第7話 好き

七、好き


 今日は王宮から迎えが来る日である。最後の朝食だと翠月は張り切って厨に立つものの、その顔は晴れない。

「そなたを正式に妻にできるように、王さまのお許しを乞うつもりだ」

 世子は確かにそう言った。だが、翠月はそれを大いに断ったのだ。

「わたくし、そのような申し出をお受けすることは出来ません」

「何故だ? そなたはわたしの許嫁であろう?」

 だが世子は一切譲らなかった。王宮にも戻る、翠月も手放さない。実に世子らしい決断であるとは思うが、翠月は王宮を好きになれそうになかった。

 月読と暮らした一ヶ月の間でさえ、翠月は王宮暮らしに辟易していたくらいであるから、当然のことである。

 だがそれを抜きにしても、自分が世子の妻になるなどとおこがましいと思ったのだ。

 確かに翠月は世子に惹かれてはいる。だが、だからといって翠月は平民で世子は王族だ。この婚姻に反対する者も多くいるだろう。

 翠月はどうしても踏み切れなかった。

 いや、その理由はもしかすると、夏月のせいもあるのかもしれない。夏月もまた、翠月を好いている。

 だから、もしも翠月が世子を選んでしまった時、夏月は今まで以上に世子に食って掛かるようになり、結果的に世子はそれを理由に、夏月を殺すかもしれない。世子が世子になると決意した今、世子が次期王になるのは確実だ。

 そして世子が王になったとき、世子は夏月を本当に殺してしまうかもしれない。翠月がこのまま王宮に入り、世子の妻となってしまえば。

 そこまで翠月は考えたのだが、世子がどうしても翠月を王宮に連れていくと言ってきかないため、翠月は仕方なくそれに従うほかにない。

 なにしろ世子の直々の命令であるから、翠月が逆らえるはずもなかった。

「翠月、今朝くらいゆっくりすればいいものを」

「世子さま。このような日だからこそいつも通りにしたいのです」

 厨に世子が顔を出し、翠月にそう言ったのだが、翠月は作り笑いを浮かべて料理の手を止めなかった。

 ふうっと世子は息を吐き、翠月の隣まで歩く。

 粥を焚く翠月は、ぼうっとかまどの前に立ち尽くしていた。

「そなたは嫌か?」

「え?」

「わたしとともに暮らすのは、嫌なのか?」

「そんなこと! ただ」

 翠月の表情が曇る。世子にも翠月の心のうちが分からないわけではない。翠月は世子と夏月が喧嘩別れした形になってしまったことが心に引っかかっているのだ。

 だが世子とて、一度言い出したことを撤回するわけにもいかない。もとより、夏月に翠月を奪われてなるものかと思っている。その一心で世子は、王宮へ戻る決意をした。

 だが翠月は思う。結果的に、星読みの言う通り、自分のせいで世子が王宮に縛り付けられてしまった。本当にこれでいいのだろうか、世子も、自分も。

「翠月。わたしはそなたをずっと大事にする」

「世子さま……」

 その言葉は素直に嬉しい。世子とともに生きられたら、翠月もそう思わなかったわけではない。翠月自身も世子に惹かれつつあるのだが、だがしかし、その反面妙に引っかかることもあった。

 翠月は恋をしたことがない。それは、生家で大事に育てられ、見合いの話はおろか、親に結婚を急かされることもなく生きてきたからだ。

 加えて翠月は男勝りな性格がゆえに、男の友達も多かった。そうなってしまうと、男女の間に友情はあれど、恋心など抱く経験をしてこなかった。いわば翠月にとって男とは、友人以上にはなり得ない存在であったのだ。

 だから翠月は、自身が世子に抱く感情に確信を持てない。

 そもそも、夏月に抱く感情に戸惑っている。

 夏月が泣きそうな顔で翠月に言った言葉が頭から離れない。『翠月に選ばれたい』それはつまり、自分を慕ってくれているということだ。あのときの夏月のことを思うと、翠月は胸の奥がチクリと痛んだ。

