第8話 真実

八、真実


 居所に入り、翠月を座らせて、世子は何度も何度も親指で翠月の涙をぬぐってやった。だが、翠月の涙が止まることはない。

 翠月は「申し訳ありません、申し訳ありません」と何度も繰り返しながら、泣いている。

 世子は止まることなく翠月の涙をぬぐうも、決して泣き止む様子はない。

 翠月はもう、ここにいるわけにはいかないと思っていた。翠月が心を寄せるのはただひとり、夏月そのひとである。

 今ここでようやくわかった、翠月が世子に抱くそれは、例えるならば家族や兄弟に向ける親愛と同じであった。

 確かに世子に心を寄せたこともあった。だがそれは主に、危なっかしくわがままを言う世子に対して湧いた庇護欲で、言ってしまえばそれが翠月の答えである。

 恋心だと勘違いしてしまったのは、翠月が世子を世子として尊敬していたからである。だれにでも優しく分け隔てなく接する世子に、尊敬の念を抱いていたのだ。

 その分け隔てない性格は、王妃譲りのそれである。翠月は気づいた、世子に抱いていた感情が、王妃に抱いていたそれを似ていたことに。

 それは、一国の国の皇子としての世子に対して抱いた感情、つまり国民皆が等しく世子に抱く畏敬の念と同じなのだ。

 対して、夏月に抱く気持ちはそれらとは少し違う。翠月が夏月に会うとき、いつもどこか胸が苦しかった。

 最初は横柄な態度に憤慨し、口論にすらなった。そっけない態度を薄情だと思ったこともあった。だが、夏月の行動にはすべて意味がある。夏月なりの優しさゆえの行動に他ならない。

 泣きじゃくる翠月に対する態度もそうだ、夏月はいつだって翠月が泣き止むのを傍で見守ってくれた。今の世子のように、おろおろしたことはない。

「翠月、何故泣く?」

「……!」

 それに、泣く理由など、夏月が翠月に問うたこともなかった。なにもかも違いすぎる。

 比べるのは失礼でおこがましい事だとはわかっていても、やはり自分には夏月しかいないのだと翠月は思い知る。

「やはりなにか、兄上に言われたのだな」

「ち、違います」

「なら何故泣くのだ?」

「それは……」

 翠月の目からは相変わらず涙があふれている。世子はそれをぬぐいながら、翠月の言葉を急かすように見ている。

 理由など明らかだ。翠月は夏月が好きだ、だから先ほどのように、世子が夏月に対して憤慨したことが悲しい。兄弟で争うことが悲しい。

 だがなにより悲しいのは、自分のせいでふたりの人生を捻じ曲げてしまったことだ。

 星読みの予言は、くしくも当たった。翠月の存在が、世子をこの王宮へと連れ戻した。それどころか、そのせいで世子と夏月の間に大きな溝を作った。

 どうすればいいのだろうか。

 ここで世子の手を取れば、翠月は生涯夏月のことを後悔する。かといって夏月の手を取れば、世子を苦しめることとなる。

 だが、翠月はどちらの手も取ることはしない。なぜなら翠月は自分の立場をわきまえている。自分は平民で世子や夏月は王族。はなから結ばれることのない運命なのだ。

「翠月、わたしと婚姻してくれ」

「世子さま……わたくしは、婚姻などできません」

「……何故だ、なぜそのようなことを……そなたとて、わたしと一緒になるつもりで王宮にきたのではないのか?」

「世子さま……」

 うっと翠月は両手で顔を覆い隠す。これ以上、なにも聞かないでほしかった。このままそっとしておいてほしかった。

 そうして翠月を自由の身にして、生家に帰してほしかった。翠月は世子も夏月も選ばない。この恋心は生涯胸の内に秘めて、そうして生家で親孝行をしながら暮らせたら。それだけが翠月の願いである。

