第16話 精算

冴子が目が覚めたのはピンクのカーテンに囲われた病院のベッドの上だった。

琥太郎は警察の方が救出してくれ、一時的に病院の新生児室でみてくれているようで冴子は安心した。体も動かない。耳もよく聴こえない。身体の至る所に包帯が巻かれていた。

しばらくして先ごろ縁を切ったはずの母親と名古屋に住む兄がやってきた。冴子は自分の顔は見えないがきっと酷い顔をしていたのだろう。母は泣き出してしまった。兄は何も言わなかった。しかし怒りが混みあげてきたのか「あいつ殺す」とだけ小声で言った。

何か言いたいが何も言葉が見つからなかった。痛みで言葉も発せられない。

母は娘を突き放した事を後悔したのか、一言も喋らずに肩を落としながら兄に支えられるように帰って行った。琥太郎を連れて帰ってくれたらしい。

数日後に少し喋れるようになった頃、冴子の部屋には警察が何回か来て事情をきかれた。

撮影した動画や録音内容について日常生活についても聞かれた。家に帰らないようにと言われたので都内のビジネスホテルに身を隠すことにした。


ほどなく夫は保釈されたので離婚調停に入った。裁判所に別々に呼ばれてお互いが離婚したい理由を述べて、調停員が認めれば離婚にもっていく事ができる。冴子は被害届を出さないかわりに500万円の慰謝料と家のローンの残債の全額返済の条件を提示して離婚と琥太郎の親権を求めた。話し合いがこじれたら裁判に発展する。そうなると大変長引くので調停離婚で手を打てるよう冴子は傷だらけの体に鞭を打ち裁判所に通い詰めた。

夫は憎いが悪いのは私だ。全て引き受けよう。弱気になりそうな自らの身体を奮い立たせた。夫も周囲の説得によりほどなく離婚に同意した。


慰謝料は母に渡されていた琥太郎の為のお金から支払った。「ごめん、琥太郎」冴子はこのセリフを何回呟いただろう。ひとり親の為の公団住宅の抽選に応募したりもしたが、必要な条件さえ整えられれば入居審査のいらない集合住宅を借りる事にした。冴子は方々に頭を下げて回った。1人で生きる苦しみ‥

ここから始まる。母からは仕事も家も見つかって収入が安定して暮らしが落ち着いてから琥太郎を迎えに来い。いつまでも待つとだけ連絡がきた。


冴子にはまだやり残した事があった。

「最後の親不孝‥琥太郎、みんなごめん」

母にも内緒で就職活動もせぬまま冴子はある朝1番に機上の人となった。知らせたい人がいた。もしかしたらもういないかもしれない。会えないかもしれない。彼の連絡先は変わっ

ていた。

朝10時30分

キャセイパシフィック航空香港行き

片道切符。会えるまで留まる決意だった。

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