相模湖
「雨が降ったら降ったで、いいこともあるさ」
「最悪の状況で、よくそんなこと言えるね」
土砂降りの京都で、のほほんとしている”あいつ”に、少しキレ気味で私は文句を言った。着物を着て街歩きをするつもりだったのに、せっかくの修学旅行が台無しだ。
あれ、修学旅行? なんで?
そうか、これは夢だ。保育園から高校までいっしょなんて、”あいつ”とは本当に腐れ縁だった。中学ぐらいまでなら家が近くて公立の学校に通っていれば、同じ学校になるのもわかるが、まさか進学先の高校まで同じになるとは。たまたま、二人とも同じくらいの成績だったのが運のツキだ。そして、たまたまクラスが同じになったことも。
「着物をレンタルして、野点傘の下でお茶を飲む予定だったのに」
「雨の京都もいいもんさ」
二人で軒先で雨宿りをしていたのは、グループの中にカップルがいて、少しだけ二人きりになりたいから協力してと言われたからだ。つまり、私と”あいつ”は残りもの。
「それに、雨が降った時にしか見られない景色もあるさ」
「なによ、それ?」
「それはな、」
”あいつ”がにやりと笑って、答えを言おうとしたときに目が覚めた。
雨に濡れて疲れていたせいもあり、電車に揺られ少しの間、眠ってしまっていた。中央線の窓の外は雨で濡れて景色が歪んでおり、初日に見た荘厳な景色は今は無い。本当なら、午前中に身延山にロープウェイに登り、午後に甲府を観光し、また身延線を戻る予定だった。だが、私は予定よりもずっと早く14時46分の甲府発高尾行きの電車に乗っていた。
”あいつ”はあの時、何と言おうとしたのだろう。たしか、”あいつ”が応えようとしたときに友達が戻ってきて、あやふやになったはずだ。そしてすぐに、皆でタクシーに乗って京都駅に戻ったと記憶している。
また、景色が揺れた。雨のせいか、それとも私の目に溜まった涙のせいか。
雨の中を走る電車は、なぜこんなにももの悲しいのだろう。飛行機であれば、雲の上を飛べば、地上で雨が降っていようが関係ない。たとえ出発時が雨であろうと、雨雲を抜ければ青空が広がる。
雨が降ったら降ったでいいじゃないか。まぁ、台風が来たら困るけどな。天気で文句を言う私に、”あいつ”ならそう答えるだろう。いつだって前向きで、自由気ままな”あいつ”。
まだ、3時過ぎだ。『青春18きっぷ』は深夜12時まで使えるが、このままだと夕方には東京に戻る。それで、この旅は終わりだ。”あいつ”の作った旅程を途中で切り上げることになったが、『青春18きっぷ』の魅力はわかった。”あいつ”が好きだった鈍行電車の旅の魅力も。
だが、何だろう。この中途半端な気持ちは。”あいつ”が私に伝えたかったことを本当に私は理解しているのだろうか。”あいつ”が私に見せたかったものを本当に私は見ているのだろうか。”あいつ”の作った旅程に沿って、一昨日から私は『青春18きっぷ』の旅をしてきた。日本アルプスの美しさも、桜に映える浜松城も、果てなく続く蓬莱橋も見た。五平餅もひつまぶしも桜エビのかき揚もおいしく食べた。
でも、何か違う気がする。何かが足りない気がする。なんだ、このモヤモヤ感は。何を私はいったい見落としているのか。
このまま東京に戻ってはいけない、このまま旅を終えてはいけない、そんな気がする。でも、どうすればいい?