 だが世子は理由を聞くまで納得しないと言った顔で、翠月のほうを見ている。

「やはり、兄上になにか脅されているのだな」

 意を決したように、怒気を含んだ世子が立ち上がる。そして翠月に背を向けて歩き出さんとしたとき、翠月は慌てて世子を止めるために立ち上がる。

「世子さま、違うのです!」

「わたしは兄上に会いに行く」

「世子さま、聞いてください! わたくしは、わたくしは!」

 翠月の必死の言葉に、世子は翠月を振り返った。

「わたくしは、夏月さまをお慕いしているのです」

「な……嘘、だろう?」

「いいえ、本当です。わたくしが好きなのは、夏月さまなのです」

 翠月の目は、強く強く光を宿していた。嘘や偽りでないことは世子にもすぐにわかった。だが分かったからといってそれを納得することもできなかった。

 なんで、どうして。よりにもよって、夏月を好きになるのだろうか。

 翠月は世子の瞳をまっすぐに見据えて、大きく息を吸い込んだ。

「世子さまに抱いていたのは、単なる尊敬と、それから、兄弟に向けるような親愛です」

「翠月……?」

「ですがご安心ください。わたくしはここを出て、生家で生涯誰とも婚姻することなく、生きていきます」

「待て、待つんだ。翠月、わたしはそなたを諦めない。今はだめでも、いつかわたしを好きになるやも……」

 翠月にすがるような目を向ける世子だが、翠月はもう謝ることはしなかった。やはり、翠月の心は夏月に向けられている。このひとではない、自分の心は夏月とともにある。

 翠月は世子から目をそらさない。それが余計に世子を不安にさせた。決意の色が濃く垣間見える。

「世子さま、どうかわたくしを自由の身にしてください」

「……何故だ……」

 翠月の言葉に、世子はハッとする。

 そもそも夏月は翠月の気持ちを知っていたのだろうか。いや、あの口ぶりだと、なにも知らないはずである。

 それでもなお、夏月は世子が翠月と結ばれることはないと断言した。なにか翠月に関する弱みか、或いは秘密のようなものを知っているのだろうか。

 秘密と言えば、そうだ、世子は王宮で星読み――月読と会ったことがある。その時月読は、夏月と同じようなことを言っていた。翠月と世子は結ばれることはない、と。あれはどういう意味であったのだろうか。

 翠月は相変わらず世子をじっと見ていたが、世子は意を決して翠月に背中を向ける。

「そなたの気持ちは分かった、だが、わたしは諦めない」

「世子さま……」

「今から月読に会いに行く。そのうえで、兄上がなにを知っているのか聞いてくる」

 往生際の悪さは世子自身も自覚している。

 これほどまでに好きになった女人を、そうやすやすと手放す気はない。今は無理でも、婚姻すれば、徐々に翠月の心は自分に向けられるのではないだろうか。そんな淡い期待さえ抱いている。

 世子が扉に向かって一歩、歩き出そうとした時だった。

 バタン! と扉が開き、今まさに会いにゆかんとしていた人物、月読が扉の向こうに立っていた。

 世子も翠月も驚きあ然とするばかりである。

 月読は一歩、居所のなかに足を踏み入れると、世子に恭しく頭を下げた。世子は待ちきれんと言わんばかりに月読の元まで走り、月読をにらむように見おろして、

「そなた、以前わたしを翠月が結ばれぬと言ったな、あれはなにゆえだ」

 月読は世子を見上げながら、無表情のままに口を開く。

「翠月さまは、世子さまの実の姉君にございます」

 開け放たれた扉から、冬の風がひゅうっと吹き抜ける。

 部屋には火鉢が置かれていたというのに、一気に寒々しい空気になった。

 世子はその場に崩れ落ち、翠月もまた、その場に崩れ落ちる。

 ふたりを見おろしながら、月読は表情一つ変えずに語り出す。遠い昔の話を。


 王宮にはたいそう腕のいい巫女がいた。名前を花苗(かびょう)といった。花苗は王さまからの信頼も厚く、毎日王族に女官に平民に両班に、色々な人間の星読みをした。

「花苗さま、私の結婚運について占ってください」

「はい……この後半年後、あなたは運命のひとと出会います」

「半年後!」

「はい、善い行いをしていれば、やがて運命の人と出会えるでしょう」

 花苗は両班の娘にそう言い、だが最後に付け足すように、

「ですが、占いはあくまで占いにすぎません。自らの運命を切り開くのは自身の力です」

「はい、分かっています」

「それならばいいのですが。いいですか、信じすぎることもかえってよくありません。善い行いをすれば、神さまはそなたの行いを見ています」

 花苗のこれは、いつものことである。どんな人間に対しても、星読みはあくまで星読みであり、絶対ではないと諭すのだ。だが、実際に花苗の星読みは外れたことがないから、誰も花苗の本心をくみ取ってはくれない。

