第9話 そして世子は

九、そして世子は


 全ての話を聞き終えて、世子はその場にうなだれた。

 まさか、このようなことが現実にあり得るのだろうかと頭を抱えるほかにない。

 なぜ自分が世子に選ばれたのか、第二皇子でありながら世子選ばれたのかようやく得心がいった。

 つまりは、夏月は王妃の実の息子ではなかった、ゆえに王妃は第二皇子である自分を世子にした。

 そして翠月と自分は血を分けた実の姉弟だった。

 だが、実の姉弟だからといって、育った場所が違えば性格も違ってくる、それに、恋慕の情を抱くこともなんらおかしい話ではない。

「月読さん、私の両親はそのことを知っているのですか」

 言葉が出ない世子に対し、状況を先に飲み込んだのは翠月のほうである。冷静に現状を分析して、まず最初に出てきたのが自身の両親のことである。

 どこまでもお人好しで、だからこそ翠月らしいと世子も、月読でさえ思う。

「……ああ、そなたを引き取る際にを話した」

 翠月の両親は、翠月のもとに迎えが来たあの日、ああもあっさりと翠月を手放した。それはもしかすると、翠月が自分の実の子供ではなかったからであろうか。

 いや、それでも両親はあの日、泣いていた。翠月を見送ったあの日、両親が流した涙は嘘ではない。

 それに、翠月は思い出す。

 世子と喧嘩し家出をしたあの日、翠月は生家へ足を向けた。だが両親はどこか翠月によそよそしく、帰るべき場所は「王宮」だと告げた。つまり両親はあの時、翠月と夏月の身の上を知っていた。

 言われてみれば、あの日翠月の両親は、夏月のことを翠月から聞きたがっていた。自分の本当の子供の行く末を案じていたに違いない。

 不幸なのは翠月のほうだろうか、両親のほうだろうか。

 翠月の両親は子供をふたり、失った。一人は実の息子の夏月である。ことがこじれた以上、夏月を自分たちの子供として取り返すことは生涯叶わぬだろう。

 そしてもう一人失った子供が翠月である。王の血を引く翠月を、再び自分たちのもとに呼び戻すことなど出来ない。翠月の両親は、一度に二人の子供を失ってしまったのだ。

 両親のことを思うと胸が締め付けられる。だが、現実に打ちひしがれている場合ではない。翠月は臆することなく月読に聞いた。

「お父様とお母様は、殺されるのですか?」

「いいえ。それは私が生きている限りできません。もしそのようなことをしたときには、王妃の行いをすべて王さまに知らせる手筈を整えています。それに、翠月さま」

 月読は一歩、もう一歩、部屋の中へと歩みを進め、そうして翠月の前まで来ると両手を前で組んで翠月に拝礼した。

「翠月さまの御父上御母上は、翠月さまを今でもお思いになっております」

「それはどういう意味ですか」

 急に恭しくなる月読に動揺するも、翠月は月読の言葉の意味を問いただす方が先であった。

 翠月が前のめりに聞き返せば、月読はその場に座り、翠月と目線を同じにして、にこりと微笑んだ。

「翠月さまのもとへ迎えをよこした際、御父上御母上にはすべてを説明しました。そのうえで、御父上御母上は、翠月さまが姫君として王宮にお戻りになられる道を選んだのです」

