横浜中華街
赤い提灯が吊るされた横浜中華街の細い街路は、異国情緒を漂わせながらも、やはり、疑いもなく日本の街であることもわかる不思議な光景だ。
その街路を私は一人、歩いている。最後の晩餐だ。この旅を振り返りながら、”あいつ”の好きだった中華料理を食べよう。
だが、せっかくの中華街だし、この旅最後の食事なのだから豪華にコース料理を食べたいと思った私の望みは、そう簡単には叶わなかった。どの店も、コース料理は二人前からなのだ。
とある店で「一人前から用意してもらえませんか」と尋ねたが、「うちは二人前からです」と素気無く断られた。
どうしようかと途方に暮れていると、「一人用のコースはありませんか」「うちは二人前からです」と、まるで私がさっきしたようなやり取りが聞こえてきた。声のした方を見ると、年配の女性が沈んだ顔で店の扉から出てきた。そして、今一度、店の方を振り返ると残念そうに溜息をつき、諦めきれないといった体で店の前で佇んでいた。
「すみません」
自分でも驚いたことに、私はその年配の女性に声をかけていた。
「お一人ですか? 私もなんです」
ずっと一人旅をしてきたせいで、いつの間にか人恋しくなっていたのだろうか。
「せっかく中華街に来たから、コースで食べたいと思ってるんですが、どの店も二人からで私も困っていたんです。今、お店の人とのやり取りをしている声が聞こえて、もし、良かったらご一緒しませんか」
いきなり、見ず知らずの他人からこんな言葉をかけられても、断られるかなと思ったが、
「それは助かるわ。ぜひ、ご一緒させてください」
と笑顔で快諾された。私も思わず笑顔になる。
「これも何かの縁ね。どこの店がいいのかしら」
「そうですね」
私もそんなには詳しくない。
「今の断られたところに入るのはなんなんで、隣の店にしましょうか?」
「はい、お願いします」
隣の店も一人だったら断られていたのかもしれないが、一度、断られた店に入るのは気分が悪いので避けよう。
どこの店も似たような造りだが、隣の店は緑色の屋号の看板をかかげ、店頭にはおいしそうなコース料理の写真が飾ってある。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
店に入ると、少しアクセントに違和感があるが、元気のよい挨拶が私たちを迎えた。中国人の店員だろうか。大学生ぐらいの年頃の若い男だ。
「二人です」
「こちらへどうぞ」
中華料理というと丸くて回転するテーブルが思い浮かぶが、普通の四角いテーブルだ。メニューを開いてコース料理を確認する。
「こちらの、翡翠コースでいいですか」
「はい、それでお願いします」
一人四千円の八品のコースだ。高すぎず、安すぎずといったところか。私は店員がお茶を持ってきたタイミングで料理を注文した。お茶はポットに入ったジャスミンティーで、茶碗に注ぐと良い香りがする。
見知らぬ人と、「一人旅ですか」「ええ、そちらも」という当たり障りのない会話で料理が来るまでの時間を過ごす。
「お待たせしました、前菜の盛り合わせです」
元気のよい店員が皿を二つ持ってきた。それぞれの皿に、よだれ鳥と自家製チャーシュー、きくらげ、いかの冷菜の一人分が載せられている。これなら一人でもコースを注文できそうにも思えるが、店にもいろいろと都合があるのだろう。
「いただきましょうか」
「はい」
まずは、きくらげだ。コリコリとした歯ごたえが、これから食事が始まるぞとあごの筋肉を刺激する。そして、チャーシュー。口に入れたとたん、とろけるような柔らかさだ。
「おいしい!」
「ほんとね!」
思わず二人とも笑みがこぼれた。イカの辛口の冷菜はビールによく合う。老婦人もごくごくといける口のようだ。二人とも前菜を綺麗に平らげ、アルコールも入ったせいか、口が軽くなる。
「今日はね、千葉に行ってきたの」
「千葉ですか」
東京からだと横浜とは反対の方向だ。
「
最近のシニアは健脚な人が多いが、この人はいわゆる山ガールと呼ばれる人なのだろう。
「それで、帰りは
ちょっと金谷港の場所がわからないが、たぶん千葉の先の方だろう。久里浜は三浦半島の先なので、電車と船を使って東京湾をぐるっと一周してきたようだ。
「すごいですね」
「年寄りは、時間が余ってますから」
老婦人が、少女のようにけらけらと笑った。
「『青春18きっぷ』っていうお得な切符があるのよ。こんなおばあちゃんが使うのもあれだけど、電車が乗り放題になるの」
「えっ、『青春18きっぷ』を知ってるんですか! 私も『青春18きっぷ』で旅をしてきたんです」
全く予想だにしなかった言葉が老婦人から出てきて、思わず自分の耳を疑った。
「そうなの! それはすごい偶然ね」
老婦人もまた、私が『青春18きっぷ』の旅をしていると聞いて驚いたようだ。
「あなたは、どこから来たの?」
「それは」
どう話せばよいか、思わず口ごもった私に
「ごめんなさいね。詮索してるみたいになって」
老婦人が遠慮がちに謝った。
「いえ、そんな。ただちょっと長い話になるので」