 星読みで出た結果は必ずしも絶対ではない。外れることだってままある。花苗自身はそれを知っていたから、自身の運命について占ったことはほとんどない。


 花苗はその日、王妃に呼ばれていた。

 広く飾りの豪華なその部屋に通されて、花苗は少しばかりの違和感を覚えた。

 花苗は自身の運命について、一度だけ占ったことがある。星読みが自身の占いをすることはあまりない。現に、花苗もその一回限りしか星読みをしていないし、そもそも花苗の師匠の教えがそれを許さなかった。

 星読みは運命を知ることが出来るがゆえに、自身の運命を占うと、それを覆さんとあがいてしまう。その結果、星読みとしての力は弱り、やがて自身の占いによって身を滅ぼす。

 だから星読みは、自身の運命を占わない。だから星読みは、占いに人生を振りまわされてはいけないと民に諭す。

 だが花苗は師匠の教えを破って、一度だけ自身の運命を覗き見たことがある。

「私は……殺される?」

 不吉な結果である。占いの結果花苗が見たもの、それは花苗の死であった。

 花苗の死は、自然の成り行きとは程遠いものであった。策略により命を落とす、そういう旨の結果が出たのだが、すぐさま花苗はその結果を否定した。

「占いになんて振り回されない。私は星読み、愚かなことはしないのだから……」

 花苗は実際、今この時――王妃の呼ばれるまで自身の占いを忘れていた。

 ずっと平和に、民の占いをしながら、生きていくのだと思っていた。だが、どうやらそうはいかないようだ。花苗の占いは王妃の耳にまで届くところとなり、その日花苗は王妃の居所を訪れた。

 そこで花苗は、先の自身の運命についての占いを思い出した。

 王妃に礼をしながら、花苗の心は乱れていく。

「花苗、といったか。そなた、王宮付きの星読みになってはくれぬか」

 それを受け入れれば、花苗の占いが現実のものとなることはすぐにわかった。長年の星読みの勘である。

 どう断わればいいだろうか、だが、断ればきっと花苗はただでは済まない。

 花苗の占いは、結局当たる。今死ぬか、もしくはもう少し後に死ぬかの二択である。

 そもそも、花苗が星読みになった時点で、この運命は避けられないものだったのかもしれない。

 花苗は王妃に頭を下げたままに、か細く、消え入りそうな声で答えた。

「恐悦至極に存じます」

 その日から花苗は、王宮付きの星読みとなった。


 花苗の星読みはよく当たる。それは王宮外にも噂が立つほどであり、花苗目当てに王宮に出入りする両班も少なくない。

 本来ならば、王宮付きの星読みともなれば、一般の人間がその占いを聞くことは出来ない。だが、いつの時代にも法をかいくぐる方法はあるもので、宦官伝手に、花苗に星読みを頼み込む人間は跡を絶たなかった。

「そなたのうわさはかねがね聞いている。礼は弾む」

「いいえ、私は金品は一切受け取りません」

 訪ねてくる両班たちは、花苗にたくさんの金品を貢いだが、花苗はそれらに手を付けたことは一度もなかった。

 実によくできた星読みだと、花苗のうわさはさらにさらに広まることとなった。


 その一方で、花苗は唯一の肉親である妹に仕送りをしていた。花苗の妹は花苗とはずっと離れて暮らしていた。花苗は師匠にその才能を買われて都で修行をしていたのだが、いつだって妹の存在は花苗の励みになった。

