第11話 ここにいてもいい?

「……ただいま」


 いつものように口癖で呟いてから靴を脱ぐ。


 昨日とは打って変わって静かな玄関先。

 見慣れた、かび臭い陰気な雰囲気。

 でも、それがお似合いだ。


 桐生蓮には、日の当たる場所ではなく暗い日陰こそがお似合いだと。


 少し腫らした目をこすりながらリビングに戻ると、


「あ、おかえり桐生君」

「……なんで?」


 加佐見が、いた。


「早かったんだ、バイト。あのね、今日の夜はハンバーグにしようかなって。あ、ハンバーグっていっても豆腐ミックスしてるから安上がりなんだよ」

「……帰れって言っただろ」

「うん、だから一回荷物取りに帰ってからまた来たんだ。買い物もあったし」


 加佐見は、当たり前のようにそこにいた。

 そして、キッチンの火を止めた後桐生の方へ来ると、赤くなった桐生の目を見て心配そうな顔をする。


「桐生君、泣いてた? どうしたの、バイト先でなんかあった?」

「な、泣いてない。目にゴミが入っただけだ」

「あはは、そんな漫画みたいな言い訳する人まだいたんだ。桐生君って、ほんと嘘つくの下手だよね」

「……そんなことより、なんでここにいるんだ」


 桐生はもう一度自分の目をぬぐってから、不服そうに加佐見に問う。


「住んでいいとは言われてないけど、もう来るなとは言われてないもん」

「……もう俺と関わるな。加佐見さんにとってもいいことなんて何もない」

「それを決めるのは私でしょ? あ、もしかしてバイト先で誰かにひどいこと言われた? ね、私なら聞いてあげるから、よかったら話してよ」

「……いい。部屋に戻るから、帰ってくれ」


 加佐見の明るさが、桐生にはかえって辛かった。

 感傷に浸りたい、というわけでもないが、すぐに加佐見に明るくふるまう自信もなく、逃げるように部屋にいくとそのままベッドに突っ伏す。


「……やっぱり、明日店長に辞表を持っていこう。あんないい人に、迷惑はかけたくない」


 やっと見つけた働ける場所。 

 それを手放すことは桐生にとっても死活問題だ。

 ただ、これ以上あの店にかかわっていたらきっと、安藤たちによってあの店はつぶされる。

 

 賃料の値上げか、不良仲間による営業妨害か、はたまた両方か。

 なんにせよ迷惑しかかからない。

 桐生は少し気持ちを落ち着かせた後で、机に向かい辞表を書く。


 正式な辞表の書き方なんてものは知らないが、その中に精一杯の感謝の気持ちを書き込む。

 身分を知ったうえで雇用してくれたこと。

 いつも体調を気にかけてくれていたこと。

 

 思い出すと、高校入学からの半年ほどの間だったが充実した生活だったことを実感する。

 そして、そんな繰り返しも終わりが来るのだと。


「……店長は怒るだろうけどな」


 あんな風に自分を庇ってくれたのに、粋に感じることもなく辞めるといいだすなんて、やっぱりとんでもない人間だなと。

 自分のことを最低だとわかりながらも、こういう生き方しかできないこともまた、理解している。


 誰にも迷惑をかけたくない。

 だから今度はもっと離れた場所で仕事を探そう。


 そんなことを思いながら最後の一言に悩んで頬杖をついて考え込んでいると、桐生はいつの間にか椅子に座ったまま眠りについていた。



「……ん、寝てたのか」


 目が覚めた時、まだ窓の外は明るかった。

 桐生は凝った肩をまわしながらゆっくり立ち上がり、喉が渇いたとそのままキッチンへ向かう。


「……さすがに帰ったか」


 そこに、加佐見の姿はなかった。


 キッチンのテーブルには、ラップされた肉じゃがとサラダ、それに置手紙で『起きたら温めて食べてください』と。


「……ほんと、お節介な性格だな」


 温めることなく、そのままラップを外して肉じゃがを一口箸でつまむ。


「……うまいな、やっぱり」


 冷めていてもどこか温かい。

 そんな不思議な触感が口の中に広がる。


 桐生はまた、昔を思い出してしまいそうになって、首を振る。

 思い出に寄りかかるなんて柄でもないことをしている自分に嫌気がさして、そのまま箸をおく。


「さて、時間ができたんだし勉強しないとな。あと、仕事も探さないと」


 自らを発奮させるように言葉を発してから、食べかけのおかずを冷蔵庫にしまってまた、部屋に戻る。


 そして再び机に向かうと、今度は勉強道具を取り出して教科書を開く。

 ひたすら教科書の内容をノートに書き写すという、中学の時からずっとやってきた日課。

 理解よりも記憶。

 まず、どれだけの情報量が自分に備わっているかで、のちに学ぶことへの理解力も決まると。


 これは幼いころに父が言っていた言葉。

 昔は意味がわからなかったが今となれば言いたいこともよくわかる。


 より多くの知識があれば、多少不測の事態や初めて見る問題があっても応用がきく。

 だから今は知識を蓄えようと、桐生は父の教えを実直に守るようにひたすら教科書をノートに写す。


 没頭して数時間。

 やがて窓の外が暗くなるまでずっと。


 手の側面が真っ黒になるまで書き続けてようやく桐生は部屋の明かりをともすために一息つく。

 

