ウェルテル病

 僕は七回自殺した。そのうち、三回は飛び降りで、二回はナイフ、首つりとガスが一回ずつ。僕は死んだ。確実に死んだはずだった。しかし、どうしてかはわからないが、今日もこうして呼吸を続けている。僕は死んだはずなのに。どうしてだろう。僕は何日もこのことについて考えた。でも答えは出なかった。僕は自分が生きているのか、あるいは死んでいるのか、確証が持てなくなった。

 八回目の自殺の方法と場所について、考えようとしたが、ひどく頭が痛みだしたので、今日はやめることにした。近くのスーパーマーケットで総菜でも買って食べようと思った。

 スーパーには、様々な年齢層の人々がいた。白髪の眼鏡をかけた腰の曲がった男性がネギを見つめていた。制服を着た女子中学生の二人組がアイスコーナーでお喋りをしている。ボブカットのすらりとした背の高い女性が薬を探している。中年男性がポテトチップスを手に取っている。子供が店内を走り回り、店員はクレーム対応に忙しい。店内BGMは誰にも相手にされないまま、流れ続けている。商品は今か今かと手に取られるのを待ち構えて、レジ袋はまるで悪役のような扱いだ。ペットボトルは首を傾げ、魚は空虚な目を天井に向けている。

 まあそんなわけで、僕は店内を一周しながら、いろいろなことを考えた。人間とか、生と死とか。そんなことを。

 僕は死んだはずなのに、どうして生きているのだろう。あるいは僕は夢を見ているのかもしれない。現実の僕は意識不明で病院に入院していて、今見ている現実は夢なのかもしれない。そんな風に思うと、この現実はおまけみたいなもので、何だか気楽に生きていけそうな気がした。

 総菜コーナーを覗く。たくさんの商品が並べられている。もう夕方なので、半額シールを貼られている商品も多く見受けられる。僕はポテトサラダとチキン南蛮を手に取った。ご飯は炊くことにしよう。僕はレジに向かった。

 レジに行くと、ちょうどいいタイミングでレジに応援が来て、僕はすぐに会計を済ませることができた。持ってきた手提げバックに商品を入れて、店を出た。

 外は暗くなっていた。たくさんの車が、各々の家を目指して走っていた。空を見上げると、月が雲の隙間から顔を出した。風が僕の髪を揺らした。夏の夜のにおいがした。

 僕は帰り道、この一瞬は、今だけしかないのだと思った。一秒は次の瞬間に次の一秒になっている。僕らはずっと自分という存在が永遠に続いていくように感じているけれど、実際、自分というものがどこまでオリジナルな存在なのか、そして過去の自分と現在の自分は同じ存在なのか、そんなことを考えた。でも答えは出なかった。出るはずがなかった。そういう問題は賢い哲学者にでも任せよう。ろくに授業を聞いていなかった僕には、難しい問題は、やはり難しいのだった。

 僕はどうして自殺したのだろう。そのことを考えた。でも理由らしい理由は見当たらなかった。世の中とか、社会とか、自分とか、人間関係に対する不平不満は積もるほどあるし、何もかもが嫌になって、自暴自棄になることは多々あった。けれど、そのどれもが自殺をする明確な理由になるとは言えない。あるいはその要因がすべて絡み合って、僕を自殺へと追い込んだのかもしれない。それはあり得ることだった。

 冷静に考えてみると、僕は時々熱に浮かされ頭がおかしくなる時がある。感情のコントロールができず、強い負の感情に支配され、涙が止まらなくなったり、怒りでものを殴りたいだけ殴ったりすることもある。つまり情緒が不安定になることがあるのだ。そんな時に僕は自殺をしたくなる。自分自身が嫌になって、こんな自分なら、いっそ死んでしまいたい、否、殺してしまいたいと思うのだ。そうだ。僕は死にたいのではない。自分自身を殺したいのだ。そんな気がしてくる。

 ウェルテルはどうだったんだろう。昔読んだ小説について考える。でも、僕はその小説の内容をほとんど忘れてしまっていた。三角関係と、ピストル自殺という単語が頭に浮かんできただけだった。

 人はなぜ生まれるのだろう。苦しみの多いこの世界に、どうしてわざわざ生まれなくてはならないのだろう。いつか人は死ぬ。そのことをいくら考えても、そのことをいくら思っても、結果に変わりはない。平等に死は訪れる。死は、平等主義者で、平和主義者なのだろうか。死を思えば、人は争いなんてしている暇はないと思うのだけど、大半の人はそう思っていないらしい。

 一人暮らしのアパートに戻ると、部屋に人がいた。見知らぬ人だった。

「誰ですか」

 僕は訊く。

「死だ」

「死、ですか」

「死が具現化した存在だ」

「変なことを言う人ですね」

「事実を言っているだけだ」

「はあ」

「対して君は、生を具現化した存在なのだ」

「僕が、ですか」

「ああ」

「何と言ったらいいのか。人は誰しも生を具現化した存在なのではないのですか」

「人は生も死も内包している。つまり中途半端な存在なのだ。換言すれば、両義的な存在であると言える」

 僕は話が長くなりそうな予感がしたので、靴を脱いで部屋に上がった。そして卓袱台の上に買ってきた総菜を置いた。

「死神さんは」

「死神ではない。死だ」

「何度聞いてもよくわからないのですが」

「わからなくていい」

 僕はその死という人―人と呼んでいいのかどうか、判断できないのだが―を観察しようとした。でも彼(あるいは彼女。性別など無意味な気もするが)を見ても、次の瞬間にはその容姿をどうしても思い出すことができなかった。頭の中に靄がかかって、どうしてもその姿を記憶しておくことができなかった。

「僕は人間ではないのですか」

「狭義ではそうなるな」

「広義だと人間なのですか」

「さあな。解釈によるだろう」

 だんだん頭が痛くなってきた。彼は何を言っているのだろう。

「僕が生の具現化であるとは、どういうことですか」

「私をどれだけ憧憬しても、私にはなれないということだよ」

「つまり、どれだけ死にたいと思っても、死ねない」

「そういうことだ」

 彼は頷いた(と思う)。

「僕は一生、生き続けるということですか」

「一生という概念がそもそもないのだが、理解としてはそれでいい」

「そしてあなたは死に続ける」

「ああ」

「死に続けるとはどういうことなのですか」」

「様々な考え方がある。例えば、誰にも記憶されていない。それは存在しないとみなされるということだ」

「それが死」

「あるいはな」

 僕は考え込んだ。少しでも彼から目線をそらすと、彼のことを忘れてしまいそうになる。

「生命活動が停止する。これも死だと言えるだろう」

「ではあなたは、呼吸もしないし、ご飯も食べないということですか」

「そうだ」

「それは、楽しいのでしょうか」

「おそらく感情すらもないのだろう。すまないが、私自身も私をあまり把握できていないんだ」

「それは、僕も同じですよ」

「あるいは答えなどないのかもしれない」

「そうですね」

 次の瞬間に彼は消えていた。いや、初めからいなかったのかもしれない。

 だんだんと彼の存在を忘れていく。会話の内容もおぼろげになる。

 僕は、チキン南蛮をレンジで温めて、食べた。美味しかった。これが生きるということなのだろうか。

 八回目の計画を立てても、僕はウェルテルにはなれない。僕はそう考えて、温かいご飯を食べた。

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