第12話 家出
冴子は行政書士を訪ねた翌日、職場に出勤した。顔は少し腫れてあざになっていた。力強く掴まれた上腕にもあおあざができていた。
包帯で隠すと大事になりそうだし利用者に恐怖を与えてしまうような気がした。
瀬戸が日勤ではなかったので会わなかったのは不幸中の幸いだ。いたら卒倒してしまうかもしれない。
フロアに顔を出すとやはり職員一同仰天していたが暴力をふるわれたなどと言っては警察に行けとか騒ぎになる。転んだと適当な嘘をついた。ナースが気休めに軟膏を塗布してくれた。
その日の風呂のなかで利用者の入浴介助
身体を洗ったり頭を洗ったりする仕事を冴子と大家が担当した。一日の利用者の入浴が終わり風呂場を片付けて掃除しているとき、大家が口をひらいた。
「西田さん、それ殴られた跡っすよね。どうみても転んだ跡じゃない。旦那にやられたんですか?」
デッキブラシを持ったまま冴子は立ち止まった。
「そう。でも無断外泊しちゃったのがいけなかったのよ」
「だからって手をあげるなんてダメっすよ」
大家が少し黙り込んだ
「西田さん、今から言う事は俺から聞いたって言わないでくださいね。今、フロアで噂になっているんですよ‥」
「噂?」冴子は一瞬背筋が寒くなった。
入浴介助で濡れて冷えた身体がさらに冷たくなった。いつも冴子と大家はシャワーをかけあってふざけるが、今日は笑顔がない。
「西田さん、3日前あたりどこにいました?」
「どこって‥」
「相模原市にいたでしょう?瀬戸さんと。
たまたま友達がそっちに住んでて何人かで遊んでる時に2人が‥エレベーターでぶちゅーってかましてるとこみちゃったんです。」
冴子は思わずデッキブラシを落とした。
「いや俺はね、2人が好き同士ならそれでいいと思うんす。俺だって浮気してこなかった訳じゃなかったから。責められないですよ。
だけど、その場でみていた人間には口止めしました。けど、今朝来たら結構噂で‥だから急遽俺がわがまま言って西田さんに風呂の中介助入ってもらいました。人の目に触れない方がいい気がして。瀬戸さんは昨日休みで今日夜勤でくるからまだ知らないと思います。」
「そう‥」
「西田さん今日はもう早退した方がいいと思います。主任の耳に入る前に火消ししときますから。後ろでコソコソされながら働くのは
やっぱ精神的にキツいっすよ」
「大家くんありがとう」
「西田さん、まじ天使なんでこんな事で病んで仕事をやめて欲しくないんです」
そう言うと大家は笑った。
家に帰っても憂鬱だった。ここ数日は
家庭内はお通夜さながらだった。別れ話を切り出そうとしても違う話にすり替えられたりした。
それでもなお冴子が食い下がると夫は怒った。
「出て行くなら琥太郎は置いてけ。うちの実家にはお前が琥太郎を捨てて家を出たって言うからな。結婚のときにうちの親にもらった今すぐ500万円も返せ」
二言目には実家だ。私が義母に頭が上がらない事を知っているから私と喧嘩するといちいち母親にネチネチ報告するのだ。
数日後 冴子は作戦を決行する事に決めた。
夫は夜勤中なので昼過ぎまでは家にいない。
冴子はトランクの中に、夫が床下のワイン貯蔵庫に鍵をかけて隠していた銀行の通帳を
(鍵屋を呼んで床下を開けさせ)
引っ張り出して詰めた。印鑑、パスポートや母子手帳などの貴重品も詰めた。
夫がいない間にこつこつ整理した衣類もパッキングした。やがて家の前にハイエースがとまった。「どうも夜逃げ屋です」
降りてきたのは親友の道子だった。
「さ、さっさと荷物と琥太郎積んでいくよ
長旅なんだから」
道子に家出の計画を相談したのは数週間前だ。夫のもとを離れたくて引越し屋を頼みたいけど経済的に無理なこと。離婚に応じてもらえないこと。死にたいくらい辛い事、全てを話した。もちろん瀬戸との関係も。道子は反対した。自身もバツ1だから
シングルで子どもを育てるのは想像を絶する大変さである事を冴子に丁寧に説いた。瀬戸は父親になれる器ではない、離婚は子どもを不幸にすると。でも冴子は決意を曲げなかったので道子は観念した。
3人は車で熱海方面に向かった。道子のおばの住んでいた家だ。
「おばさん子どもいなかったから姪の私が亡くなった後に相続したんだけど結局あまり帰れないし、実は売ろうかと考えてたんだ。空き家同然だし散らかってるよ。ボロいし」
「ありがとう道子。実家だとすぐに足がつきそうだし助かった。夫には手紙を書いた。
もう一緒には暮らせないって。最悪、今は籍が抜けなくてもいいわ。離れられるだけで。
何年も別居すれば裁判で離婚は認められるかもしれないし。」
職場には両親が体調不良と嘘をついてしばらく休みをもらった。もうやめることになるかもしれない。
熱海駅からだいぶ離れた山合いの集落。竹藪に囲まれたところにその家はあった。
「電動自転車持ってきてよかったね。買い物はそれで行くといいよ。隣近所の人には言ってあるから琥太郎の事も見てくれるって。じゃ、私夜勤だから帰るね。冴子がまた戻る気になったら迎えにくるから」
「道子!今度日本一高い焼酎買うから!」
「待ってる!」
道子は笑いながら手を振り去って行った。
電話番号はこっそり変えた。でも瀬戸の連絡先がかかれた紙は持ってきている。電話したい、声が聞きたい。身体に触れたい。でも
ダメなのだ。全てが台無しになってしまう。
庭の2階のベランダからは海がみえた。
キラキラ光る水面。綺麗すぎて泣けてきた。瀬戸は仕事で肩身の狭い思いをしていないだろうか。自分だけさっさと逃げてきてしまった。
でも今はこうするしかなかった。やるせない思いで冴子は
ごめんね‥そっと呟いた。
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