 そして自分が後部座席に飛び込んだ矢先、パンパンとクラッカーが弾けるような音がした。

 それと同時にフロントガラスに蜘蛛の巣のようなヒビが刻まれる。


「マジかッ。撃ってきやがった!」

 

 運転席の茶髪が身を屈めながらエンジンを掛ける。


「ひいッ、こんなの聞いてないわよッ」


 助手席で膝に頭を抱え込んだ紗江が悲鳴を上げた。

 男がギアをドライブに入れ、アクセルを全開まで踏み込むとエンジンが唸り、前輪が空回りしてけたたましい悲鳴を上げた。

 そして次の瞬間、何もかもを放り出すように加速する。


 パンッパンッパンッ……。


 いくつもの乾いた音が車内を牛耳るエンジン音を裂いて鼓膜に飛び込む。

 ガラスが割れる音がした。

 ワンボックスがうねるような蛇行を始めた。

 銃声が止み、伏せた頭をわずかに持ち上げると照らすライトの向こうに工場の壁が見えた。


 ぶつかる。


 僕は反射的に両手で頭を抱えた。

 そして刹那、凄まじい衝撃を感じ、そのまま意識が遠退いた。


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