第8話夢から醒めて
喧嘩の後のセックスは快感が一層深まるというのは世のカップルの間では常識なのだろうか。そのくらい帰宅後の行為に感じた快感はこれまでとは比べものにならないほど強烈だった。瀬戸の住むマンションに2人で帰りつき
部屋に入るやいなや、どちらからともなく激しいキスを交わして互いを求め合った。服を脱ぐ事も部屋を移動して布団に寝転ぶ事さえ煩わしかったが、瀬戸が冷静さを取り戻し、「さすがに玄関はまずいから」と冴子を落ち着かせて靴を脱いでから改めて部屋に引っ張りこんだ。どちらかと言えばより強く求めたのは冴子だったのかもしれない。先ほど瀬戸から距離を置かれてしまった事で、一瞬愛情の飢えを感じてしまったからだった。
瀬戸の動きにはもう昨日までの あどけない少年のような初々しさはなかった。繊細な指使いで冴子を深い快楽へ誘った。身体を重ねるたびに違う動きをみせる瀬戸。もしかするとセックスの上手さは才能もあるのかもしれないと冴子は感じた。
工場の流れ作業のように毎回、同じ動き
しかしない夫。全体的には5行程くらいのもので、何番目はこの動きと難なく言えるほどだ。冴子が楽な体位を要望しても「その姿勢は俺の腰が痛いから無理」と一蹴される。
今まで比べる対象がないから知らなかった。
夫は下手だ。今まで自分がしてきたのはただの交尾だった。
この先もずっと夫と一緒にいる以上、ずっとこうなのだ。永遠に淡白な交尾をして出産して子育てしてを繰り返す人生。快感に悶える一方、この先待ち受ける現実が頭をよぎりゾッとした。目の前の女がそんな事を考えてるとも知らずに瀬戸は冴子の乳頭を舌で転がしつつ夢中で吸った。快感が深まると同時に冴子は乳が張るのを感じた「あ、母乳出そう」しまった。こんな事なら先に絞っておけばよかった。しかし瀬戸は動じなかった
「いいよ出して、飲むから」
母乳すら快楽の道具に使うなんて やはり母親の権利を剥奪されても仕方がない事だ。琥太郎は母の乳を恋しがっているかもしれないのに。この恋を正当化する事はできない。身体がこの男をただ求めたのだ。瀬戸と一緒に生きる覚悟は決まっていないが、この先待ち受ける地獄に落ちる覚悟は何となくできているような気がしていた。もしバレたら夫に罵られ罵倒され殺されるかもしれない。でも不思議と怖くはなかった。冴子の身体の声を聞きながら慎重に抱いてくれる瀬戸を失う事の方が怖かった。
やがて少し瀬戸の動きが鈍くなった。疲労の色を察した冴子は体勢を入れ替え瀬戸の体の上に跨った。「いいよ、そのままで。私が動くから」
ここで冴子はもう自分の快感は一旦脇に置いて瀬戸を快感の渦の中に引っ張り込む為に全力を尽くす事を決めた。いまだかつて夫に対して一切抱いた事のない感情だった。セックスは交尾じゃない。愛情の交換だ。私はこの男を絶頂に誘う為なら死んでも構わない。
それは早く終わらせる為じゃない。彼を極楽へ誘う為だ
嵐のような時間が過ぎて気づけば窓には西日が差し込み、町は黄金色に包まれつつあった。
一緒にシャワーを浴びた。お互いの背中を流し乳房を含み合った。そしてそこでも我慢できず泡だらけの体で立ったまま身体を重ねた。泡の滑りによって未知の体位でも無理なく挿入できた。後ろから激しく突かれると今まで感じ事のない快感の階段をもう一段上がったような気がして冴子はあっさり果てた。知らなかった後ろ姿を征服される悦びだった。もう快感の永久ループに突入した気分だ。一生ここでこうしていたい。
風呂からあがり身体を拭き合った。冷蔵庫から取り出した冷えた水のペットボトルを冴子に渡し、リビングで休むよう促すと瀬戸はキッチンに立ち冷蔵庫の中をさらって蕎麦をゆがいてくれた。冴子はその様子を見つめる。幸せだった。
「オープンキッチンていいね、好きな人の顔が見られるじゃない」
「西田さんの家は違うの?」
瀬戸は冴子の真意が分からず不思議そうだった。
「私はオープンキッチンの家に住みたかったけど夫が反対したの。理由はよくわからない
オープンキッチンはダサいとか。自分の着てる服の方がよっぽどダサいくせに。あとキッチンは本来、独立しているものだって‥実家がそうだからって‥」
冴子は情けなくて泣けてきた。自分にはキッチンを選ぶ権利すら与えられていなかったのかと。
「ばかみたい。いつもキッチンに立つのは私なのにね‥」
瀬戸はそれ以上何も聞かなかった。自分の事を詮索させないかわりに人の事も詮索しない人なのだ。彼といると居心地がいいのはそういうところもあるのかもしれない。
「西田さん、食べましょう」瀬戸は手際良く
つゆと蕎麦と薬味を食卓に並べた。
求め合っているときは全く腹が減らなかったのに目の前に出された蕎麦の香りを嗅いだ途端、冴子の腹が鳴った。
瀬戸はあまり食べなかった。彼は冴子があまりにも夢中で蕎麦をすするのをみて、自分の
食べようとしていた分も提供してくれた。
ひとしきり食べ終えた冴子に瀬戸は聞いた。
「西田さん仕事はいつまで休み?」
「あ、明後日までは‥」
瀬戸は何か考えこむように上を見上げた。
「俺、明日早番なんで」
冴子はハッとして言った
「あ、ごめん!そうだよね、帰るよ!」
慌てて立ち上がる冴子を瀬戸は押し留めた。
「そうじゃなくて!‥よかったらその‥
帰ってくるまで部屋にいていいよって言うつもりで‥」
予想外だった
「いいの?」そう言葉を絞り出すのがやっとだった。
しかしそこでふと明日は歯医者の予約を入れてるかもしれないと思った。ずらせるならずらしてしまおうか、携帯電話のカレンダーで予定を確認しようと鞄から携帯電話を取り出して電源を入れたところで冴子の体は動きを止めた。全身の血の気が一気に引いた。
震える手で握りしめた携帯電話の画面には
夫からの鬼のような着信と
今どこ?のメッセージの通知が残されていた。
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