「ふう。腹、減ったな」


 体を動かさずとも勉強というものはカロリーを使う。

 少し鈍くなってきた脳が栄養を欲するように、空腹感が押し寄せてくる。


 一度部屋を出てから、さっき残しておいた肉じゃがを温めなおして食べようかとキッチンへ。


 すると、灯りがついていた。


「……まさか」


 嫌な予感がして、そろっと扉を開ける。

 すると、


「あ、桐生君お疲れ様。もう、肉じゃが全部食べてくれないとダメだよ」


 加佐見がまた、そこにいた。


「……不法侵入で訴えるぞ」

「あはは、驚かせようかなって思ったんだけど、ダメだった?」

「ダメに決まってるだろ。あと、電気がついてたら驚くも何もない」

「あ、そっかそっか。じゃあ今度は真っ暗にしておかないとだね」

「……何しにきた?」

「何って、桐生君が勉強に集中できるように晩御飯くらい作ってあげようかなって」

「なんでだよ。なんで、そこまで俺にかまう? 俺は」

「私がそうしたいからって理由じゃ、やっぱりダメかな?」


 カチッとコンロの火を止めて、ゆっくり加佐見は桐生の方へ近寄る。


「……なんでそうしたいって思う? 単なる同情だっていうなら、迷惑だ」

「私が河川敷で安藤君たちに絡まれてた時、桐生君が助けてくれたよね。あんな風に私を庇ってくれた人、初めてで、嬉しくて」

「たまたまだ。それに、その時の借りを返したいって思うんならもう十分だ。加佐見さんはそれ以上によくしてくれたと、俺でもそれくらいわかる」

「貸し借り、とかじゃないんだ。あの時、この人ならどんな時でも私を守ってくれるのかなって、そんなふうに思っちゃったの」

「それは時と場合による。守れる保証もない」

「……桐生君のことがね、気になってる。だから一緒にいたい。そんな曖昧な理由じゃ、やっぱり納得してくれない、かな」


 加佐見は、大きな目で桐生を見る。

 

「……俺は、まだそういうのがわからない。それに加佐見さんは桐生蓮って人間を美化しすぎだ。俺といても楽しくなんかないぞ」

「楽しいかどうか、決めるのは私だって言ったでしょ。別に、今すぐどうしてほしいとか、そんなことは思ってないけど……許す限りは、一緒にいたいかなって」

「……孤独に負けて、手軽そうな俺に絆されてるだけだ」


 桐生は、その場を去ろうとする。

 その時、キッチンに置かれたぼろぼろのスーツケースを発見する。


 あまりにも傷んでいるそれを見て、思わず桐生の足が止まる。

 一体どういう生活をしてきたら、この現代社会の日本でそこまでになるものかと。


 考えてしまった。

 心配してしまった。

 そして、そう考えた時点で負けたと、自覚した。


「……昨日使った部屋、好きに使えよ」

「……え、それって」

「勘違いするな。タダで家政婦が雇えるっていうなら俺にもメリットがあるんじゃないかって、そう思っただけだ。家賃の代わりに家事はやってもらうからな」


 そう言いながら、桐生は頭を抱えたかった。 

 一体何をいってるんだと。

 言いながら恥ずかしさと情けなさでつぶれそうだった。


「……うん。なんでも、お申しつけくださいご主人様」

「そ、そういうのはやめろ」

「ふふっ、ちょっと照れてる。桐生君って、そういうの好きなの?」

「違う。あと、明日もバイトだから風呂入ったらさっさと寝る。今日の夜は静かにしててくれよ」

「はーい。それじゃ晩御飯用意するね。今日はハンバーグだからねー」

「……ああ」


 こうして、加佐見が桐生の家に住むこととなった。


 ただ、不安が桐生の中に渦巻く。


「……何も起こらなかったらいいけど」


 ここ数日の目まぐるしい日常の変化に、よからぬことの前触れではないかと。

 そんな懸念を残しながら風呂場へ向かう。


 ただ、


「風呂、沸いてる……」


 すでに掃除されてお湯が張られていた浴槽を見て、いったいどれだけ段取りがいいんだと。

 

「まったく、随分と優秀な家政婦なこった」


 服を脱ぎながら、思わず桐生は口元を緩める。

 そして、緩んだ自分の顔を脱衣所の鏡で見て、いらだつ。


「……バカか、絆されてんじゃねえよ」


 そう呟いて、桐生は風呂に浸かる。


 沸かされたばかりの熱いお湯に、一日の疲れと悩みが洗濯されていく。


 

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