 いつもそうだ、世子は翠月の心を明るく照らすが、夏月は翠月の心を暗くする。

 きっとそれが答えなのだ。明るく自分を照らし出してくれる世子こそが、自分の生涯連れ添うべき人間でであるに違いない。

 翠月の心からは迷いが消える。

「世子さま。はい、わたくしは、世子さまについてゆきます」

 例えばそれが、退屈な宮殿暮らしだったとしても、翠月はそれでかまわないと思った。

 世子ととともに暮らせるのなら、それが一等幸せなことだと思ったのだ。


 最後の朝食は、だがふたりとも無言であった。

 いつもより味付けが濃くなってしまったのは、翠月が緊張しているからに他ならない。世子もそれが分かるだけに、今日の料理についてはなにも言わなかった。

「甘すぎ、ましたね」

 翠月が緊張をかき消すために世子に言うも、世子はこくり、頷くだけだ。

 パクパクと煮魚を口に運んで咀嚼して、そうして飲み込む。

 世子の様子を見て、翠月は少しだけ緊張が緩んだ。

 あの世子すら緊張しているのだから、自分が緊張するのもおかしくはない。そう思ったら、翠月の緊張が少しだけ和らいだのだ。

「今日はいい天気ですね」

「……ああ」

 見事なまでの冬ばれである。翠月が世子のもとを訪ねてきてから四カ月余り、初めてここを訪れたのは夏のことであったが、季節はすっかり冬に移ろいだ。


 やがて朝食を食べ終わるころに、屋敷の庭に輿がよこされる。

「世子さま、翠月さま」

 迎えに来た尚宮の声に、世子が立ち上がる。翠月もまた、立ち上がり、庭先まで歩く。

 履物を履いて、一歩一歩踏みしめるように歩くと、何故だか無性に寂しさを感じた。

 もうここで暮らすことあなくなるのかと思うと、寂しくて仕方がなかった。

 翠月は今一度部屋を見渡すと、小さく「さようなら」と呟いて、そうして庭に降り、輿の中へと体をかがめた。

「翠月さま、お待ちしておりました」

「……はい」

「それでは、輿を閉めます故」

 尚宮たちが恭しく頭を下げるなか、翠月は輿に入る。そうしてそこに座ると、輿の入り口が閉じられた。

 一瞬にして暗くなる。まだ朝だというのに輿のなかはやはり暗い。暗い輿のなかは好きになれそうにない。王宮に連れられた時も、この屋敷に初めて来たときもこの輿に乗ったが、翠月はこの輿が好きになれない。

