Corner 2

 映像が終わると桜吹雪のスクリーンはゆっくりと回転を緩めていき、つむじ風と成り果て、やがて花びらを吹き散らして消滅した。

 僕はひとしきり呆然と立ち尽くした後、ひとつ小さなため息を落としてから再び桜色の道を歩み始めた。

 よりによって一番思い出したくない人物が映像となって現れたことに僕は困惑していた。


 彼女は詐欺師だ。


 僕がそう蔑んでいたことは確かだ。

 その強烈で歪な印象が僕の中のどこかにある感情の鍋から吹きこぼれているのが分かる。

 けれどそれだけだった。

 さっき見た映像以外の彼女を思い起こそうとしても何も浮き上がってこない。

 彼女の名前さえ思い出せない。

 僕は諦め、緩慢に首を振った。

 次に組織のことを思い出そうとした。


 組織。


 うっすらと覚えている。

 表向きは善良な顔つきをしているが、裏の世界のそのスジでは一目も二目も置かれる剣呑な集団。

 たしか僕はその首領と不離一体の関係にあり、金庫番、あるいは会計士のような重要な役割を与えられていたと思う。

 しかしそれ以上に具体的なことはやはりいくら考えてもひとつとして思い出せない。

 どうやらこの不可思議な空間において、僕の記憶操作能力は自分以外の誰かに完全に掌握されているようだった。

 ただそれも仕方のないことなのかも知れない。

 いくら理不尽に感じたとしてもままならないルールというものがどの時代にもどの世界にもある。

 それはとても普遍的なことであり、僕のようなひとときの流離者さすらいものが物申すことなど決して許されないのだろう。

 けれどそれでもひとつだけどうにも頭から離れない疑問がある。

 それはこの断片的な記憶とあずきにどんな接点があるというのかということだ。

 もちろんそれについてもなにも思い浮かばない。

 答えは後のお楽しみということなのか。

 ずいぶんと性悪なものだと吐き捨てようとすると途端に軽い眩暈を覚えた。

 なるほど、この世界では愚痴も許されてはいないようだ。

 僕は代わりにひとつ細長い息を吐き、右手に目を移す。

 するとやはりそこには霧に霞んだしだれ桜が影絵のようにたたずんでいた。

 けれど気のせいかそのシルエットがさっきまでとはどこか微妙に違って見える。

 目を凝らすとその理由が分かった。

 地上へと落つる数多あまた流星の如き傘を模るしだれ桜の細い枝先。

 そこに丸みを帯びた突起が無数にある。

 きっとあれは蕾だ。

 わずかに目を瞠るとそのとき道はまた右手に折れ、ふたたび桜吹雪が舞い始めた。


 円筒形のスクリーンに次に映し出されたのは胡乱げ顔つきをした男の横顔だった。

 彼はヘラリと唇と曲げ、その充血した目を僕に向ける。


「なあ、あんた。まさかこのままタダで済むとは思っちゃいねえよな」


 場所はショットバーのカウンターのようだ。

 薄暗い店内、年季の入ったカウンターの向こう、棚に並ぶ酒の瓶がいくつか鈍いオレンジ色の光を反射している。

 そして少し離れたところにバーテンがいて、よそよそしく静かにグラスを磨いていた。


「人の女に手え出してよ。その上、孕ませちまいやがって。最近の若い奴は避妊もできねえのかよ、まったく。ハハ、世間知らずの坊ちゃんにも程があるぜ」


 男はそう吐き捨てると球形の氷がすっぽりと収まったグラスを傾け、スコッチだかブランデーだかの琥珀色をした液体を喉に流し込んだ。

 歳は三十代半ばといったところだろうか。

 年甲斐もなく髪は茶髪で耳には金色のピアスを付けている。

 僕は黙ったまま、ただ自分の前に置かれたグラスを見つめている。

 中身はたぶん水だ。氷すら入っていない。

 これが美人局つつもたせというやつかと僕はぼんやりと思っている。

 女との約束通り、連れ立って産婦人科に赴いた後、数日も経たずにこの男が近づいてきた。

 そして彼は初対面だというのに馴れ馴れしい態度で僕の肩を抱き、耳元に酒臭い息を吹きかけた。


「込み入った話があるんだよね。ちょっと付き合ってくんない」


 そうして連れてこられたのがこの場末のショットバーだった。


「だけどよう、紗江も健気だよな。そんなもん黙って堕ろしときゃバレやしねえのに、授かった命を無碍むげにはできないなんてわざわざ俺に打ち明けやがるんだからさ」


 紗江。


 そう、確かに彼女はそういう名前だった。

 映像の中の僕はやはりうつむいたままでいる。

 おそらく気が弱いふりをしているのだろう。

 その様子にほくそ笑んだ男はまた酒を煽る。


「でさあ、それが別れ話だっていうんだよな。けど俺はこう見えて案外一途なわけ。だから別れないでくれ、なんて紗江にみっともなく泣きついてよ。ククク、ところで、なああんた。この話、信じてくれる」


 嘲りのように笑った彼は褐色の短髪をサッと撫でた。

 その袖口、手首に蠍のタトゥーが覗き見えた。

 ため息を吐きたい衝動を僕はなんとかこらえていた。


「まあ、なんにせよ。ボク、深く傷ついちゃってさ。でも紗江の決意も尊重したい気持ちもあってね。だからさあ、この心の穴を埋めるための慰謝料っつうの。あんたにお願いできないかなと思ってさあ」


 おどけた男の口調に僕は軽く奥歯を噛む。

 この安っぽい茶番にほとほと嫌気が差しているらしい。

 それにしてもこの男、よりにもよって自分に吹っかけてくるなど余程の度胸の持ち主か、あるいは裏の世界のことなどこれっぽっちも知らないただのドン・キホーテなのか。

 きっと後者だろう。

 ただ、どちらにしても別にどうということもない。

 突っぱねてしまえばいいだけだ。

 なんとなれば組織の誰かに打ち明ければいい。

 そうすればこのチンピラ風情は今夜にでもどこかでひっそりと死体に変わるだろう。

 けれど映像の中の僕はいつまでも黙ったままでいる。

 このときの自分がいったいなにを考えていたのかやはり上手く思い出せないが、そこはかとなく嫌な予感がした。

 やがて画面の僕はぎこちなくうなずき、そして顔をうつむけたまま「どうすればいいですか」と消え入りそうな声で訊いた。

 するとせせら笑う男のピアスが一瞬きらめき、そしてまたスクリーンはゆっくりと回転を止めて花びらを散らせて消えた。


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