 星読みの修行はなかなかにして厳しいものであった。特に師匠は、花苗に星読みのなんたるかを強く強く教え込んだ。

「いいかい、花苗。星読みによって人の人生が変わることもある。命が失われることにもなる。だから花苗、占いを全部が全部真に受けてはいけないよ。分かるかい?」

「はい、お師匠さま。私は星読みとして、多くのひとにその教えを広めます」

 星読みは他の人間よりもわずかばかり勘が鋭いとか、気の流れを読めるとか、邪気を見ることが出来るだけの、一般人となんら変わりないか弱い存在である。

 だが実際、星読みは万能であると誤解されているのが現実なのだ。未来が見えるがゆえに、人の人生を変えることが出来るとさえ信じ込まれていた。 

 故に時々、不届きな依頼人が来ることもある。

「花苗さま、あの女を呪い殺してほしいのです」

 女の嫉妬は恐ろしい。好いた男の心を手に入れられなかった女や、

「花苗さま。あの宦官を殺してくだされ」

 権力をほしいままにする宦官や両班、その他多くの殺しの依頼を花苗は持ち掛けられたことがある。

 いずれも花苗は丁重に断ったものの、どこからどう噂がねじ曲がったのか、呪いの依頼は絶えなかった。

 星読みは呪いを信じない。呪というものはこの世に存在しないからだ。星読みの占いは、あくまでそのひとの気持ちを読み、そうして少しばかりの勘の良さで、それは成り立っているだけなのだ。