「でも、でも……私はもう、あの家には帰れないのですか?」

「……それは申し訳なく思っております。ですが、翠月さまが姫君と知ってしまった以上、御父上御母上はあるべき場所に翠月さまを返すことを優先するでしょう」

 なんて身勝手な話だと翠月は思う。

 月読の復讐のせいで、自分は生家にすら戻れない。

 自分が望む場所は、あの父と母がいる家だというのに、今はもうそれすら叶わない。

 自分は結局、月読の駒だったのだと思い知って、何故だかおかしくなる。

「月読さん、復讐できて満足ですか」

「……私はこの罪を一生背負っていく覚悟をしています」

「なにそれ。身勝手ですね」

 だが、涙は出なかった。

 翠月は世子と同じようにこうべを垂れて、その場に黙り込んだ。

 月読はふうっと息を吐き出す。

 月読とて、このようなことになるとは思わなかったのだ。翠月が夏月を恋い慕うことになるなどとは、露ほども思わなかった。

 月読の唯一の誤算である。本当ならば、翠月の正体をすぐにでも王に進言して、そうして翠月を姫君に、夏月を実の親の元に帰すつもりが、そうもいかなくなった。

 夏月の生い立ちもそうであるが、月読は翠月にほだされてしまったのだ。

 翠月と月読がともに過ごしたのは約ひと月である、その間に色々なことがあった。

 月読ももういい歳である、翠月くらいの子供がいてもおかしくはない。そう思うと、素直でだが意地っ張りな翠月に愛着がわいてしまい、捨て置くことが出来なくなった。

 あるいは、王妃に見捨てられた翠月を憐れんでいただけかもしれないが、今となっては分からない。

 この計画が成功した日には、月読は死をもってその罪を償い、そうして王に王妃の秘密のすべてを暴くつもりであったのだが、そうもいかなくなった。

 せめてもの償いだ、翠月を利用した月読の、最後の良心だ。

「翠月さまが望むのならば、私は王妃の秘密をすべて王さまに進言しますが」

「……いいえ、その必要はありません。私はここを出ていきます故」

「……そうですか。それならば、今日を最後に私は翠月さまや世子さま、今回関わったすべての人々の前から姿を消します。ですが、もしも翠月さま、引いては夏月さまに身の危険が及ぼうものならば、私はためらうことなく王妃の秘密を暴露します」

 そのような気遣いをするくらいならば、はなから関わらないでほしかった。翠月の本音はその一点のみである。

 うなだれる翠月をよそに、月読は立ち上がると、扉へとゆっくりゆっきうりと歩いていく。

 扉の傍でうなだれる世子の傍まで来て、月読はその哀れな姿を見おろした。

「世子さまには直接の怨みはございませんが。あなたは王妃の子供、陽の宮からすべてを奪った王妃の子供。ひとりだけのうのうと生きられるとは、ゆめゆめ思わぬよう」

 世子は相変わらず頭を上げない。打ちひしがれる姿を見て、月読は少しの憐みを感じるも、だが致し方ないとも思う。

 世子は紛れもなく王妃の子供だ。いつかまた夏月を殺そうと画策するとも限らない。

 実際今回の件で、世子は強く強く夏月を憎んだ。自分の大事なものを守るためとはいえ、夏月をどうにかして亡き者にとよぎりさえした。

 世子自身はそれに気づいていないが、実際心の奥底の、自分でもわからない部分で、そういった憎悪を募らせていることを、月読だけは知っている。

 その反面、翠月は王妃の血をひいてはいるものの、王妃とは似て非なる心を持ち合わせている。つまるところ、育ての親の影響というのはとても大きなものなのだ。

 そして幸か不幸か、秋月も王妃から隔離されて育ったため、王妃のようなしたたかさは持ち合わせていない。それでも、ひとりで孤独に育った時間を思うと、いたたまれなくなる。

