ソクラテスのせんべろ
「俺はせんべろによく行くんだけど」
「せんべろ?」
「低価格帯の居酒屋のことさ。まあ、とにかくよく安い居酒屋に行くんだけど、やはり安い居酒屋には変な人が大勢いるんだよ。まあ酔っ払いってのはだいだい頭のおかしい人種ではあるんだけどさ、その中でもとりわけ頭のいかれた人間がせんべろにいるんだ」
「そんなことはないと思うけど」
「いやいや、本当におかしな人ばかりだよ。いい意味でも悪い意味でもね。俺はその危なっかしい感じが好きで飲み屋街によく行くんだよ。学校では学べないことがたくさん学べるぜ」
「どんな人がいるの?」
「例えば、自分の抜けた歯を数珠にしている人とか、謎の真っ黒の砂を売りに来る人とか」
「確かに変だな」
「そうだろう?昼間には会えないような人が夜の居酒屋には現れるんだ。そして俺が一番興味を惹かれたのは、ソクラテスだ」
「ソクラテス?」
「ああ。確か古代ギリシャの哲学者だ。髭がもじゃもじゃした太った爺さんなんだけどさ、その爺さんがいつも居酒屋に来て言うんだよ。自分はソクラテスだって」
「生まれ変わりってこと?」
「違う。ソクラテスそのものだって言い張っているんだ。俺はソクラテスなんだ。だからお前らは俺を敬うべきだ。敬うべき人には酒を奢るのが人としての道理である。とか言って、いつも誰かに会計を支払わせる」
「ただの迷惑な人じゃないか」
「でも面白いからみんな奢っちゃうんだよ。酔っぱらって財布の紐も緩んでいるしさ」
「ソクラテスみたいに人を質問攻めにしたりするの?僕はソクラテスに対してそんなイメージを抱いているんだけど」
「その爺さんは哲学についてほとんど何の知識もないと思うんだけど、確かに質問はよくしている。というより単純にお喋りなんだ。誰彼かまわず話しかける。俺も何度か話をしたよ」
「その時はどんな話をしたの?」
「一方的に競馬の話をされた。俺の話は一割も聞いてくれなかったよ」
「ひどいなあ」
「ま、面白いからいいんだけどさ」
僕はその自称ソクラテスを一目見たいと思った。そこで、彼とともにその居酒屋へ行ってみることにした。
居酒屋はすでに客が大勢いた。成人式があったためか、若者が多かった。二年前、成人式のあとに友達と飲みに行ったことを思い出した。
「若者が多いなあ。新成人か」
「僕らも二年前はそうだったじゃないか」
「俺は成人式行ってないぞ」
「あれ、そうだっけ?」
「ああ。有象無象の集まりに興味はない」
「尖ってるなあ。そんなこと言うなよ」
僕らは奥の席に座り、ビールと串、ポテトサラダを注文した。
「今日は新成人のせいなのか、変なやつはあまり来てないな。タイミングが悪かった。今日が成人式なんて知らなかったよ」
「僕も忘れてた。昨日新聞で読んだはずなんだけどな」
「すまんな。また別の日にここに来よう」
それから彼といろんな話をしながら、酒を飲み、僕らは酔っぱらった。そろそろ次の店に行こうと思ったところで、その人は来た。
ソクラテスだ。
彼が僕の肩をたたき、その爺さんを指さし教えてくれた。でも僕は彼に教わる前に、何となくこの爺さんがソクラテスなのだろうな、と気づいていた。爺さんが異様な雰囲気を纏っていたからだ。確かに昼間に会えそうもない人だ。
「俺はソクラテスだ」
その爺さんは高らかに宣言するように言う。若者たちは笑い転げる。爺さんの真剣な顔と非常に対照的だ。
爺さんを馬鹿にする声がそこかしこで聞こえる。とうとうある男が席を立ち、爺さんの前で言った。金髪で、両耳にピアスをしていて、カジュアルな恰好をした男だった。人を見た目で判断してはいけないけれども、その表情とも相まって、良識のある人間には見えなかった。
「邪魔だ。どっか行っちまえ。お前が来るような場所じゃねえなんだよ」
相手を攻撃する強い口調だった。ソクラテスは反論する。
「その台詞を言うのは俺だ。俺はいつもこの店に来ているんだ」
「知らねえよ。とにかく今日は俺たちが気持ちよく飲んでいるんだ。どこか遠くへ消え失せろ」
ソクラテスは店内を見渡した。まるで政治家がスピーチをする前に観衆を一瞥するみたいに。
その様子を見ていた観衆から、声が上がった。
「その爺さんを叩きのめしちまえ」
叩きのめす?酔っているとはいえ、それはやってはいけないことだろう。いくら若気の至りと言っても、限度がある。