 自分の足で歩くことが翠月にとっての普通である。世子は慣れた様子で自身も輿に座ったが、世子はなんら動じることはない。

 翠月は輿の窓を少しだけ開けて、屋敷の様子を見る。

 小さな屋敷であるのに、妙にその存在感は大きい。いろいろな思い出が詰まった屋敷を見ると涙が自然とこぼれ落ちた。

 二度目の経験だ、翠月にとってこれは、生家を離れたあの日以来の、二度目の悲しい別れである。

 翠月は窓を閉めると、さめざめと泣いた。輿が担ぎ上げられ王宮まで運ばれる間中、翠月はずっと涙を流した。


 王宮につくと、世子はすぐさま正装に着替えて、居所を後にした。

 世子の居所は、とても日当たりが良く王の居所にも近い場所にある。

 翠月がふいに思い出したのは、夏月の居所のことである。夏月のそこは、薄暗くじめじめしていて、宮殿の隅の方にある。

「可笑しいわね、私……」

 尚宮たちが翠月の服を着替えさせているなかで、翠月は独り笑いを漏らした。

 尚宮たちは首をかしげながらも、翠月の服を淡々と着せていく。

 宮廷にふさわしい華美な服は、きらびやかできれいなものだ。だが翠月は、それがどうにも重たくて仕方がなかった。こんなに着飾る必要は、自分にはない。

 翠月はやはり、王宮の生活は馴染めそうにないと思う。だがきっと、それはここにい続けることで慣れていくのだろうとも思う。

 翠月の着替えが終わり、尚宮や女官は居所から出ていく。

 堅苦しい服を身にまとい、翠月は姿見鏡に映る自分を見て、笑った。

「可笑しい」

 自分には到底似合わない。このような服も、このような部屋も。

 世子が帰るまで居所でゆっくりして待っている約束ではあったが、翠月は少しだけならと思い、居所の庭に出ることにした。

 息苦しくてじっとしていられなかった。世子は今ごろ、王さまとなにを話しているのだろうか。そんなことを思いながら、翠月は庭へと足を進めた。


 一方世子は、王の御前で恭しく礼をして、そうして玉座の前に座り込み、

「月の宮、秋月。ただいま帰りました」

「ああ、よく帰ってきた、約一年ぶりか?」

「はい、その節は御心配をおかけしました」

 世子が気まずそうに答えるも、王はにこりと笑みを絶やさない。ずっと世子は世子としての責を放棄していた。それが今日、ようやく世子として帰ると決意をしたのだ、機嫌もよくなって当たり前である。

「私はこれから、世子として王さまに仕える所存でございます故」

「おお、なんと頼もしい。なあ、王妃」

「はい、王さま」

 王の隣には王妃が座っている。世子の母親である王妃は、長い年月を経てもなお、王の寵愛を一身に受けている。

 王妃が王の寵愛を受けることは歴史的にも珍しいことである。それほど現在の王は愛に深く、王妃もまた、人徳のある人物であった。

 そのような親を持つ世子は、両親をそれは尊敬していた。

 言葉にはしなかったが、世子は両親を愛しているし尊敬している。ただ、それと世子の責を負うことは別の話であったようで、世子はずっと、自分の立場を嫌ってきた。その結果が、あの簡素な屋敷への移住であった。

 世子が王宮を出て平民の簡素な屋敷に暮らすようになってから、何度も使いをよこして世子を説得せんと試みたのだが、それはなかなかうまくいかなかった。そもそも、宮殿にいるころも、世子としての役割を拒否し続けてきたため、もはや世子には世子としての自覚など生まれることはないと誰もが思っていた。