 どうか夏月に幸せを。月読はそう思わずにはいられなかった。


 月読が去ってからどのくらいの時が経っただろうか。世子はようよう立ち上がると、頭をうつむかせたままの翠月の前まで歩く。そうしてそのまま、翠月を抱きしめた。

「翠月、すべてのことを受け入れたうえで、わたしはそなたとの婚姻を望む」

 かすれた声だ、懇願するような、すがるような声は、世子らしくない。世子は恐らく、生まれてこのかたこのような惨めさも、悲しさも味わったことがない。

 ただただ現実が受け入れがたい。

「世子さま、血縁同士の婚姻は法で禁止されています」

「……だが、そなたがわたしの血縁だと知るものは、あの月読の他いない」

 世子が感じているのは、恐怖だ。失うことへの恐れだ。

 生まれてこのかた、世子は挫折を味わったことがない。故に、この耐えがたい状況にもどこか他人事のように感じている部分がある。

 翠月はきっと、自分を選んでくれる。自分は世子だ、翠月とて、なにも持たない夏月を選ぶはずもない。

 だがそれは、世子の驕りだった。

「わたくしはもともと、世子さまを王宮につなぎとめる駒としておそばにおりました」

「翠月……」

「そのお役目を終えたのですから、わたくしは出てゆきます」

「待て、翠月」

 立ち上がる翠月に、世子はすがることしかできない。捨てるのか、世子であるわたしを。そんな目をしていた。ああ、もううんざりだ。

 翠月は大きく一歩を踏み出した。もう、翠月を縛り付けるものはない。

 去り行く翠月を、世子は追いかけることが出来なかった。

 世子は思う。自分は根っからの王族であった。

 世子の座を嫌ってあの簡素な屋敷に暮らしていた時でさえ、世子は王族の座を捨てきれなかった。

 本当に世子の座を捨てるのならば、おつきの尚宮も女官も内官も連れずに、一人ひっそりと王宮を出て、誰にも見つからないような場所で暮らすべきだ。

 世子にはそれができなかった。内官に毎日世話されるのは当たり前、女官が飯を作るのも当たり前。

 衣の洗濯も、料理も、すべておそばめが担っていた。

 それに、毎日王宮からは金や衣や食料や、必要なものはすべて運ばれてきた。それでどうして、王宮から出たといえようか。

 結局はそうだ、世子はどこかで自分の立場を理解していた。いつか世子の責を認めて、王宮に帰ることも、ひとりでは暮らせないことも。

 だから世子は、翠月を追いかけなかった。自分はここの暮らしに不満はない。王宮を出て不安定な暮らしを選ぶことなど、世子にはできやしないのだ。


 一方、王宮を出た翠月は、途方に暮れていた。

 生家にはもう戻れない。仮に両親が受け入れてくれたとしても、自分の存在が両親を危険にさらすかもしれない。王妃は翠月の両親の居場所を知っている。

 月読がけん制しているとはいえ、翠月がそこに暮らしているとなれば、いつ暗殺やその他の計略に巻き込まれるかもわからない。

 両親に会いたい気持ちを我慢してでも、その安全を確保せねばと翠月は思った。

「でも、どこに行こう……」

 翠月は行く宛もなく歩き出す。

 生家には帰れない、だからといって行く宛もない。

 だがもしも行くとすれば、王妃の知らない、見ず知らずの地で新たに暮らさなければならないだろう。この先翠月は王妃におびえながら生きなければならない。いや、王妃が翠月におびえ暮らすのかもしれないが。