 王宮に来てもなお、花苗への呪いの持ちかけは減ることはなかった。だが花苗は、一つ一つその依頼を丁寧に断り続けた。


 その日花苗は夢を見た。自身の夢だ。

 幼い妹が花苗の名前を呼んでいる、泣きじゃくりながら必死に何度も呼んでいる。だが花苗はそれに答えてやることが出来ない。花苗は死んでいたからだ。

 なぜ死んだのだろうかと、花苗は夢のなかであたりを見渡す。そこに見えたのは、赤子を抱いた王妃であった。王妃は赤子を忌々しそうに見ている。男児だ、男児の赤子だ。

 男児を生んだとなれば、王妃も手放しに喜ぶはずであるが、王妃の顔は歓びとは程遠いものである。

 花苗はその赤子の顔を覗き見る。

 王妃にも王さまにも似ていないその顔に、花苗はそのときすべてを悟った。

 場面が移り変わる。

 花苗と似た顔つきの女が、とある少女と王宮で話をしている。少女には王妃の面影があった。だが、衣は王族のそれではない。

 これが例えばただの夢だとしても、花苗は決して無視できない。

 少女は紛れもなく王妃の娘である。だが、その娘が、王妃と王妃の息子たちを苦しめている。花苗にそっくりの女が、少女にそう告げている。

 少女は泣き崩れるしかできない。だが、花苗に似た女はどこか満足そうに、その顔に笑みを携えている。


 ハッと目を開ける。

 夢の内容が妙に生々しく、花苗はその場に起き上がると、鏡台を取り出して自身の顔を見る。死相が浮かんでいた。

 ああ、きっともうすぐ星読みの通りに自分は死ぬのだ。

 花苗が自嘲的に笑った時、扉の外から尚宮の声がした。

「花苗さま、火急の用事にございます」

「ああ、今行く」

 なんとなく、いや、花苗にはすぐにわかった。王妃に呼ばれたに違いない。そして、運命が回り出したに違いない。

 花苗は自身の衣を着替えて、髪を整えると、重い足取りで王妃の居所へと歩くのだった。


 王妃の居所では、王妃が布団の上に座って、今か今かと花苗を待っていた。

「月読、待ちくたびれた」

 月読、というのは、花苗のことである。花苗はその功績から、新たな名前を王妃より賜った。

 『月』の字は、王妃の名前から一文字与えたもので、『読』の字は、星読みから取ったものだ。

 今では花苗を昔の名前で呼ぶ者はいない。みな花苗ではなく月読と呼んだ。

 花苗は呼ばれるままに王妃の傍へと座る。王妃は愛おしそうに自身の腹に手を添えて、花苗のほうを見ていた。

 その瞬間、花苗はすべてを悟る。

 この赤子こそが、花苗の死因になりうる存在なのだ。

「こたびわたくしは身ごもってな。腹の子が男か女か占ってほしい」

「……恐れながら、王妃さま。赤子の性別はいくら星読みでもわかりかねます故……」

 そうは言っても、今まで花苗はたくさんの妊婦の占いをして、その的中率は百発百中であった。それを今さら、分からないと言い通せるはずもない。

 王妃は花苗の手を握り、懇願するような目を向ける。

「女、なのだな?」

「……さようです」

 王妃は今一度自分の腹を撫でて、愛おしそうに目を細めた。

 花苗はそれを見て、真実を言いにくくなる。

「さりとてわたくしは、王さまとのお子ならば、男子女子に関わらずどちらでもよいと思っている」

 穏やかに、王妃の表情が慈愛に満ちる。だが、花苗の顔は相変わらず険しいままだ。

 さすがに王妃も花苗の様子がおかしいと気づき、そうして花苗のほうを見やると、眉をひそめた。

「もしや、なにかよくないものでも見えるのか」

 花苗は首を縦に振る。

「恐れながら、お腹のお子は将来王室に混迷を招きます」

 花苗の口は、予想外にもあっさりとそれを口にしていた。

 占いはあくまで占いに過ぎない。それは再三王妃にも伝えてきたし、王妃が自分の子供よりも占いを優先するとも思えない。

 王妃は慈悲深く優しく聡明なかただ。

 花苗は頭を下げたまま、王妃に進言する。

「ですが王妃様、占いはあくまで占い故」

「……ああ、そうだな。そうだ。わたくしもそう思っている。ああ、今日はもう疲れた。下がりなさい」

 王妃の顔には明らかに困惑の色が見えた。

 花苗は一抹の不安を抱きながらも、そのまま王妃の居所を後にした。


 花苗が見た夢は予知夢のようなものかもしれない。だが、予知夢というのは、近しいものの死とか危険とか、そういったものがほとんどである。 

 そうだとして、何故花苗はあのような夢を見たのだろうか。困惑する王妃と未来の世子の夢を。

 ここにきて、花苗は気づく。夢に出てきた、自分にそっくりなあの女は、よもや自分の妹の蕾苗(らいびょう)ではなかろうか。だとしたら、納得がいく。

 あれは未来の蕾苗の姿なのだ。蕾苗は将来王室の巫女となる。そして王妃の娘と世子に、現実を突きつけるのだ。

 王妃の娘が王妃と世子を苦しめる存在となる。

 花苗の夢はその未来を写しだしたものに違いない。だが、なぜその未来が訪れるのか、花苗にはまるで分らない。

 占いといっても、万能ではない。断片的に読み取れたものを読み解いて、そうしてつなげて伝えるのが星読みのそれである。

 だが、今の段階では断片的すぎて花苗にもその未来が見えてこない。

「蕾苗に手紙を書こう……元気にしているかしら」