 そんな折、星読みの占いにて選出されたのが翠月である。結果、星読みの占いは見事に的中した。

 王は星読みにたくさんの褒美をとらせたが、星読みはそれを受け取ることはなかった。

「王さま、わたしは世子として責を果たします故、ゆえに、翠月との婚姻をお許しください」

「うむ、それはわたしも賛成してやりたいところなのだが……」

 王が王妃をちらりと見やる。王妃は首を横に振り、反対の意を示した。

「王妃が絶対に駄目だと言い張ってな。もうほかに、候補の娘を探しているところだ」

「な……母上、あんまりです。わたしは翠月を――」

「世子、聞き分けなさい。あの娘はなりませぬ。あの娘は平民ではないですか」

「ですが、許嫁としてよこしたのは母上ではないですか」

「……ならぬものはならぬ。ああ、世子、聞き分けなさい。そうだ、あの娘は王宮に混迷をもたらすのだ。あの娘は駄目だ」

 王妃が頭を抱えるも、世子は反論をやめない。

 立ち上がり、王妃をまっすぐに見上げながら、

「わたしは翠月のために世子となることを決意しました。それなのに、翠月がいない生活など考えられません」

「ああ、世子。あの娘は尚宮にしよう。そうすれば生涯世子、そなたのものになる」

「母上!?」

 あんまりな提案に世子は声を荒らげるも、王妃がふらりと王の肩にもたれかかったため、王が右手を挙げてそれ以上なにも言うなと世子を止めた。

 世子はなにも言えなくなる。だが、世子の座を下りるとは言いださなかった。ここまで来たのだ、なにがなんでも翠月を許嫁として認めさせて、祝福の上で婚姻したい。

 世子は今日のところは仕方なしに出直すことにする。

「わたしは今日は帰ります故。翠月の件は、どうかお考え直しください」

「ああ、わたしからも王妃に詳しい話を聞くこととしよう」

 王が許しているというのに、王妃が反対するなど前代未聞のことである。いくら王妃に権力があるとはいえ、王の言葉に逆らうことなど本来ならば許されない。

 だが今の王妃にはそれだけひっ迫した理由があった。翠月を許嫁にできない確固たる理由があったのだ。

 それは王にも話せない、王妃の後ろ暗い秘密であるのだが、王は深くは聞こうとはしない。王は王妃を愛している、故に王妃の意見を尊重せんと、一存で翠月の件を認めることはしなかったのだ。


 庭に出た翠月は、冬の空を見上げてぽつり、涙をこぼした。

 輿に揺られる間にすべての涙を流したつもりでいたが、どうやらまだ枯れていなかったようだ。

 ぽつ、ぽつり。

 涙をぬぐうことはしない。目をこすると、泣いた跡が残るからだ。だから翠月は、はらはらと涙をこぼすだけ零して、すっきりしてしまおうと思ったのだ。

「翠月……?」

 そこに、聞きなれた声がする。

 いつも翠月が寂しい時、現れるそのひとは、紛れもなく夏月である。このような場所になんの用だろうか。いや、分かっている、ここは翠月の居所だ、つまり夏月は翠月に会いに来た。

 思わず夏月を振り返るも、夏月はなにも言わずに翠月に歩み寄った。

 泣いていることは一目瞭然であるのに、夏月は手ぬぐいを渡すことも慰めることもしない。それが夏月なりの優しさなのだ。泣きたいときは気のすむまで泣く、それが一番の解決策だと夏月は知っている。

 翠月は最初、そんな夏月の意図が分からなかったが、今になってその優しさを知った。夏月には夏月なりの優しさがあるのだ。

「夏月さま、は」

「なんだ」

「このような場所に住み、寂しくないのですか」

「……私はもう、だいぶ長い事寂しいな」

 ポロっと漏れた本音に、翠月は共感した。

 王宮は華やかだが、どこか寂しい。

 そもそも、翠月はこのまま自分が世子と本当の許嫁になっていいのかわからなかった。

 このまま一緒にいたい気持ちは本当である、だが、この宮廷で暮らすのはいささか窮屈だと感じていた。

 どうすればいいのか、もはや自分でもわからないのだ。

「わたしは、王家の長男として生まれたが」

「……」

「生まれた時から、なにも持たぬ子供だった」

 ぽつり、ぽつりと、夏月は話す。自分の生い立ちも、気持ちも。

 誰かに話したことなどなかった、自分の心のうちを、夏月は生まれて初めて、誰かに話した。


 その日王宮は上へ下への大騒ぎであったという。王妃の出産に尚宮も女官も産婆も、大忙しであった。

 夏の緑が生い茂る夜のことである。

 王妃は天井からつるされた紐をぎゅっと握って、息んで子供を産まんと必死であった。それを取り上げる産婆も女官も医女も、固唾をのんで見守っていた。

 陣痛から実に二十三時間、やっとの思い出生まれたのは、待ち望まれた皇子であった。

 夏に生まれたことから、『陽の宮』の称号が与えられ、名前は『夏月』とされた。

 『月』の文字は、王妃の名前から一文字与えたものである。だが、出産を終えた王妃は、その疲れからか、育児に専念できなくなった。神経質になり、赤子を見ると泣き出す始末、そこで夏月は乳母に預けられ、乳母のもとで育てられることとなった。