 どちらにせよ、翠月は住み慣れたこの町を出なければと途方に暮れていた。

「翠月」

 だが、とぼとぼと歩く翠月の背中に、凛とした声が響いた。

 聞きなれた声だ、忘れるはずがない。翠月はその声に振り返る。

 そこにいたのは紛れもなく夏月であった。大きな荷物を背中に抱えた夏月は、どうやらどこかへ旅に出るようだ。

 翠月の目から思いもよらず涙が落ちた。ぼた、ぼた、とこぼれ落ちたそれに、夏月は翠月に走り寄ると、その小さな体を抱きしめた。

 弱弱しく翠月が応えるように、夏月の背中に手を回した。

「そなたは泣いてばかりだな」

 確かにそうだ、夏月と会うとき、翠月はいつだって泣いてばかりだ。夏月の存在に安堵して、ついつい甘えてしまいたくなる。素直に感情を出してしまう。

 翠月は心底夏月が好きなのだと思い知る。世子の前ではずっと自分らしくいられなかったのに、夏月とは出会った時から素でいられた。

 それがどれほど尊いことか、翠月は今になってそれを理解する。

「どこへ行くつもりだ」

「……行く宛などありません」

 はあ、と夏月はため息を吐く。きっと浅はかだと呆れたのだろう。翠月はそう思ったのだが、どうやら夏月のほうはそうは思っていないようだ。

 翠月を抱きしめる手に力を込めて、翠月の涙で濡れた瞳をまっすぐに見据えて、

「それならば、私と旅に出ないか?」

「夏月さま……?」

「わたしはすべてを捨ててきた。もうわたしは陽の宮ではない。ただの夏月だ」

 つまるところ、それが世子と夏月の差なのだと思う。

 世子は翠月を大事だと言いながらも、世子の座を捨てるることはなかった。それだというのに、夏月はこうもあっさりとその座を捨てて、翠月とともに生きる道を選んだ。

 笑えてくる。あれほどまでに世子の座を欲した夏月が、自分を選ぶなど。どれだけ自分は果報者なのだろうか。

「なにを笑っている?」

「いいえ。私、やっぱり夏月さまが大好きです」

「……! そうか、そうか……」

 夏月は安堵したように、何度も何度も繰り返す。

 翠月が夏月への思いを口にしたのは、これが初めてである。夏月は翠月が自分を選ぶとは露ほども思っていなかったようで、目をまん丸にして翠月を見ている。

 翠月の涙はいつの間にか止んでいた。代わりに浮かべた笑顔が、世界中のどんなものよりも愛おしい。

 夏月は翠月の首筋に顔を埋める。

「嬉しいぞ」

「ふふ、夏月さま、くすぐったいです」

 笑いながら、翠月は夏月の頭を撫でる。何度も何度も存在を確かめるように撫でて、ふたりはしばしそのままに、

「なにも持たぬわたしにとって、そなたが唯一の存在だ」

「そう、ですか」

「わたしの凍った心を溶かしたそなたを、わたしはなにがあっても守っていく」

 まるで求婚のようだと翠月は思うも、そのまま雰囲気に身を任せる。

「もとよりわたしはなにも持たぬ人間だ。だが、そなたがいれば、もうあとはなにも要らぬ」

 私もですよ、そういう意味を込めて、翠月もまた、夏月を強く強く抱きしめる。

 夜の気配が強まったとある道端で、ふたりの月の人生が、新たに始まった。





後幕


 幼き皇子がふたり、狩りに出かけていた。

 十歳になるかならないかというふたりの皇子が、王に連れられてその日初めての狩りに林に足を踏み入れたのだ。

 その林にはたくさんの獣がいる。兎や猪、そして森の長である大きな牡鹿だ。

「世子、無理はせずに行くのですよ」

「はい、母上さま」

 王妃が第二皇子、世子の頭を撫でながら、心配そうに声をかけている。

 はたからそれを見ていた第一皇子、夏月が、世子に張り合うように王妃に声をかけた。

「母上さま。私は秋月よりもたくさんの獲物を狩って見せます」

「……そう」

 つれない返事はいつものことで、尚宮も内官も、その様子を見て心を痛めていた。

 なぜ王妃はこうも夏月に冷たく当たるのか、知るものは誰ひとりとしていない。巷では優しく慈愛に満ちた王妃だと認知されているが、さて夏月にだけはどうしても王妃は優しくしない。