これも何かの縁なのかもしれない。『青春18きっぷ』の旅をして、最後の食事に『青春18きっぷ』で旅をしている見知らぬ人といっしょになるなんて。
「本当は、私は全然『青春18きっぷ』には興味が無かったんです」
私は話し始めた。幼馴染に『青春18きっぷ』を貰ったことを。それを怒って突き返そうとしたことを。
だが、返せないでいるうちに、その相手が交通事故で突然死んでしまったことを。
どう自分の気持ちの整理をつけていいかわからず、精神的にまいりかけたときに、リュックを背負って旅に出た。『青春18きっぷ』といっしょに贈られた旅程に沿って。
私が一方的にしゃべっている間に、牛肉のオイスター炒めや、フカヒレの姿煮、空心菜の炒め物などが運ばれてきた。食事をしては話し、また、食事をしては話す。老婦人は相槌を打ちながら、私の話を真剣に聞いてくれた。
そして、旅の終わりの横浜での話にかかると、フランス料理店で出てくるようなかわいいマンゴープリンのミニパフェが運ばれてきた。
「おいしかったわね」
「はい」
時々涙ぐんでいた私だったが、味覚は正直だ。おいしい、どの料理もクオリティが高く、味覚から得られる幸福感を心が感じている。
「悲しいのに、おいしいです」
「それでいいんじゃない。あなたは生きてるんだから」
老婦人がやさしく微笑んだ。
「実はね、わたしも最初『青春18きっぷ』なんてってバカにしてたのよ」
「えっ?」
老婦人が、まるで子供が秘密の話をするような口調で言った。
「亡くなった主人が、『青春18きっぷ』を使って毎年のように出かけててね。いい歳した爺さんが『青春18きっぷ』なんて恥ずかしくないのって言ってたわ。まぁ、私の文句なんか全く聞く耳持たなかったけどね」
「そうなんですか」
「それが主人が死んで文句言う相手もいなくなって、年寄りは暇でしょ。しょっちゅう墓参りなんかしてもしょうがないしね。それで、供養の代わりに主人の好きだった『青春18きっぷ』で廻ってみたのよ。最初は近場で、小田原とか水戸とかね。そしたら、便利じゃない。ちょっと遠出すれば、往復するだけでも元がとれるし」
たしかに片道千円ぐらいの場所に行って、途中下車すれば、それだけで普通に乗車料金を払うよりも安くなる。
「それで今は楽しんでるの。老後の青春をね」
老婦人が朗らかに宣言した。老後の青春か、かっこいい。
「亡くなったご主人と、いっしょに行かなかったことを後悔されてますか?」
失礼かなとは思ったが、思いとどまる前に質問が口から出てしまった。
「そうね。少しはそんな気持ちもあるけど、実際、いっしょにいったら旅先で喧嘩でもしてたんじゃないかしら。だって、40年も一緒に暮らして、家でもいつもいっしょなのよ。旅行ぐらい、一人で行きたいじゃない」
40年一緒か。親と一緒に過ごした時間よりも長い。想像もできないが、良いことも悪いこともあったのだろう。
「年を取ってあらためて思うことは、悲しみも幸せも、時間が経てば消えてしまう。だから、悲しい時には思いっきり泣いて、嬉しい時には思いっきり笑うこと。それに、どうせ人間最後には死ぬんだから。年寄りが言うと冗談にならないけど」
悲しみも幸せも、時間が経てば消えてしまうか。辛いことも時間が経てば癒されるが、それと同じく楽しい思い出も時とともに薄れていってしまう。”あいつ”を失った悲しさも、この旅で得た喜びも、どちらもやがては遠い日の思い出となるのだろう。
「きっとあなたのお友達も、あなたが色々な所に行って、色々なものを見て、色々な人と出会うことを喜んでくれるんじゃないかしら」
今はまだ気持ちの整理がつかない。つけていいとも思わない。でも、時が経てばきっと否応なく整理がついてしまうのだ。悲しみが薄れてしまうのだ。”あいつ”のことも、いつの間にか考えなくなってしまうのだ。
だったら、今は悲しもう。”あいつ”のために、いっぱい泣こう。
「ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。今回の『青春18きっぷ』の旅では、素晴らしい景色、おいしい食事を堪能した。そして、最後に素晴らしい人に出会った。これぞ、旅の醍醐味だ。
「じゃあ、そろそろお暇しましょうか」
「そうですね」
私と老婦人は、半分づつ料金を支払って店を出た。そして、石川町の駅から京浜東北線に乗り、横浜駅で別れた。
そのまま京浜東北線で東京まで戻っても良かったのだが、私は横須賀線に乗り換えた。もう少し、いろいろな電車に乗ってみたくなったから。
三泊四日の『青春18きっぷ』の旅。少しだけ、自分の足で歩き始めた私の旅。
この旅も、あと少しで終わる。だが、私の旅はこれからも続く。
家に帰ったらゆっくり休もう。そして、ベッドの中で泣こう。
明日の朝はおいしい食事をしよう。そして、鏡を見て笑おう。
たとえ届かなくても、”あいつ”からもらった手紙に返事を書こう。それが、私のけじめだ。大切な『青春18きっぷ』を貰ったのだから。
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