第3話 時間

わたしは今、恋をしているのだろうか。

いや、こんなセリフ。予告編で嫌な予感しかない悪趣味なドラマみたいなモノローグではないか。冴子は心の中で舌打ちした。ただナースコール対応で忙しく働いていても、ついナースステーションの中で記録を書いたり電話している瀬戸の事を目で追ってしまう事はあの日以来増えていた。昼13時

午前中の申し送りを日勤リーダーが行い、それを日勤者全員で聞く。その日は冴子はボンヤリしていた。やがて静寂を切り裂くようなメヌエットのメロディ、ナースコールの音でハッと我にかえる。瀬戸の顔を眺めているだけで申し送られている内容を一切聞いていない事に気がついたからだ。冷静さを取り戻し受話器を取った。「はい、伺います」

「午後のリハビリの時間なので佐藤さんが離床したいとおっしゃっていて、私行きます。」と冴子は言い残しナースステーションを去った。佐藤は大柄で右半身に麻痺の残る男性だった。「一人で起こせるだろうか」ただ皆、深刻にミーティングしている中だ。

遠慮して応援を呼ぶのを躊躇ってしまった。

ま、腕力には自信あるし。佐藤の居室に入り車椅子をベッドサイドにつけ布団をめくったタイミングで後ろから声がかかった。

「西田さん、この方ひとりで起こしたら腰痛めますよ。ま俺は1人でやっちゃいますけど」

25歳の大家だった。いわゆるギャル男の生き残りのような風貌で、海で焼いた肌と髪の毛の襟足が長いのが特徴だ。見た目は苦手だが

利用者にも優しく仕事もできる。冴子にとっては年下ながら頼れる先輩でもあった。彼は礼儀正しく、後輩ながらも年上の冴子には常に敬語で接した。

大家は優しく声をかけながら軽々と佐藤を車椅子に移動させると靴を履くのを手伝いながら大家は更に続けた。

「西田さん1人で頑張っちゃうから。無理しなくていいですよ、みんなでやりましょ」

大家の気遣いが、家では気遣われる事のない冴子には嬉しかった。

「ありがとうございます」

「あ、そう、これ言うなって言われたけど」

大家は悪戯っぽく笑った。

「西田さん1人じゃ大変だから手伝ってこいって俺に指示したの瀬戸さんすよ、その瞬間びっくりして全員ひっくり返りましたよ。ナースも思わず消毒液の瓶を床に落としてました。笑ったなぁー」

「そうなの?」

「俺10年近く一緒に働いてるけど瀬戸さんが人を労る姿なんてまぢ初ですよ‥」ふと考えこむと大家は笑った

「愛ってやつですかね?あ佐藤さんはリハ室まで俺が送るので西田さん上がってください。お疲れ様でした!」

その場に取り残された冴子はその言葉の甘い響きに酔いしれた。


時計が14時をさすと冴子は非常階段に続く扉を開けて階段をのぼった。のぼった先に誰がいるのか分かっていた。自前のパソコンで映画か何かを観ながらパンを食べている瀬戸だった。リーダーの彼は全員の休憩が終わってから遅く休憩をとるのだ。ここは誰にも邪魔されない瀬戸の居場所だった。「瀬戸さん、今日はありがとうございました」瀬戸は顔をあげるとかすかにまなじりを上げた。「私が何か?」

「佐藤さん起こす時、大家さんをヘルプで来させてくれたじゃないですか、私助けを求められない性格だから助かりました」

「ああ」瀬戸は恥ずかしそうに下を向いた。

「となり座っていいですか?あ、それから私のリサーチ能力凄くないですか?瀬戸さんの隠れ家みつけちゃった」冴子は瀬戸の隣に腰をおろした。

「よく喋りますね西田さん。休憩場所変えなきゃ」

「ダメです。」冴子は笑った。楽しかった。

今日は帰りたくない、夫は休みで針治療に行っている。

治療で血行が改善されると途端に冴子を求めてくるのだ。憂鬱だった。

「私パン買ってきたんです。あ、アップルパイ今日は手に入りました!この前の分をお返しします」 

「いや、あれは‥」困った表情ながらも瀬戸が嫌がる素振りをみせないのが嬉しかった。

「私には焼きそばパンがあるので!」冴子は更に大きな声で笑った。その様子を瀬戸はみつめた。

「西田さん笑い方豪快で素敵です。」

冴子はそのまっすぐな瞳に動揺して視線を外した。「家じゃ笑わないから、職場では自然と笑顔になれるんです」

「家、楽しくないんですね‥」

「あ、まぁ正直そうです。夫は我が強くて何をするにも夫の言う通り。お金から家事のやり方や買い物の仕方、洗剤の種類まで全て管理されていて息が詰まりそう。自由がなくて

私がしっかりしてないからですけど」


嫌な話聞かせてしまった。慌てて立ちあがろうとした冴子の腕を瀬戸は優しくつかまえた。「奪っちゃおうかな‥」その言葉は冴子の中の理性を取り払い本能を目覚めさせた。「それ、ほんき?」冴子には分かった、今ならいける。はっきり確信をもった。ふと近寄ると瀬戸の唇を奪った。非常階段での甘美なキスに心は踊った。柔らかい唇の感触に悶えながら、求めるように舌を差し込むと戸惑いながら瀬戸は優しく舌を絡ませてきた。「うまい‥」キスがうまい。冴子は感動した。唇の力の抜き方、舌の絡め方。

夫の粘着質に舌を押し込み顔じゅう唾液だらけになる激しいキスにはいっさい心が動いた事はなかったのに。同じキスでもこんなに違う。瀬戸は昂ったのか冴子の乳頭を触りながら左手で刺激した。その快感に冴子は震えた。堕ちる‥私は堕ちる‥。階段を転がるように。きっと地獄まで。だってもうこんなにも私は瀬戸を愛し、彼からしっかりと愛を返してもらったのだから。


 

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