 花苗は思い立って、蕾苗に手紙を書いた。


『可愛い蕾苗へ

元気にしていますか? 姉は王宮にて王妃さまや王さまのお役に立てて、それを誇りに生きています。

先日夢を見ました。蕾苗が将来星読みとして王宮に仕える夢です。

ですがその夢はよい夢ではありませんでした。

故に蕾苗、約束してください。そなたは決して星読みにも、ましてや王宮にも近づかぬと。

王宮の華やかさは見せかけだけです。

実際はとても危険で愛憎渦巻く恐ろしいところです。

決して姉の言葉を忘れぬよう、元気に生きてください』


 まるで遺言のようになってしまった。花苗はそう思うも、それを書きなおすことはしなかった。

 もしかしたら、本当に自分はこのまま死ぬかもしれない。そう思ったのだ。

 自身の占いによれば、花苗は策略によって命を落とす。それが今回の王妃の懐妊と関係があるように思えてならない。

 花苗は手紙を飛脚に預けると、遠い地にひとりで暮らす妹の身を案じた。


 王妃の腹は徐々に大きくなっていく。

 花苗は度々王妃に呼ばれることはあったものの、あの日以来腹の子について聞かれることはなくなった。

「花苗、わたくしはね、この子が女の子だったら翠月と名付けようと思っている」

「翠月さま……それは良い名前ですね」

「ええ。緑が生い茂る夏に生まれる故、翠という文字を、そして『月』はわたくしの名前、『月夜』から取った。すいという読みは、水のように美しくという意味を込めた」

「さようですか……」

 慈しんでいるようにしか見えなかった。花苗の占いなどまるで聞いていないかのように、王妃はそれはそれは嬉しそうに、お腹の子供について話をする。

 全ては杞憂であったのではないかと、花苗も思い始めていた。

 花苗が見た夢も、自身の占いの結果も、すべては花苗の心の弱さが招いものなのだと。

 花苗は自身が計略により死することを占いの結果で見てしまった、ゆえに王宮に呼ばれた時からこの場所で殺されると心のどこかで怯えていたのだ。その結果、不吉な夢を見、さらには王妃の懐妊と自身の死を結びつけてしまった。

 花苗の心には、もう恐れはなかった。


 いざ出産の日がやってくる。

 だがその日出産に立ち会ったのは最低限の女人だけである。尚宮と産婆が一人、それから女官が一人だけである。

 かの王ですら、出産には立ち会えず、王妃の居所はしんと静まり返っていた。

 そうして生まれた姫君は、すぐさま尚宮によって王宮の外へと連れ出される。

 王妃は星読みの結果を信じた。自身の子供が将来王宮に混迷をもたらすという占いを、信じたのだ。

 その結果、王妃は暴挙に出た、生まれた子供を王宮外に捨てて、代わりに別の女の赤子とすり替えようとしたのだ。

 王妃は保身に走った。王宮に混迷をもたらす子供を産んだとなれば、自分も歴史の汚点として伝えられてしまう。それだけは憚られた。なにより、王が自分から離れていくことが怖かった。

 王妃は内密にことを進めた。あの花苗ですら王妃に騙されたのだ。

 だが、ことはそううまく運ばなかった。

 姫君とすり替える予定だった女児の赤子が、急死してしまったのだ。

 王妃が選んだ赤子は、普通の家の女の赤子である。もしも男児とすり替えようものならば、将来王と王妃と血のつながりのないその子供が世子となる可能性がある。それは避けねばならない。

 王妃はなかなかにしたたかにことを進めた。だが、赤子は死んでしまい、尚宮は慌てふためく。

 このまま姫君を連れ帰れば、いずれ王宮に混迷をもたらす。それならば。

 尚宮は隣町まで走って、やっと生まれたばかりの赤子を見つける。男児の赤子である。

「そなたたち、その子供をこの赤子と取り換えなさい」

「あなたは誰ですか? 私たちの子供を何故奪おうとするのですか」

 だが尚宮のひっ迫した雰囲気に赤子の父母は気圧されてしまう。

 なにより、位の高い尚宮からの命令に背くことは、謀反に等しい。抵抗など出来るはずもなかった。

「よいか、このことは誰にも言うでない。そなたたちには生涯困らないだけの褒美を与える故」

「私の坊や、私の坊や」

 母親は最後まで赤子に縋りつくようにして泣いていた。父親もまた、涙は流さないが赤子を愛おしそうに見ている。

 尚宮は受け取った赤子をしっかりと抱きなおし、そうして父母にくぎを刺す。

「その子は……翠月という名前だ。緑が生い茂る夏に生まれた故、緑と水のように美しくという意味を込めて『すい』の名前を賜った」

 尚宮の言葉が届いていたのかは定かではない。

 尚宮は姫君を不憫に思い、せめて置き土産にとその名前を男と女に伝えたのだ。

 姫君を抱いた父母は、その子が無邪気に笑う様子を見て、哀れに思った。なぜどうしてすり替えられることになったのかは知らないが、とても不憫なその赤子に、目一杯の愛情を注ごうとすら思った。

「そなたたちの子供は元からこの娘であった。そうだな?」

「……はい、はい……決して他言は致しません」

 そうしてすり替えられた姫君が翠月と陽の宮、夏月であった。


 無事に翠月と夏月がすり替わったものの、王妃はどうしたものかと嘆いていた。手違いでおなごではなく男児とすり替わったため、この子を将来どうすべきか、今から悩んでしまったのだ。