実際、僕の向かいに座っていた彼は、立ち上がって、
「やめろ。言っていいことと悪いことがあるぞ」
と言った。彼は勇気があると、僕は思った。それも素晴らしい、人を思いやる利己を超えた勇気だった。
「引っ込んでろ」
彼は取り押さえられた。それを契機に、店内は異常な熱気に包まれた。日常の抑圧から解放され、無法の空間と化した。正常な判断能力のある人間は、もうこの場にはいなかった。僕も酔いと状況の無秩序さの影響で、頭はこれまでにないほど混乱していた。
店内は混沌を極めた。誰もが好き勝手騒いだ。ここには書けないほどの罵詈雑言が飛び交った。世界の終わりを見ているようだった。
ソクラテスは入口で、金髪の彼と向かい合っていた。
周りから、やっちまえ、という声がする。
僕と彼は取り押さえられ、動けずにいた。気分も悪くなって、吐きそうだった。
「じゃあ、これを飲んでもらおうか」
金髪の青年が取り出したのは、白い粉の入ったポリ袋だった。どう考えても、良い薬には見えなかった。青年はそのポリ袋を開け、テーブルからハイボールの入ったジョッキを手に取り、その粉を入れた。
「これを飲め」
「奢ってくれるのか」
「もちろん」
「その前に俺の話を聞いてくれ」
「お前、状況が見えてないのか」
「一つだけ、話をさせてくれ」
「話したら、これを飲んでくれるんだな」
「ああ」
笑い声が店内に響く。その場にいる全員が、この状況を楽しんでいるようだ。僕と彼以外。
「俺はソクラテスだ」
笑い声がまた上がる。野次が飛んでいる。頭がおかしい。馬鹿な爺さんだ。そもそもソクラテスって誰だよ。いろんな声が、空中に散らばっていく。
「俺は哲学を知らない。政治も経済も、スポーツも、音楽も、歴史も、文学も、とにかく何も知らない。でも知らないということを知っている。君たちと違ってな」
「偉そうなことを言うな」
誰かがからかう。
「俺はソクラテスだ。俺は、酒が好きだ。ギャンブルが好きだ。そして、この居酒屋が好きだった。そこにいる君」
ソクラテスは僕らの方を指さした。おそらく彼と話をしたことを覚えているのだろう。
「俺の競馬の話を聞いてくれてありがとう」
彼は彼を抑えている若者を殴った。そして身を起そうとした。でも反撃を食らって、また倒れこんだ。痛みでうめき声をあげる彼に、若者はさらに蹴りを入れる。暴力こそが絶対の世界だった。
「やめろ。それ以上彼を傷つけるんじゃない」
爺さんは怒鳴る。
「話は終わりか?」
「ああ。この世界に絶望したよ。もうこれ以上生きていても仕方がない」
「じゃあそれを飲め。逃げようとしても無駄だぞ。俺たちはどこまでもお前を追いかけてお前を裁く。正義の鉄槌さ」
みんな涙がでるほど笑っている。僕は立ち上がろうとした。でも、立ち上がろうとした瞬間に顔を殴られ、倒れこんだ。頭がくらくらする。
「飲め」
青年はグラスを爺さんに渡した。
「いいだろう。その前に、君たちに忠告をしておこう」
「話は終わりじゃなかったのかよ」
「最後の戯言だ。それくらい許してくれ」
ソクラテスは店内を見渡した。自分の瞳に景色を焼き付けるように。
「暴力では何も解決しない。暴力は、一時的な対処療法でしかない。学べ。学ぶことは、あらゆる問題を解決する唯一の手段だ」
「ソクラテスってやつの言葉か?」
「さあな。ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、俺はろくに知らない。学校に行ったことがない」
「じゃあ、ただの馬鹿じゃねえか。俺でも学校に行ったことあるぜ」
「そうか。まあ、俺が無知であることは自覚している。学もないし、知恵も知識もない。でも、馬鹿ではない。周りに流されて自分を見失ったことは一度もない」
何人かは沈黙した。でも大多数は笑って、あれこれ文句を述べていた。
「じゃあな」
僕を見て、ソクラテスはハイボールを飲んだ。僕と彼は立ち上がって、ソクラテスのもとへ駆け寄ろうとしたが、阻まれて、近づくことができなかった。
ソクラテスは倒れこんだ。
「本当に死ぬとはな。この薬を試したのは初めてだったんだが」
青年は笑った。
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