 その約二年後、王妃は第二子を御産みになった、それが月の宮、秋月である。

 こたびも王妃は出産の疲れにより体調が悪化されるかと懸念されたのだが、それは杞憂に終わった。

 秋月は王妃のもとで育てられることとなった。それはたいそう可愛がられ、秋月は両親の愛を一身に受けて育つこととなる。

 物心ついたころから夏月は、王宮の隅に居所を与えられていた。乳母も必要なくなった五歳のころには、いつもひとりで過ごしていた。

 時々、母親恋しさに宮殿に行くも、取り次がれればまだましで、門前払いされることもざらであった。

 だが、王妃の居所に通されたら通されたで、王妃は夏月のほうを一切見ようとはしなかった。

「母上さま。今日は先生に褒められました」

「ああ、そうか。そなたは賢い故」

 そう言いながら、王妃は膝に抱いた秋月の頭を撫でている。温かいまなざしはいつも、秋月にしか注がれない。

 悔しくなって、悲しくなって、夏月は子供の癇癪で、秋月を苛めたこともある。

 秋月は夏月を『兄上、兄上』と慕っていたが、幼い夏月には邪魔者以外のなにものでもなかった。

 邪険に扱い、いじめるように無視をしたり、時には軽く頭を叩いたりするが、そうすると決まって夏月は居所に閉じ込められた。

 一週間ほど謹慎だと、王妃の命により居所からの外出を禁じられることもしばしばで、夏月は涙で枕を濡らした。

 なぜ自分は王妃に愛されないのか、夏月なりに考えた。だが、考えても考えても答えはいつも同じだった。『秋月が生まれたから自分は捨てられたのだ』

 秋月が十になったころ、九つの秋月が世子として正式に国や隣国に発表された。

 王としては、長子である夏月に世子の座を据えるつもりであったらしいが、それは王妃の反対により覆った。

 王妃がそれほどまでに秋月をと言うのならば、王は王妃の言う通りに、秋月を世子として擁立した。

 世子は幼いながらもそれに驚いた。心底驚いたように、王に進言したのだが、もう決まったことだと王は聞く耳を持たなかった。

 秋月はその日から兄に対して罪悪感を抱くこととなるのだが、秋月からしてみれば弟からの同情など、侮辱にもほどがある

 親の愛も、世子の座も、すべてを手に入れた秋月が憎らしくもあり恨めしくもある。なぜ自分は生まれながらにすべてを持たないのだろうか。

 これでは、生きていても死んでいるのと同じだ。飼い殺しだ。

 夏月はその時から宮殿の外に出かけることが増えた。狩りに行っては動物たちを殺して気を晴らし、夏月を擁護する役人たちと町を闊歩しては町人に八つ当たりして憂さ晴らしをした。