 第一皇子でありながら世子に選ばれなかったことだっておかしな話だ。だが、それを口にするものは誰もいない。

「よし、夏月、秋月。狩りに出るぞ!」

 王に促されて、二人の王子は弓矢を手に、林の中へと意気揚々と走り出す。


 まず最初に獲物を見つけたのは夏月であった。兎が一匹、夏月の前方にぴょんぴょんと跳ねている。

 夏月は息をひそめて背中の矢をとり、そうして弦に矢を引っかける。

 きりきりきりと弦を引っ張ったところで、兎が逃げた。

「兄上! 兄上! 待ってください!」

 兎が逃げたのは、夏月の後ろから秋月が現れたからである。夏月は秋月を振り返り、忌々し気に舌打ちをした。

 秋月に悪気はないのだが、なにぶん秋月は今日この日を楽しみにしていた。秋月は兄である夏月となかなか一緒に遊ぶ機会がない。それ故に、今日この日を楽しみにしていた。

 だが、夏月からしてみれば秋月の存在は面白くない。さっきだってそうだ、王妃は秋月の心配ばかりして夏月のほうには見向きもしなかった。

 どうにかして、王妃を自分のほうに向かせたい。夏月はこの林で大物を仕留めて、王妃に褒めてほしかった。

「秋月、付いてくるな」

「だって、兄上。協力したほうが、たくさんの獲物を獲れます」

 秋月は単に林のなかが怖いようで、先ほどから夏月の傍を離れない。

 夏月はうっとうしく思うも、本当ならば弟を可愛がりたい気持ちもある。だが今は、王妃の愛情を一身に受ける秋月を受け入れる気にはなれなかった。

 やがて林の奥深くにまで到達した二人は、そこに大きな牡鹿の姿を見つける。

「お、大きいですね、兄上」

「しっ。黙ってろ」

 夏月は秋月を諫めて、そうして再び背中から矢を抜き出すと、弓の弦にそれを引っかける。

 大きな牡鹿は、恐らくの林の主だ。その鹿を仕留めたとなれば、きっと王妃も自分を褒めてくれるに違いない。

 期待から夏月の手はなかなか牡鹿に焦点を定められない。

 少しずつ、牡鹿との距離を詰める夏月に対し、秋月はただひたすらその場に立ち尽くしている。夏月の邪魔をしないように静かにしていたのだが、夏月の狩りはまたもや失敗に終わる。

