第13話 会いたい
道子の別荘に来てから数日が過ぎた。琥太郎と2人何もせずに過ごした。家でゴロゴロして遊んでまた昼寝して。買い物に行くときだけは道子の紹介で知り合ったお隣の吉田さんに
預かってもらった。久しぶりに訪れた穏やかな日常だった。吉田家は2世帯家族で孫の加奈は冴子と同年代という事もあり互いの子どもを遊ばせるようになった。
暮らしに少し慣れてきた頃。ずっと家にいても気が滅入るので気分転換と運動を兼ねて琥太郎を連れてふらりと行き先も決めずにバスに乗ってみることにした。海岸通りまで出るとそこで降り、やわらかい潮風を浴びながら散歩をした。
怒られる事も怯える事もない暮らし。
冴子が精神的に穏やかさを取り戻した事で琥太郎にも笑顔が増えたように思えた。瀬戸との事も離婚後のこともゆっくり考える事ができる。夫と離婚する意思は変わらない。
瀬戸とも‥。彼の手を離してあげるべきなのだろう。職場でも2人の関係が明るみになってしまった。そして私は1人だけさっさと逃げた。取り残された彼はどんな思いでいるだろうか。会いたい。寝ても覚めても頭の中は瀬戸の事で頭がいっぱいだった。
電話が鳴る。海岸沿いの石段に座って琥太郎とぼんやり海を眺めていた冴子は我にかえって電話をとった。母だった。
「おかあさん?」
「冴子?今あんたどこにいてんの?」
怒りと心配が入り混じった低い声だった。
「ごめん、お母さんそれは‥言えないの」
冴子はか細い声でこたえた。
いくら母でも居場所を言うわけにはいかなかった。
「実は何回も武弘さんから電話かかってきてな。実家におるんやろ?って冴子出せって‥
私も知らないんですって言うてんねんけど
」
夫だ。やはり実家にしつこく電話をかけてきていたのだ。穏やかさを取り戻していた冴子の心は再び凍った。
「お母さん、ごめん。しばらく家の電話は取らん方がいいかもしれない。あの人ほんまに
しつこいから。万が一家に来ても出ないで警察呼んで。」
「警察って あんたの旦那さんでしょう‥。
一体何があったの?」
冴子の目には涙が溢れた。
「お母さん、ごめん。私あの人と別れたいの。理由はほんまに今は言えない。今度帰るから、そのときに説明する。」
母は深いため息をついた。
「堪忍して‥。なぁ冴子。夫婦は簡単に別れたらあかん。あんた達は琥太郎のお父さんとお母さんやねんから。
辛い事はあるやろうけど、辛抱せな。片親で不憫な思いするのは琥太郎や。」
「それならお母さんは 叩かれたり罵倒されたりしても我慢して一緒にいろって言うの?」
「夫婦なんてそんなもんや。私かて死んだお父さんから怒鳴られた事くらいなんべんもあるよ。それでもお兄ちゃんとあんたの為に我慢したんや。母親なら子供の事を一番に考えなさい。」
「お母さん‥ごめんなさい。でももう」
母は電話の向こうで沈黙した。長い静寂。
時折、琥太郎のキャッキャという声が入る。波の音が風に乗って流れてきた。
「ならもう何も言わない。2度と帰ってこんでいい。かわりに私もあんたと縁を切ります」
きっぱりとした口調で母は言った。
「わがまま気ままを言い続けて子どもの人生ないがしろにする人間は母親とは言わない。
親になった瞬間から子どもの為に尽くすのが
親としての責任や。それなのに、あんたは覚悟も無しに好き勝手な事ばかり。情けない。
けどこんな娘に育てたのは私の責任やね。縁をきりましょう。これがあちらのご両親や武弘さんへのお母さんなりのケジメです」
そんな事言わないで!と言いたかった。しかし母の言う事は全くその通りで何も言い返せなかった。
「明日あんたの口座に1千万振り込みます。ただしこれはあんたの金やない。琥太郎のや。ほんまやったら琥太郎の為に定期的に貯金して高校卒業の時に渡すつもりやったけど。それもこうなった以上できないからあんたに預ける。琥太郎のために管理して使いなさい。」
母は電話を切った。縁もきれた
冴子はただ涙を流した。これが罪の重さ。
浮気の代償。あまりに重すぎた。
どのくらいの時間そうしていただろうか。
琥太郎は冴子の胸ですやすや眠っている。
冴子は意を決してずっと電話しようと思ってはやめていたあの番号にかけた。
長い呼び出し音のあと、「はい」と一言愛しい人の声が冴子の耳に届いた。
「瀬戸さん‥冴子‥冴子です。ごめんなさい
1人にしてごめん」
「謝らないで。西田さん
元気なの?今どこ?」
瀬戸の問いには答えず震える声で冴子は言葉を継いだ。
「瀬戸さんに会いたい。会いたいの。お願い‥」
そして最後にこう言った
「私もう失うものはないの」
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