第10話 さぁ‥

身体中に瀬戸のエキスを吸収させた冴子は

驚くほどの自信に満ち溢れていた。横浜線に揺られて八王子駅に向かう間、満員の人に揉まれながら「瀬戸から発せられた濃厚な液体のあの甘美な香りが自分の体臭とあいまってゆらゆらと立ち上って、この世界のどんな高級な香水よりもいい香りがしているのではないだろうか‥。」そんな妄想を楽しむ余裕すらあった。

綺麗に着飾る事、男達にモテる事。金持ちと結婚して裕福に暮らす事そんな事は女の幸せではない。好きな男に骨が溶けて身体がバラバラになるほど激しく抱かれて、意識を失うほどの快感に悦びの声を上げ続ける事。それこそが幸せなのだ。


これから家に帰れば夫は不機嫌な顔で待っているに違いない。ただもはや冴子の中では夫などこの世で1番どうでもよい存在だった。

そんな事よりも頭の中はこの1泊2日の間に両手両足の指を使って数えても足りないくらい

行った瀬戸との愛の儀式の記憶でいっぱいだった。思い出すだけで堪らない。許されるなら今すぐにでも電車を飛び出して、反対ホームの東神奈川行きの車両に乗り換えて瀬戸のマンションに戻りたい。身悶えせんばかりの自分の姿に冴子は呆れて笑うしかなかった。

「どうやら私は完全に頭がおかしくなったらしい」


冴子は家に帰るにあたり、髪の毛や身だしなみを整えなかった。瀬戸に抱かれたての乱れきった姿の自分で夫と対峙することにした。

何か気づかれるかもしれない。でも構わない。

家にたどり着いたらセンサーに反応した外灯がパンとついた。冴子が庭の砂利を踏んだ音に気づいた夫がバタバタと走る音が聞こえ玄関の扉が勢いよく開いた。夫と冴子はしばらく睨み合っていたら冴子が何か言うより先に勢いよく平手が飛んできた。家の中で琥太郎が泣く声が響いている。

「まぁ当然だ。」叩かれても不思議なくらい

冷静だった。

「もう一発叩いたらどう?足りないでしょう」叩かれた瞬間、口の端がきれた。歯で内頬を噛み締めたので口の中もきれた。これみよがしに目の前で血を吐き出してやった。


夫は近所の目を気にしたのか慌てて

「いいから中に入れ」と冴子の腕を引っ張って家の中に引き入れた。


リビングで琥太郎を抱き上げてあやしながら冴子は改めて夫と向かい合った。

「どこに行ってた」

当然の事ながら叩いた事に対する謝罪は皆無だった。そのことを責めたところでお前が悪いからいけないんだ。と言うに決まっていた。腹が立つが言うだけ無駄だ。


「道子の家に泊まりに行ってた。あなたが居ないから久しぶりに飲みに行ったの。で泊まらせてもらった。それだけ」


「携帯は?何で電話に出なかった」


「居酒屋のトイレに落として水没して壊した。こんなに早く帰ってくるなんて思わなかったからショップに行くの後回しにしてた」


まるで取り調べじゃないか。そもそも最初に実家に帰ったのは自分のくせに。その間に妻が羽を伸ばす事がなぜいけないのだろうか。


「ああ長房の大酒飲み女か」夫は

冴子の友人の話を根掘り葉掘り聞き出しては

つまらないあだ名をつけて面白がり「冴子の友達はロクなのがいないな」と見下して笑うのが常だった。

「もういいでしょ、疲れてるの」

冴子ははしゃいで足をばたつかせている琥太郎を抱いたまま部屋を出ようとした。


「話は終わってないだろう。全く無駄金ばっかり使いやがって」ケチな夫は冴子の腕を思い切り掴んだ。久しぶりに接する夫はどこまでも乱暴に思えた。


冴子の中で何かが切れた。

「金?何よ!私が稼いだ金よ!自分で使って何が悪いのよ!あんたがパチンコとか酒とか変な民芸品集めとか、くだらない趣味にお金使ってろくに生活費も渡さないから毎月私のパート代からやりくりしてんのよ!たまの息抜きにお金使って何が悪いのよ!」

冴子は半狂乱になって叫んだ。腕の中の琥太郎はその声に驚いて泣き出す。無茶苦茶だった。夫は冴子の鬼のような剣幕に驚いてたじろいでいる。

もう止まらなかった。

「私の友達関係にも仕事にも収入にも家事にも全部に首突っ込んで管理して!自分じゃ何もしないくせに!もう限界よ!暴力まで振るわれて‥耐えられない。」


ここはチャンスだ。本当ならまだこの言葉を言うつもりはなかったが‥。もう言うしかない。

「別れてください」

冴子は夫の返事をきかなかった。背中を向けて琥太郎を抱いて一緒に部屋を出た。


琥太郎に乳を与えながら寝かしつけている間に自分も眠ってしまったらしい。ふと目覚めると胸をまさぐられている感触に気づいた。

琥太郎は眠っている。冴子は青ざめた。

耳元に夫の荒い息がかかった。

「ちよっ!」叫ぼうとする冴子の口を夫は手でふさいだ。

「悪かった、仲直りしよう」寝込みを不意打ちで襲われてはどうにもならない。抵抗しようにも力が入らなかった。

もういいや‥。冴子は諦めて全身の力も魂も抜いた。ただの入れ物となり夫を受け入れる事にした。それで気が済んでくれるなら安いものだ。大丈夫。心は瀬戸のもとにある。


どうせすぐ終わる。お情けで声を出してやる事もしなかった。

「気持ちいい?」多少気を遣っているのか珍しく冴子に感想を求めてきた。

冴子は無言の抵抗を貫いた。気持ちなどいいわけなかった。


くだらない男。

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