「だめ!」

 大きな声とともに、夏月の矢が手から離れ、牡鹿にかすりもせずに地面に落ちた。

 邪魔をした声を振り返ると、そこにいたのはひとりの少女である。

「おまえ、わたしが誰だか知っていて邪魔を――」

 だが、少女は怯むことなく、夏月ににじり寄る。そして声を大にして、

「あれはここの主だから、ころしてはだめ!」

 年のころは夏月と同じかやや下だろうか。少女は夏月が王族だとは知らずに、そのように語気強く夏月に迫る。

 夏月も負けじと少女に詰め寄り、そうして目の前にいる少女をじろりとにらんだ。背は夏月のほうが若干高い程度で、目線はほぼ同じ位置である。

「そなたのせいで獲物を逃がした」

「なぜ殺そうとするのですか」

「……? 狩りとはそういうものであろう?」

 少女の顔が、今度は悲しみに染まっていく。

 ころころ変わる表情に、夏月はついていけない。なぜそのようなことを聞いてくるのかまるで分らない。

 狩りとは、獲った獲物の大きさを勝負する、いわば賭け事のようなものだ。それが分からないなどと、この少女は世間知らずだとののしりさえした。

 少女は夏月をキッとにらむ。

「食べないのなら殺すべきじゃないでしょう?」

「は?」

「生きているのよ、鹿も、兎も、猪も」

「……戯言だな。畜生の命など、取るに足らないものだろうに」

 パチン! と乾いた音が秋の空の下に響いた。少女が泣きながら夏月をぶったのだ。

 まるで父母が子供にするように、なんのためらいもなく、少女は夏月の顔をぶった。

 避ける暇すらなかった、まさか王族である自分をぶつ人間がいるなどと、思いもしなかった。

 この無礼は、親の代まで罰せねば。

 夏月は少女の服の胸ぐらをつかんだ。

「そなた、わたしが誰だか知ってそのようなことをしたんだろうな?」

「……誰?」

「わたしは夏月。この国の皇子だ」

 だが、幼い翠月は王宮のことなどこれっぽっちも知らない。故に、夏月の言葉をけたけたと笑い飛ばし、胸ぐらをつかむ夏月の手を払いのけた。

「嘘を吐くのなら、もっとうまくつきなさいよ」

「なにを……この」

 夏月が再び組みかかろうとしたとき、言い争うふたりから少し離れた場所にいた世子が、泣き声を上げた。

「痛いぃ!」

 振り向けば、世子は獲物を狩ろうと弓を引いたのだが、その弦が切れて指にけがを負ったようだった。

 夏月の顔が青ざめる。そして、少女のことなどそっちのけで、世子のもとへと走っていく。

 世子の手が真っ赤に染まっている。夏月は世子の傍まで来ると、自身の服を破いて、すぐさま世子の傷の血をぬぐった。

 どうやら傷は深くはないようで、夏月は慣れた手つきで止血をする。夏月の衣は無惨に破け、血まみれになっている。

 一拍遅れて少女も世子の元まで走り寄り、そうして手際よく止血する夏月を見て、ほうっと息を漏らした。

「秋月、泣くな。男であろう」

「兄上、痛いです」

「もう血は止まった。泣くな」

「兄上~」

 ぐずる弟をあやす様子は、どこからどう見ても面倒見のいい兄である。

 少女は懐から赤い木の実を取り出すと、それを世子に渡した。

「甘いよ」

「ん、痛い……木の実……?」

 ぐずっていた世子が少女の木の実に興味を示し、泣き止む。

 世子は木の実を受け取ると、それをなんのためらいもなく口に放り込んだ。

「そ、そのようなものを食べるな!」

「わあ、甘いです。甘いです、兄上!」

 今泣いた烏がもう笑った。世子はもっともっとと少女に赤い木の実を請求するように手を広げる。

 少女は持っていた赤い実をすべて世子に渡す。世子は泣き止んで、その場でパクパクと赤い木の実を食べ始めた。

「そなた……あれは食べても害はないのか?」

「大丈夫。あれは木苺」

「木苺……?」

「知らないの? あなたも食べてみる?」

 どうやら少女は、こっそり自分の分は懐に残していたようで、夏月にもその赤い木の実を内緒で渡す。世子に見つからないようにこそこそと手渡して、にっこりと笑って自分も木苺を口に入れた。

