第5話深く深く

冴子は誰もがハッと振り返るような美人ではない。世の中の不倫ドラマ、とくに妻が不倫すれタイプのドラマは皆美しいし稼ぎが良くてシュッとした顔の夫とタワーマンションで裕福な生活を送っている。更にはいつもパーティーしている。だから冴子はそんなドラマを見るにつけつくづく不倫など自分に縁のない世界だと思っていた。瀬戸と恋に落ちるその時までは。

そもそも冴子と夫が築いた家庭は

裕福ではない。加えて夫は格好良くもない。実業家どころか准看護師として学生時代の奨学金の返済に追われながら郊外の小さな病院で髪を振り乱して働いている。八王子の外れの町に購入したハウスメーカーが建てたペラペラの一軒家。シルバニアファミリーの方がよほどいい家で生活をしている。スーパーで半額の品を狙って買い物する毎日。家計簿を毎晩確認し、買い物下手の冴子を夫はいつも叱るのだ。自分の趣味にはお金を惜しまないくせに冴子には金銭的な自由を与えない。

不満は抱えていても弁のたつ夫に反抗するより大人しく言う事聞いている方が賢いと、冴子は投げやりな気持ちで日々を過ごしていた。病院の看護助手と看護学生という立場で出会い同じ仕事をしていた時は明るくて話が面白い男‥だと勘違いしていた。また冴子は男を知らなかったので夫が好意を示し、交際を申し込まれた時は大変のぼせあがった。


瀬戸への想いに気づいてからは特に。琥太郎を車に乗せて家路につく道中に冴子はふと こう考える事が増えた。この子を妊娠しなければ‥私は夫と結婚しなくて済んだかもしれない。もっと自由に生きられた。瀬戸とも結婚できたかもしれないと。しかしバックミラー越しに チャイルドシートに座って寝息をたてている、まんまるな赤子の顔をみると

冴子はすぐハッとして自分はなんて嫌な女なのだと悲しくなるのだった。


また瀬戸と思いが通じ合って以降、なぜか嬉しさ以上に不安が心を覆ってしまう事に冴子は戸惑った。たとえばドラマの中の不倫妻は不倫がバレてどん底に落ちても美貌という武器が残る。それさえあればどうにか生きていけるほど。世の中、美しさほど強いものはない。でも私は違う‥もしも全てが破綻したら私に残るものは何もない。残るとしたら不倫妻という烙印だけ。

いいのか?それで本当にいいのか?授乳を口実に2階の部屋に琥太郎とこもり乳を与えながら夫の目を盗んで瀬戸とメッセージを交わしながら思う。思いは深くなるけれど恐怖も深くなる。

ただ夫とこの先何十年、刺激も安らぎもない窮屈な生活を送る未来を冴子はどうしても受け入れる気持ちになれなかった。瀬戸と恋に落ちて退屈な日々が180度変化して以来特に。


いっそ死んでくれないか?好きな人ができたから別れてくれと頭を下げてくれないか。

浮気してくれないか。そんな事を心から願うようになっていた。

別れたい自由になりたい。冴子はもう自分の気持ちに嘘をつきたくなかった。と同時にこの時 きっと冴子は我知らず鬼のような表情をしていたのかもしれない。琥太郎がなぜか急に乳首を離して泣き出したからだ。無垢な我が子をあやしながら冴子も琥太郎の大きな泣き声に自分の声を重ねながら咽び泣いた。

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