第18話ビクトリアハーバーで

翌朝少し寝坊した冴子はホテル近くの屋外ベーカリーで揚げパンとお気に入りのエッグタルトをテイクアウトしブランチとした。

オクトパスカードという香港特有のメトロカードを使った移動にも少しずつ慣れてきた。

香港は香港島と九龍島に分かれている。九龍島を象徴する活気ある街チムサーチョイを当てもなく歩き、近くの雑居ビルの中の食堂に入った。家族経営らしくタンクトップ姿のおじさんや息子と見られる男性が油汚れだらけの厨房で鍋を振り奥様らしき人が注文をとる。緑色のプラスチックの丸椅子と丸テーブルの席に着席し広東語の漢字の並びで餃子と炒飯を注文した。瀬戸は気取った店より、ふらっと立ち寄った先の汚い食堂をこのむ。いるかもしれないと思ったが案の定いる訳がなかった。もう少し散策した後で黄大仙の寺院に行ってみよう。全ての人の願いを叶える場所と言われている。パワーをいただいて願いを叶えてもらおう。ピンク色の皿に盛られた海老入り水餃子と脂と塩がガツンと効いた豪快な味の炒飯を食べた。店の愛想の悪いおばさんがお茶を置きながら片言の英語で「この前も日本人がきたよ」と一言言っ

た。「男?いつ?」冴子は前のめりになって聞いた。常連らしい妙齢の痩せた男性が煙草をくゆらせながら奥で新聞を読んでいたが

やがて広東語で何か言った。おばさんはその言葉に頷いて

「背の高い男だったね。3日くらい前」とジェスチャーを交えて教えてくれた。冴子は慌ててメモ帳に連絡先を書き「彼がきたら私に連絡する様に渡して」とおばさんに手渡した。瀬戸かどうかは分からない。だけど何となくそんな気がした。メトロを乗り継いで歩くのも少し疲れた冴子はタクシーを捕まえて予定通り黄大仙に行った。圧倒されるような黄金の輝きを放つ荘厳な佇まいの寺院にお香の香りが漂う。出入り口に各干支をモチーフにした像が建てられていて皆自分の干支の像の前で写真を撮っていた。人で溢れかえる賑やかな中に読経の声が響き渡り、歩いているだけでいにしえの中国にタイムスリップしたようだ。冴子は見よう見まねでお祈りをしたあと占いの館に足を向けた。通路の両橋に番号で割り振られた占いの館がずらっと並んでいて、皆掲げられている地図の看板の番号と目的とする館の番号を照らし合わせて館に入るのだ。冴子は日本語OKの館に入った。

白髪の紳士は何を占いたいか聞いた後に料金の説明をし、冴子に生年月日と名前を紙に書かせた。その情報を電卓のようなものに打ち込み、冴子がこの数ヶ月に様々なトラブルを巻き起こした事を言い当て「辛かったでしょう」と慰めてくれた。手相や顔相もみながら

「あなたは強い人です。やると決めたら乗り越えていけます。信じた道を行きなさい。探している人はきっとこの香港に近くにいるでしょう。その方もきっとあなたを心配しているはずです。」

鑑定料を払い館を出ようとする冴子に占い師は声をかけた。「何か落とし物をするかもしれませんがその時にはくれぐれも周囲に注意を払いなさい」

 財布でも擦られたりするのだろうか。鞄の口を冴子は一層力強く握りしめた。

30分の鑑定で1万円近くかかってしまったが冴子は確信を持つ事ができた。きっと会える。


夕方インターコンチネンタルホテルのバス乗り場からオープントップバスに乗って香港の街を2階から捜索することにした。屋根がないバスの屋上は飲み残しのファストフード店のジュースが転がり清潔ではなかった。硬い椅子に座っていると案内のアナウンスと共に紫色に暮れかけた香港の街をバスが走り始めた。何度も身体が浮き上がりそうになるハイスピード。坂道をジェットコースターのように駆け抜けていく。横に流れるビクトリアハーバーはビルの窓の明かりを反射して輝き、

既に宝石のようだった。電飾の鮮やかな飛び出し看板が乱立するネイザンロードを走る時、不運な事に帰宅ラッシュの交通渋滞に捕まってしまった。せっかく風を切って涼しかったのが、すっかり湿気と熱風により身体が汗ばんできた。冴子はバッグから手ぬぐいを取り出して身体を拭いていたが急にバスが動いた事でバランスを崩し手ぬぐいを手から落としてしまった。風に吹かれて舞いあがった冴子お気に入りの京都の手ぬぐいは地面にポトリと落ちた。バスが再び止まる。拾いに行くべきか‥すると1人の男性が立ち止まってそれを拾い上げた。目が合う2人。冴子は我が目を疑った。そこにいたのは瀬戸

その人だった。彼はネイザンロードを偶然散歩していた。冴子は叫んだ。しかし無常にもその声はクラクションの音とエンジンの音にかき消されバスはまた走り出してしまった。

走って追いかけてくる瀬戸。しかしバスはもう止まらなかった。


女人街に到着したところで一旦観光客は降ろされ30分の散策タイムがとられた。冴子は胸の高鳴りを抑えながらバスを降りて、雑多な女人街の入り口に放り出された。点々バラバラに観光客は解散していく。どこに行けば‥。立ちすくむその背後からあの声が聞こえた。「冴子」

振り返るとハンカチを手にした瀬戸が立っていた。「あのバスのルートだったら必ずここに来ると思ったよ‥ほんと見間違えたかと思った。香港にまさか冴子がいるなんて」


冴子は笑った

「顔も傷だらけだしね。誰だか分からないはずよ」夫からの暴行で受けた傷はまだ癒てはいなかった。

「旦那さんにやられたの?」

冴子は心配する瀬戸の顔を見て明るく笑った。

「全てけじめをつけたわ。夫とは別れた。慰謝料も家もくれてやった。全て終わったの。終わらせる代わりにあらゆる地獄を背負ったけど、不思議と気分は晴れているの。

あなたが連れてきてくれた。天国に。あなたが天国を見せてくれたから私はこの先の人生地獄の道を歩んででも幸せになるために頑張ろうと思えるようになった。もう何も怖くない。あなたが私をもう受け入れなくても、最後にきちんと気持ちを伝えたかった。」


瀬戸は言葉を発する代わりに冴子を力強く抱きしめた。

「ビクトリアハーバーに行こう。冴子。

スターフェリーから眺める100万ドルの夜景は君と一緒に見たかった景色なんだ。」

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