17日目(4/30)親ガチャという言葉

 4月30日。

 日付が変わったばかりの頃だっただろうか。「日本に生まれた時点で国ガチャ成功なんだから、親ガチャは甘え」というツイートを見た。

 ここでいう「ガチャ」とは、「選択権がなくランダムに選ばれる状態で、選ばれた環境により大きな格差が生まれること」とでも定義しておこう。

「国ガチャ」はわかりやすく言えば、「どの国に生まれるか」ということである。「親ガチャ」も同様に、「どんな親のもとに生まれるか」ということである。


 ツイート主はロシアの方だったようだ。確かに、今のロシアの人々が立たされている状況を考えれば、日本という国はマシな立場だと言えるのかもしれない。日本は一応先進国だし、生活や教育の水準としても、全体での位置はそう悪くない方だろう。


 しかし、それによって「親ガチャ」の結果が相殺されることはない。どんな恵まれた国に生まれたとしても、親によって心身を著しく傷つけられれば、人生において大きな枷となる。時には命を落としてしまう子供もいる。日本でさえ、とくに乳児に多いが、子供が虐待されて死亡したニュースは後を絶たない。


「親ガチャ」はそもそもどんな言葉なのか。ここで、似たニュアンスの言葉である「毒親」と比較しながら考えてみたい。


 まず、「子供の人権」意識の向上に従って、「虐待」という言葉がうまれる。これは現在、法的には、「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」の4つが定義されている。「心理的虐待」には目の前で他の家族に暴力をふるうこと(面前DV)も含まれている。また、法の定義には含まれていないが、「教育虐待」「経済的虐待」という概念も昨今注目されている。


 ただ、家で親に虐げられ苦しい思いをしている被害者の中には、「この程度で虐待と言っていいのか」という迷いが生まれがちだ(かくいう私もそうだった)。また、虐待としては扱われないが、子供の心身を蝕む行為もたくさんある。例えば、過干渉や親の情緒不安定、アルコール依存症など。


 こうした人たちを救済した言葉が「毒親」である。元ネタとなったのは、米国のカウンセラーであるスーザン・フォワード著の『毒になる親』という本だ。彼女は、現在さまざまな情緒的問題や人間関係の不和を抱えている患者たちが、大人になった今でも、過去の親の言動の影響を受け、苦しめられていることに気付いた。フォワードは、「子供に対するネガティブな行動パターンが執拗に継続し、それが子供の人生を支配するようになってしまう親」 を「毒になる親」と呼んでいる。


「毒になる親」すなわち「毒親」は、「虐待」という言葉を使うのは憚られるが親による苦しみを抱えていた人たちにとって、自分の状況を説明できる的確な語彙だった。こうして「毒親」は人口に膾炙していくが、使う人が増えれば語義が揺れるのが言葉である。「毒親」は、深刻な虐待の事例から「親が自分の理想と異なる」という比較的軽度な状況でまで使われる言葉となった。


 そして昨今、「毒親」よりもより広い概念として定着し始めているのが「親ガチャ」である。「親ガチャ」は「虐待」「毒親」を包含するのはもちろん、貧困家庭やヤングケアラー・きょうだい児といった「生まれた家庭による困難」全体を指す言葉だ。「ガチャ」という親しみやすくわかりやすい語彙もあいまって、「毒親」よりもより使いやすい言葉として、「親ガチャ」という言葉は広まる。


 こういった言葉は、当然親側にとって気持ちのいいものではない。また、メディアなどが「きわめて恵まれた家庭に生まれなかった」ことを「親ガチャ」の例として取り上げた。これによって、「親ガチャ」という言葉には「わがまま」「不幸ぶってる」といった批判やスティグマがつきまとうことになる。


「親ガチャ」という言葉は確かに「虐待」「毒親」などと比較すれば確かに軽薄であり、その軽薄さはもろ刃の剣である。「毒親」以上に、より使いやすい言葉になったことによって、苦しみを抱えている人たちが自分の境遇を訴えやすくなった。これは、抑圧され透明化されてきた当事者たちを可視化させることにつながる。

 一方で、メディアから広まった誤解によって、「超大金持ちの家に生まれなかった」「親がほしいものをねだったが買ってくれなかった」等の状況で「親ガチャ外れ」とのたまう人々もおり、本来持っていたはずの「生まれた家庭による困難」というニュアンスを薄めてしまうことにもなった。

 その結果が、「甘え」という無理解な批判に結びついているといえるだろう。


 私はこの件が非常に心に引っかかった。「親ガチャは甘え」への批判を述べたツイートには、共感とともにたくさんのご意見クソリプが寄せられた。その中には的外れなもの、被害者への心無い中傷なども多々あった。胸が痛いのは、そういったご意見クソリプを送る人は必ずしもまともな家で育ってきた人ばかりではなく、自らも被害を受けていた側であったりすることだ。被害を被害と認識できないまま正当化を重ねることで、人は簡単に加害者へと変わる。


 今日はいつもより早い時間の日記だが、言いたいことがたくさんあったのでここにまとめた。こういったことが起こるたびに、私の言葉はどうしてこうも届かないのだろう、私はなんて非力なのだろうと嫌になる。それでもできることはやろうと思い、その一環として今回の記事を書くことにした。少しでも誤解が解け、被害者への不当なバッシングが減ってほしいと思う。



P.S.熱はまだ下がりません。

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