春
彼は貧乏だった。どれくらい貧乏なのかというと、一週間をパン切れ一つのみで過ごさなければならないほど、貧乏なのであった。彼は体力だけはあったので、どんなに飢えに苦しんでも、死ぬということはなかった。それは両親が彼にくれた最初で最後の贈り物だった。
彼は途方に暮れていた。この大都会東京では、金がなければ生きていけない。彼は悩んだ。彼は中学を卒業し、すぐにこの街へ来た。両親は彼が物心ついた頃には亡くなっていて、意地悪な親戚に彼は預けられることになったのだ。そこで彼は叔父と叔母に執拗にいじめられ、飯を与えられない日もあったし、殴られたり蹴られたりするのは日常茶飯事だった。彼は何年もその暮らしに耐えた。しかし、中学を卒業すると、緊張の糸が切れたのか、家を出ようと決意したのだった。卒業式を終えて、そのままなけなしの金を握りしめて、東京へ電車で出発した。彼にもう帰る気はなかった。自立して、これからは自分の人生を歩もうと決意したのだった。
しかし、現実は甘くない。彼は搾取された。無知な少年は、生活の苦しさという彼の足元を見られ、低賃金で働かされた。違法な雇用である。だが、彼は職場の異様さに気付くことができなかった。経験の浅さゆえである。彼の生活はまったく改善しなかった。兆しさえなかった。働けども働けども・・・彼は何十時間でも働いた。とにかく忙しかった。じっと手を見る暇もなかった。
でもある日、彼は壊れた。
なぜそうなったのか、彼にはわかっていなかった。朝、古いアパートで目を覚ますと、体が動かなかった。指さえも動かせなかった。ただ天井を見つめているしかなかった。何とか口は動かすことができたので、彼はひとりごとをつぶやいた。
「どうして身体が動かないのだろう。働いて金を得なければならないのに」
彼の身体は、精神より先に限界を迎えたのだった。
彼はその日一日中、ベッドの上から動くことができなかった。寝返りをすることはできたが、どうしてもベッドから降りることができなかった。彼は泣いた。そんなつもりはなかったのに、なぜか涙が止まらなかった。彼自身、理由もわからないまま、泣いていた。自分の中の何かが壊れていく音がしたような気がした。
気が付くと彼は眠っていて、起きると日はすっかり暮れていた。彼は起き上がり、キッチンで水を一杯飲んだ。少し落ち着いたようだった。
「しかし、なぜ身体が動かなくなったのだ。不思議なこともあるものだ」
彼はコップに水をもう一杯注ぎ、一気に飲み干した。そして、服を着替えて外へ出た。
夜の歓楽街は人で溢れかえっている。大抵酔っぱらいで、叫び声があちらこちらで聞こえる。夜特有の風と、匂いが立ち込めている。
彼は人いきれの中を進んでいった。夜のバイトに行くためである。彼は四六時中働いているのだ。
もう少しでバイト先に着くというところで、ある老人とぶつかった。
「すみません」
彼は謝る。
「君は、幸せかい」
老人はしゃがれ声で尋ねる。見ると、虚ろな目をした、やせぎすの、長い白髪の老人だった。布を身体に巻いていて、僧のようにも見える。しかしその貧相な姿から、単なる貧乏人だという印象も拭えない。
「あなたは、誰ですか」
彼は質問に答えず、さらなる質問をした。
「私は仙人だ」
「仙人」
「ああ。困っている人を見ると放っておけない良い仙人だ」
「はあ」
「困っているのだろう」
「生活に困っています」
「ならば、渋谷のハチ公像の股座に触れてみよ」
「え?」
「ではさらばだ」
老人は立ち去った。
彼は、変な人もいるものだと思っただけで、働いているうちにその老人の存在も忘れてしまった。
それから数日が経ったころ、彼はまた倒れこんだ。過労が原因である。
熱が出て、一週間寝込んだ。働くことができないので、当然収入もなく、生活は一層厳しいものとなった。もちろん病院には行かなかった。
彼がベッドの上で苦しんでいると、老人が訪ねてきた。
「苦しいか」
「勝手に入らないでください」
「その苦しみを取り除こう」
「いや、いいです」
「なぜ拒否する」
「人に借りをつくりたくない」
老人はこの少年を哀れに思った。
「これは貸し借りではない。私が君を助けたいと思っているから、助けるのだ」
「よくわかりません。僕を騙しても金は一銭も持っていませんよ」
「詐欺ではない。君の助けになりたいのだ」
「僕とあなたは初対面のはずです。そんな気持ちになるはずがないでしょう」
「君は、人の善意を信じていないのか」
「わかりません。ただ、知り合いでもない人に施しを受けるのは何だか奇妙だと思います」
「そうか」
老人は少し考えた。彼をどうやって助けるか。でもなかなかいい案は浮かんでこなかった。
