第7話 呼吸

冴子と瀬戸は昼過ぎに起床し、買い物に出る事にした。戯れあいながらマンションのエントランスを抜けてどちらからともなく手を繋いだ。瀬戸の手は血が通っていないかのように冷たくて、触れた瞬間冴子は少しぞくっとした。細くて力が弱くて強く握ると折れてしまいそう。まるでガラス細工に触れているようだった。そしてそれはまるで瀬戸と冴子の関係の様にも思えた。時間が経つにつれ瀬戸の言葉数は少なくなり、冴子が何か話しかけても うわのそらの様子になった。

「瀬戸‥さん?」

「西田さん、家帰らなくて大丈夫ですか」

意を決した様子で瀬戸は力強く聞いた。

「あ‥うん、主人も子どももしばらく家を空ける予定だから‥でも変なの!もう私の家庭の事なんて気にしないみたいな事言っといて今更そんな事を聞くの⁈」

茶化すような素振りで冴子が笑ったのがまずかった。瀬戸は立ち止まり怒ったように声を震わせて言った。


「ずっと気になってたけど!‥我慢して聞かないようにしてた。だって、もし家の事聞いたらきっと西田さんの事だから我にかえって慌てて家に帰ってしまうような気がして。怖かった。だから聞かなかったんだ。こっちの気持ちも知らないでそんな馬鹿にした言い方するなんて!」


冴子は初めてみる瀬戸の感情的な姿に言葉を失った。ごめんと呟くのが精一杯だった。他人には決して関心を示さない、感情を一切表に出さない瀬戸がこんな事で怒る事に戸惑いを感じていた。

「やだな、そんな事で怒らなくたって」

宥めるように腕に触れた冴子の手を瀬戸は振り払った。

「なら西田さんは本当にこのまま俺のところにいるつもり⁉︎そんな覚悟もないくせに!あーこうなるから嫌なんだ、人と深く関わるのは‥つまらない事で不安になったり嫉妬してイライラしたり。不用意な一言で自分が傷つくのも誰かを傷つけるのも辛い。嫌な自分を見せたくない。だからもう誰とも関わらずに一人で生きていこうって決めていたのに‥。西田さんと出会わなけば‥好きにならなければよかった」

それだけ言うと瀬戸は冴子に背中を向けて足早に去った。

冴子は自分が立っている地面が割れてバラバラと崩れ去り、一気にブラックホールの中に突き落とされたような気分になった。

傷つけた‥瀬戸を傷つけてしまった。繊細な彼はきっと冴子を昨夜から自分の元に引き止めている事に並々ならぬ罪悪感を感じていたはずだ。また危機管理に長けている瀬戸の事だから、人妻と不倫するなどのリスクを本来は冒したいはずはなく、やはり家族の元に帰れと言いたかったかもしれない。それでも彼は一緒に居ようと覚悟を決めてくれたのに。

茶化すような態度をとった私はなんて‥浅はかだったのか。追いかけようにも辺りは白い団地に囲まれている住宅街で、ここがどこかも分からず、瀬戸のマンションにさえも戻れない。とぼとぼと冴子は力なく足を引きずって歩き出し目についた小さな公園のベンチに腰をおろした。

恋は落ちる時は一瞬だけど、実った後は些細な事で相手を傷つけたり傷ついたり。くだらない事で喧嘩したり。そう言えば恋愛ってこんな感じだったな。瀬戸に背を向けられた事にショックを受ける一方、久しぶりに感じる恋愛の苦みに悶える姿を冷静に受け入れているもう一人の自分がいる事に冴子は嫌気がさした。楽しんでいる場合じゃないのに。


ゆずの「呼吸」の歌詞がふと頭に浮かんだ。学生の頃によく兄の影響でよく聴いていた。

ゆずの楽曲の中でも特に好きな曲だ。恋をするたび、傷つくたび泣きながら聴いていた。

冴子はおもむろにイヤホンを鞄の中から取り出して耳の中に突っ込み、曲を再生した。


想いが実ったはずなのに、どうして些細な事で気持ちがすれ違って、また傷つけてしまうのだろう。ただ一緒にいたいだけなのに‥。

冴子の瞳に涙が溢れた。参ったな、もうこんなにも私はあの人の事を好きになっている。


想いは最初はまだ歯止めをかけられる場所にいた‥かもしれない。だけど初めて唇を重ねた日に冴子の手を振り切って急速に駆け抜けていった。そして瀬戸によって身体が喜びの絶頂に達せられるたび もう理性が追いつかないくらい遠くまで行き、やがて誰かに助けを求めたくても引き返せないほどの場所に到達してしまったのだ。

泣きに泣いた。冴子は何十年かぶりに自分を守る為ではなく人を想って涙を流した。

どのくらいの時間そうしていたのだろう。俯いていた冴子は自分を見下ろす人の気配に視線をあげた。

そこにいたのは瀬戸だった。泣いている冴子にかけるべき言葉を探していたようだったが

何も思いつかないのか、しばらく黙っていた。探し回ったのか呼吸はかすかに乱れていた。「瀬戸さん、私嫌な言い方してごめんなさい。自分の事ばかり考えて、あなたの気持ちを何も思いやってあげていなかった。」


瀬戸は冴子の手を取り立ち上がらせるとおもむろに抱き締めた。冴子の頭から背中まで

長くて細い腕ですっぽりと覆い力を込めた。

そして一言

「帰ろう」と呟いた。






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