 到底、王妃は夏月に愛着など湧くはずもない。王妃はやがて夏月を拒否するようになり、そして後に世子が生まれると、そちらにばかり愛情を注ぐこととなった。

 民の間では慈悲深く優しいお人柄であるとうわさされた王妃は、自身の保身のために姫君を捨てた。だがそれは誰にも知られることはなく、今日まで王妃は自身の地位を守り続けた。


 この件に際して、もう一人の犠牲者がいた。それが花苗である。

 花苗はすぐさま王妃が赤子をすり替えたことに気づいたのだ。もとより、花苗の占いによってこのような災厄がもたらされたわけだから、王妃がそれを黙って見ているわけもなかった。

 非情にも王妃は、花苗の口を封じるために、花苗の暗殺を命じたのだ。

「っ、私は、死ぬのですね」

 毒を盛られて、苦しむさなか、花苗は毒入りの食事を持ってきた女官に意地を見せた。

 このまま死んでなるものか。ああ、そうだ、夢だ、夢を見た。

 蕾苗が自分の無念を晴らす夢だ。あの夢はそういう意味だったのだ。花苗が殺され、その結果あの姫君は王妃とその子供である世子を苦しめるためにこの王宮に戻ってくる。

 今から死ぬというのに、花苗はどこか胸のすく思いをした。

 結局占いは占いに過ぎない。

 王宮に混迷をもたらす原因を作ったのは、紛れもなく王妃自身だ。花苗の占いにとらわれて、自身の実の娘を捨てた、薄情で浅はかな、あの王妃自身の業なのだ。

 花苗は自身の人生を振り返る。師匠の言葉は真実ではなかった。星読みの運命は決して逃れられない。花苗がそうであったように、王妃もまた、その運命から逃れられないのだ。


 花苗の死は、意外にもあっさりと妹の蕾苗に伝えられた。花苗の師匠が蕾苗を訪ねたことが発端である。

「蕾苗、といったか」

「どちらさまですか」

「私は星雨、花苗の星読みの師だ」

 蕾苗はさてなに用かと首を傾げた。

 星雨に関しては、花苗が星読みとして資質を見出された際に一度だけ会ったことがあるが、それは幼き日のたった数刻のことであった。故に蕾苗には星雨が本当に花苗の師匠であるのか、確かめるすべはない。だが、なんとなく本当なのだろうとは思わされた。

 星雨には妙な説得力がある。この人物がただものではないことは、蕾苗にもすぐにわかった。

 だが、何故自分を訪ねてきたのかまでは分からない。

「花苗が死んだ」

「え……? 姉さまが?」

 訊き返すも、星雨はコクリと頷くだけで、それ以上はなにも言わない。

 最近まで手紙のやり取りをしていたくらいであるから、花苗が病気で亡くなったとは考えにくい。だとすると、不慮の事故かなにかであろうか。

 ぽた、ぽた、と涙が頬を伝う。なぜ、どうして。手紙ではあんなに元気そうにしていたのに。

 無情にも、星雨は続ける。

「そなたの姉は、自身の運命を星読みで占った」

「……? それがなんだというのですか」

「……結局、花苗は運命には逆らえなかった」

「それはどういう……」

 星雨は、ふうっとため息を吐き出した。それが、花苗の死因が一筋縄では行かないものだと物語っていて、蕾苗は思わず星雨に詰め寄っていた。

「姉さまはなぜ死んだのです!?」

 まるで星雨が悪いかのように、責め立てる。星雨は、ゆっくりとゆっくりと花苗の運命を説明した。


 説明を聞き終えて、蕾苗は途方に暮れた。王宮付きの星読みとなりながら、そのせいで命を落とすなどと、考えもしなかった。花苗はなぜそのことを自分に黙っていたのだろうか。悔しい、悔しい、王宮に殺されたことが心底憎い。