「君はどうすれば私の助けを受け入れてくれる?」
とうとう老人は彼に訊いた。
「さあ。もう僕は自分一人で生きていきたいと思うのです」
「しかし、生活は苦しいだろう。それに、労働環境も劣悪だ。賃金も相場よりずっと低い」
「でも人に助けを求めるほど、自分を甘やかすつもりはないです」
「これは甘えではない。人は誰しも人に助けられて生きている」
「それはそうなのかもしれませんが、とにかく僕は一人で生きていきます」
「強情だなあ」
老人は困った。こうも強情だと、助けようもないではないか。
そこで老人はひらめいた。彼の職場に行き、上司を改心させれば、彼の労働も改善されるのではないか。老人はすぐに彼のアパートを出て、彼の働いている職場へ向かった。
「おっさん。誰なんだよ。勝手に入ってくるんじゃないよ。ここは従業員だけが入れるスペースなんだから」
店長の態度はあくまでもそっけない。コンビニのバックスペースで彼らは話し合っている。
「ここで働いている少年がいるだろう」
「いるけど、それがどうした」
「彼の賃金をもう少し上げてくれないか」
「何で指図されなきゃならないんだ」
「だっておかしいではないか。彼がこんなひどい条件で働かされているのは」
「仕方ないだろう。売り上げもあまりないし、あいつも使えないやつなんだから」
「それにしてもひどいじゃないか。彼はまだ少年だよ」
「帰ってくれ」
老人は思わず超能力を使った。店長は吹き飛び、机とともに壁へたたきつけられた。店長は意識を失ったようだった。
「しまった。こんな風に超能力を使ってはいけないのに」
老人は頭を抱えた。机を元の位置に戻し、彼を椅子に座らせた。そして、ここを掘れば金貨が出るという旨の手紙と、ある地点にバツ印がつけられている地図を手に握らせた。
老人は店を出た。
少年のアパートに戻ると、彼はすでにいなかった。意気消沈の老人は、置手紙を書いて、彼のアパートから立ち去った。
老人は山へ帰った。そして、修行をすることにした。
岩山の頂点に座し、目を閉じた。さまざまな幻聴が、彼の耳に聞こえてきた。それは甘い誘惑の声だったり、厳しい叱責の声だったりした。老人はじっと耐え続けた。さまざまな罵詈雑言と、甘言とが、交互に聞こえ、老人の精神を苦しめた。
そして最後に、あの少年の声が聞こえた。
「どうして僕を助けようとしたの。余計なお世話だよ。偽善の行いで自分の心を潤そうとしているだけでしょう。あなたはただ自分の勝手な判断で、自己満足のためだけに、僕を助けようとしたんだ。あなたは本当はひどい人だ」
老人は彼の声に耳を傾けた後、言った。
「違う。私は心から君を助けたいと思っていた。私自身の喜びは、単に行為だけに依拠したものではない。君自身が真に喜びを感じた時、私は喜びを感じるのだ。君を私のエゴだけで助けようなどとは微塵も思っていない。君が助けを求めていたから、君が苦しんでいたから、君が困っていたから、手を差し伸べようとしただけだ」
老人の額から、汗が出て、頬を伝い、顎へと流れた。
「私は、間違っていたのだろうか」
老人の心に、迷いが生じた。
「私は、彼を助けるべきでなかったのか。彼は、私の助けなんかまったく必要としていなかったのだろうか。私は自分自身のためだけに彼を救おうとしていたのだろうか」
老人の顔は険しくなる。身体中が熱を帯びている。汗が噴き出る。
「私は、彼の職場の上司を吹き飛ばした。暴力だ。あんなことはするべきではなかった。私は間違っていた」
老人の身体がゆらりと傾き、体勢を崩した。思わず老人は目を開ける。幻聴はもう消えていた。一方で眼前には現実が広がっており、それは、このまま落ちれば死ぬという現実だった。岩山の頂点は高い。そして、老人が座っていたのが奇跡と言っていいほど、頂点は鋭利に尖っていた。
老人は死を覚悟した。岩をかろうじてつかんでも、もろく崩れてしまうだろう。ならばいっそ、そのまま落ちていこう。
老人が再び目を閉じた。
その時、だった。
老人の手がつかまれた。
老人は再び目を開く。
あの、少年だった。
「ごめんなさい。おじいさん。せっかく僕を助けようとしてくれていたのに、その気持ちを無碍にしてしまって。コンビニにも行ってくれたんだね。ありがとう。おじいさんのおかげで、目が覚めたよ。僕はもう一度やり直そうと思う。もっと精進して、人を助けられる人に、人から差し伸べられた手を素直に取れるような人に、なりたいと思う」
少年が老人の手を引っ張り、岩山へ引き戻した。
「ここへ来たのは偶然だけど、きっと偶然じゃないんだね」
老人と少年は抱き合った。
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