第4話戸惑い
あの日の秘密のキスから冴子おそろしくなるくらい舞い上がり、誰かが引っ張らないと地上に引き戻す事ができなくなるほどだった。
琥太郎を保育園に迎えに行った時、担任の先生に「ママなんだか綺麗になった。いい事ありました?」と言われた。そういえば職場には朝どんなに忙しくても化粧をほどこしてから出勤するようになったし、美容院に金をかけては勿体ないと今まで1000円カットしか認めなかった夫の目を盗んで少しのへそくりとクーポン券で
都心のヘアサロンで髪の毛を綺麗に整えて染めた。出勤時の服もパンツスタイルをやめてスカートにした。冴子は思った。私は数年ぶりに女として認められたのだ。ただし夫の帰宅前には必ず化粧を落とし、よれよれのスエットに着替え、髪は無造作に束ね直していた。変化に気づかれてはならない、それに夫の前では綺麗な姿を見せたくないという思いがあった。なぜなら気持ちがないからだ。
ただ瀬戸はあの日のキス以来、冴子に対して一層冷淡になった。無視と言っていい。少し縮まった距離はまたぐんと離れた。照れているのか?それとも気持ち悪くなった?多少思い悩んだりもしたが、それでも1日のうちどこかで瀬戸の姿を見かける事ができればそれで十分だった。冴子も周りの目を気にして瀬戸の事を視界に入れず仕事に集中した。もう見つめたりはしなかった。ちなみに瀬戸は頑なに連絡先を誰とも交換しない事で有名だ。
職場にさえ、実家の電話番号を提出するほどだ。冴子もあの日のキスの後、携帯電話の番号を聞こうとしたが結局断られた。
やはり特別という訳にはいかなかったか。
ぐいぐい積極的にいきすぎたばかりに瀬戸はひいたのかもしれない。
家では更に何も手につかない気分だが 家事はやらなくてはいけない。夫は手伝わないので‥と言うより、夫に家事の手伝いを頼んでもお前パートなんだから時間あるだろ、の一言が飛んできて、「嫌々手伝ってやってる」という空気を出されるので頼まない方がマシだった。機嫌よく家事を積極的にやり琥太郎の寝かしつけまで早々行う日は夫自身が勝手に冴子を抱くと決めた日だけだ。
洗い物を片付けて夫の晩酌に付き合わされる前に寝てしまおう。気力を振り絞って洗い物をしていると「冴子」夫が声をかけた。
「明日俺出かけるし車使いたいから、悪いけど病院の送迎バス使ってくんないか」
夫が言う送迎バスとは病院や老人保健施設の職員や患者、家族の為に最寄り駅から定期的にバスの事だ。それに乗って通勤しろと言うのだ。そうなると琥太郎を抱えて歩いて保育園の送り迎えや買い物をしなければならない私の事など何も気遣わない。苛立ちを隠して
「分かった、おやすみ」一言告げた。洗い物を終えて手を拭くと冴子は夫の顔すら見ずにリビングを出た。こんな自分勝手な男の本性に気づかず結婚したのが間違いだったのだ。勝手気ままさを豪放磊落な男らしさと勘違いしていた、恋愛中の自分を蹴り飛ばしたい気分だった。夫は悪くない。要は私の見る目がなかったのだ。冴子は自嘲して笑った。
翌朝、JR八王子駅の北口から真っ直ぐ長々と伸びる放射状の大きな歩道橋を真っ直ぐ進み、階段を降りると郵便局付近のバス待ち合い場所に着く。慣れない徒歩に疲労を感じつつ冴子はバスを待った。バスの到着時刻直前、ふと冴子は自分がおりてきた階段を見上げてハッとした。瀬戸が降りてきたのだ。バスが到着するのと瀬戸が待ち合い場所に着くのは同時だった。バスのドアが開くと、瀬戸は早口で「おはよう」と言った。冴子と瀬戸は何となく後部座席の隣同士に座った。偶然なのか他に乗客はいなかった。重い静寂を破ったのは瀬戸だった。寝坊して朝食を食べ損ねたとかそんな話だった。
冴子が黙っていると瀬戸は言った
「西田さんとあれ以来喋れなくて寂しかった」冴子はまともに顔が見られなかった。
あまりにも嬉しい言葉だった。
「避けられてたのかと思った。嫌いになったんだと。」冴子の言葉に瀬戸は一瞬言葉を失ったが、白状した。
「それは‥私自身が、西田さんの事を好きになったから‥です。目で追ってしまう。話しかけたらきっと周りに好意がばれてしまうかも。西田さんが出勤してる日は目で追ってしまう。仕事に集中出来なかった。苦しくて‥
電話番号については。
他の人は単に連絡取りたくないだけだけど
西田さんに限っては距離を縮めるのが怖くて‥連絡先交換して 電話したら、メールしたらもう後戻りできなくなりそうで。だから教えられなかった。」
瀬戸の白く細く長い指が小刻みに震えていた。冴子はその美しい指に思わず見惚れた。
「綺麗な手‥。」冴子はつぶやいてから改めて言った。「私はもう戻れなくてもいいと
思ってる。瀬戸さんのその綺麗な手を独り占めしたいと思った瞬間から、覚悟したの」
しばしの静寂のあと瀬戸がおもむろに冴子の手を取り指まで絡ませながら強く握った。
「覚悟なんて簡単に言わないで。でも‥もう俺も我慢できなくなった。」
俺?彼の一人称の変化に冴子は真の姿をみた。
手を繋いだ時に瀬戸が冴子の手の中にしのばせたのは自らの連絡先だった。冴子がその手の中の存在に気づくのは数分後、バスを降りて足早に歩き出す瀬戸の背中を見送る時である。
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