第9話 ドイツ人の旅客

 ゆっくりと食堂車の扉が開く。列車にしては珍しく観音開きになっている豪奢な扉は、給仕の手によって開く構造になっていた。

 まずタキシードを着た峻一朗が姿をあらわす。

 彼はゆっくりと手を取り、一人の女性をエスコートする。

 食堂車の中にどよめきが起こる。

 皆の目が扉をくぐる女性の姿に釘付けとなった。

「......どこの王家の方ですかな......」

「......召されているドレスは、やや地味ではあるが尋常ではない。財閥の系譜か......」

「......一緒の東洋人は確か......」

 食堂車の客人たちのひそひそ話が峻一朗たちの耳にも入るが、気にしない。それは予想通りの反応であったからだ。

 予約していたテーブルにつき、峻一朗はボーイに指示を出す。

「ナジェージュダお嬢様、今宵も麗しくてらっしゃる」

 ナージは峻一朗の言葉に眉をひそめる。

「あまり嬉しくはないですね。いつもながら」

「そういうな。そっちが本当の姿だろうに。ナージ」

 ふんと視線を横にナージはかわす。

 本当の姿。普段は少年のような格好をしているナージであったが、必要に応じて本来の性――少女もしくは女性の格好をすることもあった。とりわけ上流階級の空間に入り込むときに、彼女の外見はなにより武器となるものであった。

 テーブルにはオードブルが並び、そしてスープが後に続く。

 完璧なテーブルマナーを見せつける二人。『公爵夫人風コンソメスープ』が運ばれた頃合いに、声がかかる。

「食事中誠に失礼します。セドラークからの旅路、その立ち振舞から王家に属する方と思われますが」

 若い青年の声。高級そうなスーツとテーブルの一人にしては豪華な食事は、彼の立場をあらわすものであった。

 あえて怪訝そうな視線を峻一朗は返す。それに気づいた若い青年はああ、と言って一枚の名刺を差し出した。

「私、ベルリンに本拠を構えるライゼガング商会の頭取、アルトゥール=フォン=フリューガーと申します。先日まで商用でセドラークにいたもので。どうやら同じくベルリンへ向かう感じではと。これもなにかのご縁、お話でもさせていただければ幸いです」

 ライゼガング商会。その名前に比して巨大な資本を持つ大企業である。第一世界大戦後のドイツの混乱を乗り切り、ドーズ案が動きだしたあとはアメリカに工業製品の大量の輸出を行い一大財閥を形成していた。その頭取ともなれば、ちょっとした小国の国王よりも財産も権力も劣らないものがあるに違いない。

 しずかにナージがうなずく。

 それに峻一朗が同意し、テーブルにアルトゥールを招き入れた。

 餌にかかった、峻一朗はこころの中でつぶやく。

 ライゼガング商会頭取アルトゥール=フォン=フリューガー、王女リーディエから預かった書類にあった名前である。

 在ヴァイマール共和国セドラーク王国参事官フベルト=ムラーゼクと『極めて』接触があったドイツ人として――

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