私はスマホに路線図を表示させた。今は大月駅を出たところだ。次は初日に最初に途中下車した猿橋駅だ。そして、鳥沢、梁川、四方津、上野原、藤野、相模湖と停まり、小仏トンネルを超えたら終点の高尾駅だ。一つ前の相模湖は神奈川県だが、高尾まで行けばもう東京都だ。
相模湖か。他の駅名は聞いたことが無いが、相模湖はなじみのある地名だ。
行ってみようか。時間はまだ早いし、他に行くところもない。近場にあるのに今まで行ったことがなかった。”あいつ”の立てたプランにはない場所だが『青春18きっぷ』なら、どこでも自由に途中下車できる。
大月駅から30分ほど、今回の旅を振り返りながら思案していると相模湖駅に到着した。私の他に降りた乗客は数人ほどだ。駅舎はガラス張りのモダンなつくりだが、人気はない。さがみ湖リゾートプレジャーフォレストというレジャーランドがあるはずだが、電車ではなく車で行く人が多いのだろう。
レジャーランドへ行くにはバスに乗る必要があるが、相模湖を見るだけならば、湖畔までは駅からは道を下って歩いて10分ほどだ。相模湖公園として整備され、私の好きな桜の木も植えられている。
私は折れた傘を差し、相模湖へと向かった。駅の周辺は、いかにも郊外の駅といった感じだが、車の多い大通りを渡り、住宅街を抜けるとあっという間に湖に出た。
最初に目に入ったのは鳥居だ。その奥には
御供岩から湖畔に沿って細い道を歩いていくと道沿いには、観光客用の店が軒を連ねている。どこも客が入っておらず開店休業状態だ。そこを抜けると相模湖公園に着く。変わった形のオブジェや、小さな噴水など、いかにも昔作られたひなびた公園といった感じだ。私の他には誰も人がいない。
だが、護岸に降りて湖を眺めると、人造湖とは思えない豊かな水量を称えた湖が広がり、正面には森林におおわれた丹沢山地が広がっている。関東平野を西から囲んでいる山系だ。湖面は静かで、かすかにさざ波が漂っている。ピンクの白鳥の形をした観光ボートが一隻、湖を独り占めして優雅に水面を進んでいる。
私は暫し、湖を見つめた。ここに来れば、何かがわかるような気がしたからだ。
だが、私の目に写るのは、美しいが寂しい風景だけだ。この景色から何かを悟ろうとしても、それはきっとただの自己満足だろう。
バレンタインデーに私があげた義理チョコに、ホワイトデーに”あいつ”がお返しにくれたクッキーと一通の封筒。その中に入っていたのは、未使用の『青春18きっぷ』と、”あいつ”が作った旅程表だ。私は怒ってバカじゃないかと突き返そうとしたが、”あいつ”はいいから取っとけよと強引に私に握らせた。
なぜ、私はちゃんと”あいつ”と向き合わなかったのだろう。ほど良い距離感が変わるのが嫌だったからか。ただの幼馴染という関係が変わるのが嫌だったからか。
私は目に溜まった涙を拭った。
まだ、景色がぼやけている。
雨が降っているから? いや、涙がとめどなく溢れてくるからだ。ぬぐってもぬぐっても涙が流れる。私は傘を放り出し、誰もいない公園で、しゃがみごんで泣きじゃくった。誰もいない安心感からか、私は声を上げて泣いた。
どれほどの間、泣いていたのだろう。ぐしょぐしょになったハンカチで目を拭うと、やっと涙が流れるのが止まった。そして、雨に濡れた髪を拭うにはタオルを出さなきゃだめだなと思い、髪に手を遣った。だが、髪の毛は乾いたままだ。
いつの間にか、雨が止んでいた。電車が駅についていた時は、まだ降っていたから、駅から湖畔まで歩く間か、湖畔を歩いている間に雨が止んでいたようだ。
空も明るくなっていた。もうすぐ夕暮れとなる空は、昼間の明るさは失われているが、いつの間には雲が流れ、夕陽で赤く染まる前の青空が見えている。
そして、何かに誘われるように反対側の空を見上げた私は、はっと息をのんだ。
私の心臓がドクドクと脈を打つ音が聞こえる。
空には巨大な虹がかかっていた。地上から空高く円弧を描き、また地上へと戻る七色の虹が。その尋常でない大きさだけでなく、虹の内側により小さな虹がかかっている。あくまでも外側に比べれが小さいというだけで、その単体だけでも今まで見たことがないほど巨大な虹であることに変わりはない。
すごい。こんな景色は、こんなものは、今まで一度も見たことがない。
――それに、雨が降った時にしか見られない景色もあるさ
”あいつ”が昔、そして、ついさっき夢で言った言葉が、頭の中に蘇る。
――それは、
私の目に再び、涙が溢れた。だが、今度の涙はさっき流した涙とは違う。悲しみと、感動が混じった涙だ。
これが、”あいつ”が私に見せたかった景色なのか。いや、見ようと思って見られる光景じゃない。いろいろな場所に行き、偶然が重なって、初めて見ることができる景色だ。
『一期一会』という言葉がある。一生に一度しかない出会い、人と人との触れ合いを表す言葉だ。だが、この光景にはこの言葉がふさわしい。日本アルプスも、富士も、桜も、お城も、みな素晴らしかったが、見ようと思えばまたいつでも見ることができる。
だが、この虹は、もう二度と見ることはないだろう。今日だけ、今だけ、一生に一度だけ、見ることができる景色だ。
巨大な虹に見とれていた私だが、ふとスマホを開き天気予報アプリを見ると、明日の天気は晴れで降水確率は10%に変わっていた。
私の先ほどまでの弱気な気持ちは、どこかに飛んで行ってしまい、むくむくと体の底から力が沸いてきた。
あと一日だ。もう、迷わない。
”あいつ”が私のために作った旅を最後までやりとげよう。
”あいつ”の私への思いを真剣に受け止めよう。
それが、私が”あいつ”のために今できる唯一の事なのだから。
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