「食べないの?」

「誰がこのような……」

「ああ、そう。美味しいのに。じゃあ私が食べるから、ちょうだい?」

 そう言われると、素直に渡したくなくなるのが子供という生き物である。なにより、好奇心には勝てなかった。

 夏月は手に持った木苺を、思い切って自分の口のなかへ入れてみる。おそるおそる咀嚼すると、甘い果汁が口いっぱいに広がった。

「甘い……」

「だから言ったでしょ」

「ふん、だが、先ほどの無礼は許していないからな」

「ああ、そう。それにしても、大変だね」

 少女はあっけらかんと、まるで夏月の言葉を信じていない。世子を指さして、夏月にひそひそ声で、

「弟の面倒見て、偉いね」

 にこりと笑う。

 偉い、などと言われたのは、生まれてこのかた初めてである。夏月は妙に照れ臭くなり、少女から顔を逸らした。

 少女はコテン、と首をかしげながら、なおもひそひそ声で夏月に耳打ちする。

「あなた、やさしいのね」

「な、にを……」

 優しいと言われたことなど一度もなかった。いつも女官や内官たちは、夏月に後ろ指を指しては悪口を言った。

 あの王妃さまのお子なのに、なぜあんなに粗暴なのだろうか。

 なぜ弟君を慈しまないのだろうか。

 陽の宮さまは、王妃の本当の子供なのだろうか。

 それが、見ず知らずの少女に優しくされて、思わず泣きたくなる。

 夏月は目にたまる涙を誤魔化すように、ごしごしとその手で目をこすった。

「あ、駄目だよ、汚れた手でこすっちゃ」

「かゆいのだから、仕方がない」

 夏月はそっぽを向く。どうしてこの少女は、自分が欲しい言葉をこうもあっさりとくれるのだろう。

 だが、さりとて思う。この少女もまた、自分があの『陽の宮』だと知ったら、他の大人たち、子供たちと同じように、自分を馬鹿にするのだろう。

 そうして自分から離れて行って、世子の味方になるのだろう。

 胸糞悪い、反吐が出る。

 自分はどうあがいても世子のようにはなれない。皆から愛され好かれる、世子のようには。

 夏月は世子を振り返る。木苺を食べ終えた世子は、にこにことご機嫌に夏月を見ていた。傷の痛みももうないようで、夏月はほっとした半面、憎らしいと思う。

 あのように小さな傷ひとつでピーピー泣く世子は、どれだけ過保護に生きてきたのだろうか。

 夏月はひとり、じめじめとした王宮の隅の居所で、なんでも一人でやって生きてきた。

 たまにわがままを言うと、王妃によって折檻された。あの居所に一人、一週間の謹慎を言い渡されることは多々あった。だが、寂しさは今はもう感じない。ただただ世子が憎い。

 アイツさえいなければ。夏月は王妃の愛情を得たい心が転じて、世子を疎んじ憎むようになっていた。

「ねえ、また会える?」

「は?」

 帰り支度をする夏月に、少女はそんなことを言う。また会える? 会えるわけがなかろうに。

 夏月が王族であることを、いまだ少女は理解していないようで、少女は夏月の背中に向かってそのようなことを言い放った。

 木苺を食べて腹が膨れたためか、世子がその場にうとうとし始めている。

 夏月は世子を放っておくことが出来ず、仕方なしに世子を背中に背負い、立ち上がる。

 その夏月に向かって、少女は無垢な笑みを向けている。

「この林、私のお気に入りなの」

「……ここは獣がたくさんいる。もう入るな」

 つっけんどんな物言いになってしまい、夏月は少しだけ後悔する。せっかく『友達』というものが出来そうだったのに、夏月は人との距離感が分からない。ずっと王宮にいるからだ。夏月は誰の目にも触れぬように、ひっそりと育てられてきた。

 それは、夏月が王妃の実の子供ではないからである。王妃は夏月が自分に似ていないことを誰にも知られたくなかった。ただでさえ、夏月の気性が荒く、『本当に王妃様の子供なのか』と揶揄されているのだ、そんな夏月を誰かに見られては困るのだ。

 夏月は世子を背負い直し、少女に背中を向けたまま、

「さあな。もう会えないと思うが」

「ええ、そうなの?」

 少女は心底残念そうに声を小さくする。

 夏月は今一度少女を振り返る。少女の顔がぱあっと明るくなるのが分かった。

 馬鹿正直で分かりやすい少女に、夏月の心が少しだけ揺れ動いた。

「わたしは夏月。そなたの名前は?」

「わたしは翠月。この町の外れに住んでいるの」

「翠月。翠月か。覚えておく」

「また会える?」

「ああ、オマエが私を忘れていなければな」

 そうして幼き頃の夏月と翠月は出会った。

 だが幼すぎて、翠月はこの出会いのことは覚えていない。夏月もまた、翠月に出会った最初のころは、この出来事を覚えていなかった。覚えていないながらも、夏月にとってこの出会いは、唯一の心の支えとなった。