 すさんだ思い出ばかりである、夏月の人生は、決して明るいものではなかった。

 だが、ふと思う。そんな夏月にも唯一、明るい思い出があった。なんだったか、夏月にも思い出せない。

「あなた、優しいのね」

 そう、いつだったか言われたことがあった。誰にだったか、誰に。

 だが、夏月にはそれが思い出せない。自分を優しいなどと称する人間など、いるはずもない。それはきっと、自分が都合よく作り出したまやかしなのだ。

 夏月の人生は、いつだって孤独で独りよがりだ。


 話を聞いて、翠月は夏月の横顔を見る。泣いているようにも見えるし、憂いているようにも見える。

 夏月が今の夏月になった所以を垣間見た気がした。夏月は自分を守るために、存在意義を確かめるために、ずっと運命に逆らって生きてきた。

 世子の座を奪いたかったのだって、その存在を王妃に認めてほしかっただけなのかもしれない。

「夏月さま」

「……」

「寂しかったのですね」

 翠月の手が夏月に伸びる。そうして翠月は夏月の頭ポンポン、と撫でる。夏月はなにも言わずに、されるがままだ。

 冬の寒々しい風が二人を包むが、心なしか体はあたたかい。心はもっと温かい。

 夏月は自分の頭を撫でる翠月の手を取る。小さな手は、冬の空気にあてられて冷たくなっていた。

 夏月は翠月の手の甲に口づける。やはり手は冷え切っていたが、それがとても愛おしい。

「夏月さま……」

「翠月、わたしは……」

 夏月の瞳に射止められて、翠月の心が揺れた。

 自分は果たして、世子が好きなのだろうか。

 夏月が自分に向けるまなざしには、愛しさが詰まっていた。その眼に映る慈愛の色に、翠月は分からくなったのだ。

 世子が自分に向けるまなざしには、このような色があっただろうか。世子は自分を必要としてくれているが、好きだとはっきり言われたわけじゃない。

 だが夏月は、はっきりといった、翠月に選ばれたい、と。

 世子は好きだ、だけれどそれは、許嫁として選ばれたことに言い訳をしたいからではないだろうか。

 本当は、自分など釣り合わないことを知っていて、だけれど許嫁だと自分を無理やり納得させて、そうして心を誤魔化しているうちに、好きだと勘違いしてしまったのでは。

 翠月は今までの生活を思い返す。

 世子はわがままで自分勝手なところがあって、だからこそ放っておけない。危なっかしくて、誰とでも打ち解けられる性格だ。

 きっとその性格は王妃譲りだ。王妃は優しく国母と呼ぶにふさわしい人格者だ。

 翠月もまた、王妃の人柄に惹かれたくらいであるから、つまり世子にもその王妃の性格は受け継がれているに違いない。

 そう考えた時、翠月が世子に抱く気持ちとは、もしかしたら国民が世子に抱く憧れと同じものなのではないかと思わされた。

 そうだとしたら、納得がいく。ずっとずっと翠月は世子のことを名前で呼べなかった。世子は『秋月』と呼ばれたがっていたが、ついぞ翠月にはそれができなかった。世子はあくまで世子であり、自分のような平民が気やすく話しかけていいひとではないのだ。どこかで線引きしていた。

 そうだ、世子に心を寄せられて、断れる人間など存在しない。

 夏月といるとき、翠月はいつもなんでも言えた。自分らしくいられた。翠月は明らかに、夏月に心を許していた。世子にはできなかったことだ、翠月は夏月とならば、対等に話ができた。

 そして夏月はいつも、寂しい時、苦しい時、翠月の傍にいてくれた。最初は横柄な人間だと思っていたが、だんだんと夏月を知っていくうちに、本当は優しいひとだと分かってきた。

