第17話 九龍

九龍半島はとてつもなく広い。おもちゃ箱をひっくり返した様な雑踏と街から溢れ出る熱気に冴子は自らの無謀さを思い知った。排気ガスと近くのゴミ収集場から漂うゴミの臭気が入り混じった空気の匂い。それに加えて街角の屋台やベーカリーから漂う食事の匂いが相まって冴子は思わず嘔気をもよおして立ち止まってしまった。街のなかにはオレンジ色の灰皿が点々と置かれていてその中にはもれなく吸い殻が溜まっており湿った地面にも吸い殻が溢れていた。水溜りが少し臭かった。巨大な荷車に大量のゴミを積んだお年寄りが信号のサインなどお構いなしによろよろと横断歩道を渡っている。

日本ではない。とんでもなく遠くまで来てしまった、私は。冴子は急に怖くなった。

蒸し器の中で蒸されているようなじっとりとした湿気にくらくらしていたら、鈍色の空からは泥のような匂いを含んだ生暖かい大粒の雨が勢いよく降ってきた。人の流れに押し出されるように再び歩き出すと、小さな薬局の店先で売られていた折り畳み傘をどうにか買って、狭い路地の人混みをかきわけ冴子は地下鉄の入り口にたどり着いた。香港は街の中の雑踏を少しでも突破できればどこかしらの地下鉄乗り場にたどり着ける。その点において海外初心者の冴子は助かったような思いだったがA2とかB3とか細かく分かれている出口を少しでも間違えると全く見当違いの場所に出てしまい、目的地に辿り着けず延々と歩き回る羽目になるのは困った事だった。せっかくなら美味しい食堂で釜飯でもと思って目的の場所を目指したが泣く泣く諦めるほかなかった。綺麗に色分けされた路線図を見ながら地下鉄に乗りホテルのある油麻地に到着した。駅に着いた時にはもうクタクタで持ち合わせていた全ての気力も体力も失った冴子は

駅の構内で売られていたエッグタルトと鶏肉が白米の上に載った弁当、お茶は無難に烏龍茶を購入して駅から歩いて10分ほどの場所にあるモダンなデザインのシティホテルにチェックインした。部屋の中は古き良き香港の街の一角とは思えない、ニューヨークのデザイナーズマンションの様な洗練された内装だった。シャワーを浴びて一息ついたら窓の外を見下ろす余裕が少し出てきた。窓辺に腰掛け19階から見下ろしてみた香港の夜景はなるほど美しかった。雨は上がっていて深い藍色の空にピンクや緑など色とりどりなビルの灯りと行き交う車のヘッドライトの灯がキラキラ宝石のように輝いていた。けたたましいクラクションの音。この街の中に本当にあなたはいるのだろうか。どこかの屋台で黙々と大好きなラーメンを啜っているのか。高級レストラン?夜市?どちらが好きなのだろう。

冴子は黙々と食事を口に運び、一気に食べ終えるとベッドに倒れ込んで深く沈んだ。

きっと会える、見つけ出す。信じよう。エッグタルトの強烈かつ濃厚な甘味に心満たされて折れかけていた気持ちが前向きになった。

冴子はようやく深い安堵の眠りについた。

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