第2話 あの日

まず

冴子が瀬戸にはじめて心惹かれた時の話をしよう。

瀬戸は掴みどころのない男である。出会ったのは勤務先の老人保健施設。勤務中も彼は職員とはほぼ言葉を交わさない。日勤帯はリーダーが1人、そして早番 日勤 遅番の職員が利用者のケアにあたる。声を掛け合い協力し合って事故なくケアにあたるのが最大の責務だが

瀬戸は全く喋らない。無口というより話しかけるなと言わんばかりの眼光の鋭さを持って他者を寄せつけない空気をまとっていた。

だからか、主任介護士も瀬戸に周囲との調和を求めなくて済むように、主に記録作業と全体への指示出し、フロアの見守りや申し送りなどある程度、単独で行って差し支えない日勤リーダー業務を任せていた。瀬戸はいつもナースステーションで黙々と記録を書き、冴子に対しては「西田さん、時間になったらさっさと帰ってくださいね。私、時計みないので」とパートのあがり時間14時になっても親切に声などかけてやらないから帰れと言わんばかりの言い方で、いつも時間通り仕事を終えられない冴子を冷たく牽制した。でも冴子はこの男を嫌いではなかった。醸し出す雰囲気が何だか好きなタイプのものだった。本当に冷徹な人間ではない気もしていた。一緒にケアにあたるとき、対象の利用者に対しては優しく声をかける。普段とは違う低くて優しい声。更に彼の香りが好きだった。指が交差して偶然触れた時、冴子の身体中の細胞が喜びの反応を示した。


決定打はある日の出来事。利用者に対し冴子は居室で利用者のケアにあたる為プライバシーに配慮してカーテンを閉めて行っていた。すると冴子が居室にいる事に気づかずに瀬戸が居室に入ってきた。利用者と何やら楽しそうに喋っている。「鉄仮面じゃなかったんだ」人の目を見ない黒縁の眼鏡の奥の冷たい光は、きっと今あたたかな眼差しに変化している。見てみたいけど、私がここで姿をみせたら瀬戸は黙ってしまうかもしれない。

息を殺している冴子の気配を察したのか瀬戸は急に黙りこんだ。そしてせかせかと出て行く足音だけがあたりに響いた。


そしてこの日の14時。瀬戸にさっさと帰れと常々言われいる冴子はやり残した仕事を他の職員に引き継いで、ナースステーションでパソコンのキーボードを叩いている瀬戸に

「お先に失礼します」と告げた。どうせいつもみたいに無視されるのだろう。足早にその場から去ろうとする私の背中に瀬戸の声が追いついた。「西田さん、ちょっと」

瀬戸は立ち上がった。180センチはあろうかというすらりとした姿。ずんぐりした夫にはないものだ。

私の先に立って歩くと非常階段の扉を開けて私をいざなった。

叱られる?警戒する私の顔を一瞥すると瀬戸は決まり悪そうな顔をして、どこに隠していたのかビニール袋に入った何かを私に手渡した。

「これ、売店のアップルパイですか?」私は驚いて叫んだ。この老人保健施設には同敷地にこの施設の母体である大きな病院がある。

ゆえに大きな売店があり、近所の作業所で作られているパンも入荷される。その中でもアップルパイは大人気で入荷次第売り切れてしまう商品だ。瀬戸が持っているのはまさにそれだった。

「賄賂です」瀬戸は言った。

「さっき みかけた事は内密に」

少し笑った‥ようにみえた。

その瞬間、冴子の中で何かが弾けた

以来、冴子の胸の中は瀬戸でいっぱいに、完全に支配され続ける事となる。


そう夫との行為の最中でさえも


恋なんて落ちる時は一瞬、かつ簡単だ。

パートナーが居ても居なくても関係ない。

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