 夏月はこの日から無用な殺生は行わなくなった。それでも狩りをするときは、その獲物は必ず自身で食すようにしていた。


 そうして月日は流れ、ふたりは再会を果たす。くしくもそれは、あの時と同じ林での出来事であった。

 もうお互いのことは忘れていたに違いない。それでも、あの日感じた胸の温かさは、いつだって夏月の支えであった。

 王宮を出たふたりは、どちらが言い出したわけでもなく、あの林に足を向けていた。

 今日の食料を調達するためでもあったし、ふたりの脳裏に、あの幼き日の思い出がよみがえったからもしれない。

 夏月が仕留めた獲物を捌き、たき火で焼いている。

 王族である夏月がこのような生活を受け入れるとは翠月も思っていなかった。

「意外か?」

「え、え?」

「そなたは分かりやすい。わたしが狩人のような生活をしたら、意外か?」

 図星をつかれてしまい、翠月は素直にコクリ、頷いた。

 夏月はフッと笑いを漏らし、「正直なおなごだ」と翠月のほうを見る。

 ぱちぱちとたき火が爆ぜて、兎の肉の色が変わっていく。

「わたしはずっと、ひとりだったからな。よくひとりで狩りをして、獲った獲物は必ず食すようにしていた。だが、林の主を殺したことは一度もない」

 翠月はふと思い出す。世子と夏月が狩りの対決をしたあの日、世子に聞いた話では、夏月は世子の邪魔だてをした。その時に取り逃がしたのは林の主であろう大きな牡鹿であった。

 あれは、夏月が牡鹿を逃がしたのだ。決して世子を狙ったのではなく、牡鹿を逃がすために致し方なく矢を放ったのだ。

 さらに翠月は思い出す。夏月は世子と狩りで対決をしたとき、帰り際に呟いていた。「わたしが狩った獲物はわたしの腹に収まる故、心配無用だ」

 それはどういう意味だったのだろうか。

「夏月さまは……狩りがお好きなのですか?」

「いいや。狩りは好まぬ。無為な殺生はすべきではないと、昔見知らぬおなごに頬を叩かれた」

「……頬を……?」

 翠月もその少女の言い分には賛成であるのだが、だがこの夏月の頬をたたくなどと、どこの誰であろうか。

 だがどこか他人事とは思えないやり取りに、ぼんやりと、翠月の脳裏に昔の記憶が蘇る。

 翠月もまた、誰かにそのようなことを言い、それどころか頬をひっぱたいた記憶があった。

 あの時の少年は、なんという名前だっただろうか。

 うーん、うーんとうなる翠月を見て、夏月が思わず噴き出した。

「そなたは覚えていないだろうが、あれはそなただ、翠月」

「え。ええ? 私が夏月さまを叩いたのですか?」

「ああ、木苺も渡された」

「え、ええ。もう、私ったら……私ったら……」

 夏月に言われても、翠月はうっすらとしか思い出せない。思い出せないながらも、その日感じた思いだけは胸にしっかりと残っている。 

 あれは確かに初恋というもので、翠月はあの日の少年にずっと恋をしていたに違いない。

 優しく、だがどこか陰りを帯びたあの少年が、翠月は好きだった。

「わたしはそなたを覚えていたのに、そなたはわたしを覚えていないのだな」

「す、すみません……」

 謝るも、夏月はおもむろに翠月に手を伸ばし、そうして抱きしめた。

「覚えていないのなら、また一から始めればい」

「夏月さま……?」

「わたしとそなたは、今日、今この時に出会った。だから、これからずっと、わたしとともにいてほしい」

 あまりにも気障な台詞に翠月は赤面する。だが、夏月の申し出を受け入れるわけにはいかなかった。なぜならば、

「私、嫌です」

「翠月?」

「今日この時からでは、嫌です。私と夏月さまは、あの夏の日、あの街で出会った時から始まったんです」

 翠月は夏月の目をまっすぐに見据える。

 なんて強情でかわいらしいおなごであろうか。夏月の嫌な部分もすべて受け入れて、それすらいとおしく思ってくれるなど。

 夏月は思わず翠月に口づける。翠月もまた、夏月に身を任せ、ふたりは幼き日に出会った森で、とこしえの約束を交わすのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月物語 空岡 @sai_shikimiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