第11話 決意

最寄り駅から15分も歩くと、駅前の騒がしさが一切耳に届かないほどの穏やかな静寂に包まれた。あたりは街路樹の緑に包まれ、学校や家庭裁判所が点在している。そんな閑静な場所にぽつんとそれはあった。1階にタイ料理屋が入っている小さなビルの2階にあるワンルームの部屋。ここが冴子が目指した場所だった。

「場所分かりにくかったでしょう、ご足労いただいてありがとうございます。」柔和な笑みを浮かべた白髪の穏やかな紳士は冴子に自ら緑茶をいれて出した。冴子の目の前に置かれた名刺には行政書士 高田泰明 とあった。


「移転したばかりなんですよ。この事務所は私が一人でやっているもので片付けまでなかなか手が回らなくて。すみませんね」


部屋には面談用の小さなテーブルとパイプ椅子、奥に作業用のパソコンと山積みの書類に埋まったデスクがあった。部屋のいたるところに段ボールが無造作に積まれている。


「さて、お電話でも以前お話お伺いしましたが‥まぁ主人と離婚されたいという事でよろしいですね」


冴子は離婚を思い立ってから法律相談といえば弁護士という事であらゆる弁護士事務所に電話をかけた。しかし事務所の職員が話の概要を聞いただけで「その相談内容はお受けできません」と断られるか「所長の○○は不在にしております」と電話を切られてしまうかあるいは「相談は30分5000円かかりまして」と前置きされ、30分で終わるわけはないと諦めて冴子の方から電話をきるという事ばかりが続いた。電話すら繋がらないケースもあった。

諦めかけた時、無料法律相談 初回相談料無料という情報が偶然インターネットでヒットし藁にもすがる思いで電話をかけたのがこの行政書士事務所だった。

事務所の受付終了時間ギリギリに電話をかけたにも関わらず高田は冴子の話を聞き

それならば一度事務所で話を聞こうと招いてくれたのだった。

「離婚相談というのは年々増えてますけどね

まぁ難しいケースが大半ですよ。その割には金にもならないので弁護士事務所ではまず受けないですよ、よほど金持ちで高額の慰謝料を取る望みがある場合をのぞいてはね」


高田は眼鏡を上げつつ冴子の口元に目をやった。「それは‥」

冴子の顔には夫に平手打ちされた跡が残っていた。「主人に叩かれました」

「日常的に?」

「いえ、一度だけです」冴子は力なく答えた。「一度でも暴力というのは離婚理由になります。痕跡を写真に残しておいてください。叩かれた詳しい日時と状況、診断書があればもっといいですね。裁判所の方でも夫婦の離婚案件に関しては大概の場合はまずは和解をすすめます。ご主人に何か言われた、妻にこんな事言われたと言い合っても結局、証拠がなければどうにも動きようがない。夫婦喧嘩はご本人同士で解決してくださいという結論になるんですね。婚姻を継続しがたい理由についての明確な証拠がいるんです。音声や写真そういったものがあれば話は早い。慰謝料や親権についてもあなたに有利に働くでしょう」


冴子は自責の念に耐えかねて言った。

「もとはといえば私が家を黙って空けていたのがいけなかったんです‥私が‥男の人と泊まって」

高田は言葉を失った。冴子が不貞行為を行っていたと自ら白状したのだ。

「奥さんの方が不貞行為をはたらいた‥と

いや、そうなると話は変わってきます。ご主人はそれをご存知で?」


「知りません。まさか私が浮気するなんて思ってもいないはずです。できないと思いこんでいるはずです。主人はそういう人です私の事を馬鹿にして見下して、1人じゃ何もできないと思ってる!絶対的支配下において管理する。いつもいつも。私の事を都合のいい

奴隷としか思っていないんです。性欲が溜まれば私の気分や体調に構わず無理矢理に‥

そんな生活を私はずっとこの2年近く強いられてきました。精神的にも限界で‥」

冴子は言いながら涙が止まらなくなっていた。「すみません」

「いや、嫌な事をお話しさせてしまって。

さぞお辛かったでしょう。でも法律の力で離婚を望まれるとなると‥不貞行為を奥様が働かれたというのはどうしても圧倒的に不利になるのです。ご主人の暴力はその時1回だけとなると、たまたま手が当たっただけとか言い逃れできてしまいますし。ご主人があなたに色々と嫌な事を言っておられた事も音声が残るか第三者の証言がないと、これもなかなか‥。ご主人とお話し合いを続けて離婚に同意していただくより他は難しい。ただし不貞行為が明るみになってしまえば、奥様が到底支払えないような額の慰謝料を請求してくるかもしれない、その‥あなたのお相手にも。そうなると勝ち目はないと言っていいでしょうな。そのくらい不貞行為というのは罪深い事です」


「そんな‥」冴子は目の前が真っ暗になった。私だけじゃなく瀬戸に迷惑をかけてしまう。夫は賢いからきっと用意周到に狙い澄まして徹底して叩くに違いない。覚悟できていると言ったしそう信じていた。でも本当に地獄に落ちる覚悟はできていたのか?地獄の池はいざ目の前にすると、とてつもなく深くて恐ろしかった。

「お二人で話し合いを行う事がどうしても嫌であれば私が間に入って何とか和解にもっていけるようにしますよ。で、‥私の口からこんな事言うべきではありませんが、決してご主人には不貞行為が分からないように」


ただ、と高田は息をついた

「1番いいのはお相手とも縁を切ることです

ねぇ奥さん?お子様の事を考えればなおのこと。あなたにとって1番大切な事は何か考える時ですよ。まぁこれは法律家としてではない。1人のおせっかいじいさんの戯言として受け取ってください。」


現実‥快楽と引き換えに背負うべき罪の代償のあまりの大きさ。


別れる、瀬戸と。別れなければ‥

いよいよ現実を受け止める時がきたのだった。

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