閑話

初めて出会った最後の曲





中学生になって、ノービスからジュニアの大会に出るようになってから世界が変わった気がする。



父親がスピードスケートの元選手。オリンピックに二度も出場したことは僕と弟の大和やまとの自慢でもあった。

だから、僕達は当たり前のように物心ついた時からリンクにいて兄弟で競い合うように滑ってきたのに。スピードスケートの教室の後にリンクを使う華やかな人達に僕は魅せられてしまった。

フィギュアスケート。

父さんにも大和にも申し訳ないと思いながらも、どうしても止められずにこの世界に足を踏み入れた……はずだったのに。

最近の僕は、また悩んでいる。


次の大会の曲決め。大好きだったはずのCDショップにいるのに、僕の心は鉛のように重く沈んでしまっていた。

去年は候補が多すぎて決めきれなくて、ワクワクしながら練習終わりに何日もショップに通っていたのに。棚に並んでいるCDタイトルが異国の文字を見てるみたいに全く頭に入ってこない。

「……どうしよう。」

呟いたって誰も返事はくれない。

コーチに今週中には決めてしまおうと言われているのに、このままじゃ……

ぼんやり異国の文字を眺めながらCDを手に取ることすらせずに店内をぐるりと一回り。今日はもう帰ろうかなとため息まじりに踵を返したその時、階段脇に置かれていた試聴機が目に入った。

機械の端に付けられた今月のオススメって店員さんの手書きのPOPが何となく気になって足を向ける。

脇にかけられていたヘッドフォンを手に取って、試聴機の上部のケースに入れられていたCDジャケットを覗き込む。

写真もイラストも何も無い、真っ白な中に黒字で「Color」とタイトルが書かれているだけのシンプルなアルバム。

記載されている曲のリストもカラーに因んだものばかりだった。

「siki……」

初めて聞く名前だ。

イージーリスニングに分類されているみたいだけれど、どんな曲なんだろう。

リストを全て確認して、僕は試聴機に番号を入れる。

12番。一番最後の曲にしたのは、僕の苗字と同じ「Midori」だったから。ただそれだけの理由だった。

ヘッドフォンを耳にあて、音に集中しようと目を閉じる。

けれど、そこから聞こえてきたピアノの音に僕はすぐに目を見開いた。


軽やかに跳ねる音が、身体を駆け抜けていく。

音に共鳴して、身体の内が震えている。

微妙に変化していくリズムは、のんびり聴き入ることすら許してくれなかった。

どんな曲なのか、考える前に曲は次々と違う側面を見せてきて、主旋律を追うことすら難しくて。

そこにあるのに掴めない。まるで風の音を聴いているような、感覚。

爽やかに流れていたはずの音は気がつけば不穏な影を帯びていて、トクトクと僕の心音と共に速度を上げていく。

この先を聴くのが怖い。そんな想いすら頭をよぎるくらい圧倒的な存在感を持って押し寄せてくる。


飲み込まれる。そう思った瞬間、音がピタリとやんだ。


なに、これ。

突如訪れた無音にごくりと息を飲んだ瞬間、響く優しい音。

ぶわりと込み上げてきたものに、視界が滲んだ。



ここで試聴時間を経過してしまい、僕は強制的に現実に引き戻された。

まだ心音がおさまらない。

初めてトリプルアクセルを跳んだ時ですら、こんな風に興奮に震えたりしなかった。

滲む視界でもう一度ケースに入っていたアルバムを確認する。

siki。なんて、凄い人なんだろう。

こんな音楽聴いたことがない。この人にとっては、無音ですら音楽なんだ。

僕もこんな風に人の心を揺さぶるような表現が出来たら……


雷に撃たれたみたいな衝撃が抜けないまま、僕はCDショップを後にした。

手にはシンプルな真っ白なパッケージのCD。

多分、この人の曲は今回使わない。まだ、自分には使えない。

僕が受けた衝撃も、感動も、今の技術や表現力じゃ到底表せない。

もっともっと、とにかく上手くならなくちゃ。

さっきまで悩んでいたはずなのに、今の僕はとにかく滑りたくてしょうがなかった。



自分が納得のいく演技を。

最後にリンクに立つその時には、この曲を使えるといいな。


ひっそりと決意を胸にして。僕は真白のパッケージをぎゅっと胸に抱きしめた。

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