「蕾苗、そなた、ゆめゆめ復讐などと、馬鹿げた考えは起こさぬよう……」

「いいえ、星雨さま。あなたも言ったでしょう。運命には逆らえないと」

 蕾苗は紛れもなく憎しみに飲み込まれていた。唯一の肉親を殺されて、復讐するほかに選択肢などあってたまるものか。

 蕾苗の瞳に宿る復讐の炎に、星雨は悲しそうに眉根を寄せた。

 花苗と蕾苗の人生を捻じ曲げたのは、紛れもなく自分だ。自分が花苗を見出して、星読みへと誘わなければ、花苗も、蕾苗もまた、このような運命にさらされることはなかった。

 罪滅ぼしだ、運命を変えようとあがく、星雨の、最後のあがきだ。

「そなた、私の弟子になるか」

「……はい、私はなんとしても、王宮へ行きます。そのためならば、星雨さま、あなたのことですら利用してみせます」

 蕾苗がなにを考えているのか、分からないほど馬鹿ではない。星雨にも分かっている、蕾苗は星読みとなり、王宮へ入るつもりなのだ。その上で、花苗の敵を討つつもりなのだ。

 星読みで占った運命は変えられないのだろうか。星雨にもそれは生涯分からなかった。いや、分かっていたのかもしれない、運命というものは、人の手ではどうあがいても変えられないものなのだ。 


 そうして月日は流れ、蕾苗は月読と名を改めて、王宮の星読みにまで上り詰めた。

 だが、王妃はすっかり月読の姉のことは忘れており、月読が新しく王宮付きの星読みとなっても、なんら気づくことはなかった。わざわざ同じ名前にして王妃に近づいたというのに、王妃はすべてを忘れてのうのうと生きてきた。

 月読は決意を新たに、機が熟すのを待っていた。

 そうして世子が王宮を出ていった頃、翠月を探し出し、許嫁として世子のもとへと送ることに成功する。

 そこからはとんとん拍子に話が進んだ。思惑通り、世子は翠月に惹かれていった。翠月もまた、世子に惹かれた。

 陽の宮が翠月に思いを寄せることは予想外であったものの、月読はそれが唯一の夏月への罪滅ぼしだとも思う。

 世子のせいで、王妃のせいで人生を狂わされた陽の宮が、世子に唯一勝るもの、それが翠月からの愛であったのならば、きっとこれ以上の救いはない。

 月読の思惑通りことが進む。翠月が王の宴会に来たあの日、月読は計画の成功を確信していた。

 そしてその日、王妃もまた、翠月が何者であるかを知ったのだ。

 宴席を離れた王妃を追って、王妃の居所まで来た月読は、この日を待ちわびたと言わんばかりに、王妃を苦しめた。

「王妃さま。あなたは私の姉を覚えていますか」

「……なに、を」

「あなたが殺した星読みを、覚えていますか」

「……! まさか、そなた……」

 王妃は十九年前の出来事を思い出す。よもや、子どもをすり替えたことを知る人間がまだ生きていようとは。

「そなた、わたくしの秘密を知っているな。ならばあの星読みと同じように――」

「もしも、もしもあなたが私を葬ろうものならば、あなたの秘密を王さまに届けるように、私の弟子に書状を預けてあります」

「……! そなた、なにもの……」

 そこまで言って、王妃はようやく月読の姉の存在を思い出したようだ。目を見開いて、月読をまじまじと見ている。

 これほどまでに姉と似ている自分を、やすやすと信じ込んで王宮に招き入れて、なんと滑稽なことだろうか。月読は王妃をあざ笑うかのようにじっと見続けている。

 月読の口角が上がる。月明かりに照らされたその顔を見て、王妃は月読に姉の面影を見た。

「私の姉を殺したあなたには、これから罪を償っていただきます」

「わたくしを脅すのか」

「いいえ。王妃さま。罪というものは未来永劫許されないものなのです」

 月読は踵を返し、歩きながら後ろ手に言い放つ。王妃は追いかけることもできず、歯を食いしばってその場に立ち尽くすのみだ。

「罪は一生消えない。世子さまに対する罪も、私の姉に対する罪も。陽の宮さまに対する罪も、そして、翠月さまに対する罪も」

 生き地獄を味わうがいい、そう言わんばかりの物言いだ。月読はそれだけ言い残して、王妃の居所を後にした。





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