アスリートとアーティスト
第16話
現在時刻、朝の七時。
俺は
昨日の約束を果たすべく携帯の目覚まし機能をフル活用し、日曜にも関わらず日の出直後の朝靄の中起き……られず、美鳥が起こしてくれたのはいい。
当然食堂が開く前だったので朝食を食べそこねたこともまだいい。
……バスの始発、案外遅い時間なんだな。
美鳥が毎朝寮からリンクまで走って通っていると思い出したのは、
俺は急遽上下共に彩華のジャージに着替えなおして数年ぶりにマラソンなんてことをやる羽目になったのだが、
…………もう、二度とやらない。心に誓った。
一体何キロ走った?俺より細い身体してるくせにあいつは化け物なのか?
疲れなんて全く見せず、リンクの感触を確かめるようにすいすいと滑る美鳥は、実は人間じゃないんじゃないかと疑わずにはいられなかった。
「おう、兄ちゃん。若けぇのに元気ねぇなあ。」
リンクで滑る美鳥を死んだ目で見ながらぐったりしていた俺の頬に、ヒヤリと冷たいものが押し付けられる。
反射的に掴んで確かめれば、それはスポーツ飲料のペットボトルで。俺は顔を上げ、差し入れてくれた存在に頭を下げた。
五十代くらいだろう、スタッフと書かれたTシャツを筋肉でパンパンにさせている見るからにガテン系の人なのだが、実はこの畔倉アイスアリーナのオーナーであることはつい先程美鳥から聞かされたばかりだ。
名前は確か、
「
「いらねぇつったのに御丁寧に入場料貰っちまったからな。それくらい貰っとけ。」
「……どうも。」
気にすんなと豪快に笑う源さんに、俺は遠慮なくボトルの蓋を捻り中身を煽る。
汗を出し尽くしてカラカラに乾いた身体に水分が染み渡っていくのがわかる。
あー、ちょっと生き返った。
「美鳥君が友達連れてくるなんて初めての事だからな。兄ちゃんもいつでも来いよ!」
「っ、ごほっ、」
源さんは俺の背中をバシンっ、と思いっきり叩いてから、リンクへと視線を向ける。俺もつられるように視線を美鳥へと戻した。
「ちょっとばかし事情は聞いてる。俺に出来ることがあればなんでも言ってくれ。」
「今でも申し訳ないくらい良くしてもらってるって、あいつ言ってましたよ。」
つい先程受付カウンターで入場料を払う払わないで揉めた後、俺は美鳥から少しだけ話を聞いていた。
転校初日から美鳥は放課後になるとここに足を運んだらしい。毎日。毎日。毎日。
本来ならここにいるはずのない人間が、毎日足繁く通ってくるのを見て、源さんは何か事情があるのだろうとついには入場料をとるのをやめたらしい。その上オープン時間の九時より前であればいつでも好きな時に来て滑っていいとまで言ってくれたんだと美鳥は申し訳なさそうに話していた。
「……スケートってのは、とにかく金がかかるんだよ。コーチだけじゃなく、振り付けや衣装が必要になるフィギュアスケートは特にだ。」
源さんは多分俺なんかよりよっぽど美鳥の事をわかっているのだろう。
美鳥を見つめるその横顔は、我が子を見る親のようだった。
「誰の世話になるわけにもいかねぇってここに来るのにバイト探そうとしてたみてぇだけど、そんな暇あるなら俺としては練習に使ってほしいわけよ。一ファンとしてな。」
スケートには金がかかる。それは多分、運営する側も同じだろうに。
美鳥を取り巻く環境は案外恵まれているのかもしれない。
「……俺は、次もちゃんと入場料払わせてもらうんで。」
優しい横顔を見ながらそう告げれば、源さんは俺に視線を落としてにかっと白い歯を見せた。
「ま、ゆっくりしていけよ。」
「ごほっ、っ、」
バシンっ、と再び俺の背中を思いっきり叩いて、源さんはヒラヒラと手を振りながらオープン作業へと戻って行った。
その後ろ姿を見届けてから、俺は手にしていたペットボトルを傾けて残りを全て飲み干しその場に立ち上がる。
ちょうど準備を終えたのであろう美鳥が、こちらに滑ってくるのが見えた。フェンスの切れ目からこちらに上がってきて、スケート靴のまま器用に歩いてくる。
「お待たせ。」
「いけそうか?」
「うん。」
美鳥は小さく頷いて、ベンチの隅に置かれていた自らのボディーバッグから小型のCDプレーヤーと黄緑色の円柱型をしたポータブルスピーカーを取り出した。
「さすがに、音響まで借りるわけにはいかないから。」
きっと源さんに言えば使わせてくれるだろうとは思うが、そこは美鳥なりの遠慮と誠意なんだろう。
プレーヤーとスピーカーを抱えて、美鳥は再びリンクに入った。中央まで滑って、その二つを氷上に置く。
俺はフェンスに身をのりだし、その様子を眺めていた。
見てほしいものがある。美鳥は昨日そう言った。
だったら俺は見届けるだけだ。
今から起こること全てを、しっかりと、真っ直ぐに。
全ての準備を終えた美鳥がくるりと俺の方に向き直り、一礼する。
「よ、よろしく、お願いします。」
緊張に震えた声が、俺達しかいないリンクに響き渡った。
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