閑話

ささやかな願い






非常識人の背中を蹴り飛ばして数学準備室から追い出して、僕はふかーいため息をついた。

疲れた。今日はなんとも中身の濃い一日だ。

椅子に座って、飲みかけだったカフェオレのカップを手に一口。準備室にかけられていた時計を確認すれば、昼休みも半分が過ぎたところだった。

多分色は戻ってはこないだろう。五限に間に合えばいいけど。

「……よかったのか?」

不意にかけられた声に、僕の意識は手元のカップから目の前の人物へと移る。

いつの間にか通話を終えたらしい木崎きざき先生は白紙だった入寮手続きの書類にペンを走らせていた。

「もしかして、気を使ってくれてた?」

一瞬、ペンが動きを止める。

けれどそれは本当に一瞬の事で、何事も無かったかのようにまた動き始めた。

「……まぁ、櫻井の転入の日を勘違いしてたのは本当だけどな。」

先程までとはうって変わって静かな準備室に、カリカリと音が響く。

僕はまた、カップに視線を落とした。

「っていうかさ、僕話したっけ?」

「いやわかるだろ、普通。」

「……だよねぇ。」

はぁ。ため息をついてデスクに頬杖をつけば、頭上からヒラヒラと書類が差し出された。

「悪い、美鳥の部屋って何号室だ?」

はぁ。書類とボールペンを先生から受け取って、僕はテストみたいに空欄を埋めていく。

ついでに既に記載されている所に不備がないかチェックすることも忘れない。

まったく、毎回思うけどどっちが先生で生徒やら。

「今ならお前の部屋番号書けるんじゃねぇの?」

木崎先生の冗談とも本気ともつかない言葉を、僕は鼻で笑った。

「嫌だよ。それじゃあなんの為に色を彩華さいかに誘ったのかわかんないじゃん。」

「はぁ?」

どんな顔をしていいのわからないから、視線は書類に落としたまま。

けれど先生の間の抜けた声に僕は思わず笑ってしまった。

「僕はさ、トドメをさしてほしいんだ。」

「なんじゃそりゃ。」

「見てわかったっしょ?色にとって、僕はどうあっても友人なわけよ。遠くに引っ越したのに頻繁に連絡したり、同じ高校にくればって誘ったり、挙句……恋愛対象が同性だって告白しても、だよ。」

書類を完璧に埋めてから、僕は木崎先生に返した。

思った通り、眉間に皺を寄せて解せないって顔してる。

でも僕に言わせれば、わかりきってる事なんだ。僕のこの感情は、どうやったって報われない。もうそれは、どうやったって変えられない事実なんだって。

「男の人が好きなんだって言ったらさ、『ふーん』だって。」


――いんじゃねぇの?別にお前が友人だってことに変わりはねぇよ。


僕にしてみれば告白のつもりだったのだけれど、返ってきたのは振られるよりも残酷な言葉だった。

「……ああ見えて優しいんだよ。親の離婚が原因で引っ越してからも、ずっとさ、そばにいてくれるの。優しいからさ……期待、しちゃうんだよ。」

会おうと言えば時間を作ってくれる。夜中に電話しても、嫌々ながら付き合ってくれる。

だから、思ってしまう。

もしかしたら。

わかっているはずなのにどこかでそう思ってしまう自分がいて、それは消えてくれない。

「色、幼なじみの女の子と付き合ってるんだ。だから僕の目の前で、あの子が……緑ちゃんが好きなんだってノロケ話沢山聞いてさ、トドメをさしてほしいんだ。」

絶対に無理なんだと。万が一にもありえないんだと。

電話越しじゃない、時々会うでもない、毎日顔を合わせるこの近い場所で、完膚なきまでに叩きのめしてほしい。

それが、ささやかな僕の願いだ。

「でも同室になんてなっちゃったらさ、我慢できずに迫っちゃうかもじゃん?」

自分の情けなさに思わず笑いを漏らせば、ぽん、と大きな手が僕の頭にのせられる。

「無理すんなよ。……気持ちは、わからんでもないがな。」

わしゃわしゃと僕の髪を掻き乱して、離れていく手をぼんやりと見上げる。

チラリと先生の顔を見れば胸が締め付けられそうなくらい、苦しそうな顔で笑ってた。


先生も、誰かにそんな恋をしてるのかな。


なんて事は聞けなくて。

僕はまたデスクに頬杖をついて、無言でカフェオレのカップを傾けた。




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