「私……夏月さま……を……」 

 涙が出る。悲しい涙ではない、温かい涙だ。

 夏月はそっとその涙をぬぐってやる。悲しい涙は拭わないが、嬉しい涙はもったいないと思うからだ。嬉しい時は泣くのではなく笑えばいい。

 だが夏月は自分でも無意識に翠月の涙をぬぐっていたようで、ハッとしたように手をひっこめた。

 夏月は涙に二種類あることを知らない、うれし涙など見たことがない。それでも無意識下で、翠月のその涙を止めさせたかった。笑ってほしかったのだ。

「夏月さま?」

「な、んだ」

 翠月が笑う。泣きながら笑う。

 なにを言い出すのか、夏月には分からない。分からないのだが、心臓がばくばく脈を速める。

 どうにかなってしまいそうだ、翠月はいつも自分を翻弄する。

「すい、げつ、翠月!? 兄上から離れろ!」

 だが、翠月の言葉より先に、世子がその場に帰ってくる。 

 遠目にも翠月が泣いていることが分かったため、世子は急いで走り寄り、翠月を庇うように背中に隠した。

 そうして夏月を威嚇するようににらみ見ると、夏月はいつもからは考えられない儚い笑みを浮かべる。

「世子の座も、なにもかもオマエにくれてやる」

「……?」

「だが、翠月だけは、オマエにやるわけにはいかぬ」

「なん、……わたしとて翠月を手放すつもりはない!」

 世子が吠える。あまりの剣幕に、背中にいる翠月までもがびくりと体を震わせた。

 だが夏月はなんら動じることなく、ただ淡々と。

「月読といったか。あの星読みに聞けばいい。オマエと翠月は、なにがあっても結ばれることはない」

 その言葉を言い残して、夏月は庭から去っていく。

 翠月はその弱々しい背中を見守りながら、夏月の心を思っている。

 一方世子は、夏月の背中を忌々し気に見ながら、翠月を渡してたまるかと、ごうごうとその炎を瞳に宿していた。


 世子は翠月を振り返り、無事を確認する。上から下まで見渡して、はあっと安堵の息を漏らした。

「兄上になにかされたのか?」

「い、いいえ、なにも」

「なら何故泣いている?」

「あ、いえ、これは……」

 言えるはずがなかった。これからの宮殿生活を憂いて泣いていたなどと。

 夏月のことを思って泣いていたなどと。

 翠月は誤魔化すように世子から目をそらすも、世子には翠月の嘘などお見通しである。翠月はもともと嘘が下手故、すぐにそれは見抜かれた。

 世子は翠月の手を握る。

「なにがあった、話してみよ」

「な、なにも……ありません」

 それでも翠月はかたくなになにも言おうとはしない。よもや、夏月に脅されているのではなかろうか。

 世子は翠月に背中を向ける。

「今すぐ兄上を問いただしてくる」

「そ、それは! それだけはおやめください!」

 慌てた翠月が、世子の手を握った。世子の手は翠月のそれとは違いあたたかい。よほど興奮しているのだろう、怒りから震えているようにも感じた。

 これ以上、自分のせいで世子と夏月が争うのはごめんだ、それでは夏月にあまりにも申し訳なさすぎる。

 翠月は世子の手を引っ張るも、世子は今にも走り出しそうな勢いである。

 翠月の目からまた涙があふれる。怖い、世子はこんな人ではなかったはず。

 恋は盲目という言葉があるが、それはあながち間違いではない。恋はひとを変える、よくも悪くも。

 こんな世子は世子ではない。翠月の知る世子はもっと優しくて思慮深くて、誰よりもあたたかい人であったはずだ。

 わがままで自分勝手な部分もあるが、きっとそれは翠月の前でだけだ。世子はきっと、自分のことを姉か妹のように思っている。決してこれは、恋ではない。

 翠月が抱くその気持ちがそうであるように、世子が翠月に抱く気持ちもまた、恋とは似て非なるもの。

 お互いに幼すぎて気づかなかっただけで、きっとそうであるに違いない。

 翠月は世子の手を再び引く。

 そこでようやく世子が翠月を振り返った。その瞳に、翠月は一瞬たじろぐ。なんて強い憎しみだろう。

 もしかすると、自分はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。自分が世子と暮らしたことで、世子は結果的に王宮へと戻ってきた。すべて星読み――月読の占い通りの結果だ。

 翠月は世子を王宮につなぎとめる役割を果たしてしまった。不本意とはいえ、世子が王宮に戻るきっかけとなってしまった。

 その上、世子と夏月が決裂するきっかけにもなってしまった。

 いたたまれない。自分のせいで何人もの人間の人生を捻じ曲げてしまったとさえ思う。

 苦しい、だめだ、自分はきっと、ここでは暮らせない。

 翠月がはらはらと泣くさまを見て、世子はその涙を親指で拭った。悲しい涙を止めさせたかったのだ。

「何故泣く?」

 ああ、夏月とはこんなにも違うのか。

 夏月だったのならば、涙の理由を聞くこともしない、涙を止めようとすることもしない。それがどれだけ温かく、自分の励みになっていたのか、翠月はようよう思い知った。自分が好きなのは、紛れもなく。

「世子さま。外は寒いです、なかでお話しましょう」

「ああ、そうだな。翠月、わたしはなにがあってもそなたを守る」

 それは、守りたいのではなく自分のものにしたいのでは。

 そう思うも、翠月は言葉を飲み込んだ。幼い世子にはきっと、本当に『守る』ということがどんなことなのか分かっていないのだ。

 翠月と世子は居所へと姿を消していく。

 世子は信じて疑わなかった。翠月が自分を選ぶであろうことも、この王宮に残るであろうことも。

 だが翠月は、強く強く決意していた。この先なにがあっても、自分が選ぶのはただひとり――。





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