第6話 距離感
六、距離感
世子はもやもやとした気持ちを引きずっていた。王妃に翠月との婚姻を反対されたこともそうであるが、あの星読みの――月読の言葉が妙に引っかかるのだ。
月読はハッキリと、翠月と世子は結ばれることはないと断言した。その根拠はなんであろうか。
料理を食べながら世子は翠月を盗み見た。最近の翠月は自分のほうを見てくれずどこかよそよそしい。
翠月は翠月で、夏月の件をどう切り出そうか迷っていたのだ。もしも世子が王になったとき、夏月を殺さないでくれ、そう頼みたいのだが、果たしてそれは世子のことを裏切る行為にはならないだろうか。
世子が王になる話をすることもそうであるが、夏月を殺さないでくれ、というのは、世子が将来夏月を殺そうとする前提で話さなければならないからだ。それはあまりにも理不尽だ。翠月とて世子を信じてはいるが、確証が欲しかった。
世子がいくら夏月を尊敬しているとはいえ、王になれば心変わりするかもしれない。なぜなら皇子という存在は歴史的に、謀反を企て王座を狙ってきたからだ。
だから夏月は、世子の座を狙っている。
そうだとして、もしも夏月が王になったとき、その時は世子が殺されるのでは?
そこまで考えて、翠月はなにも言い出せなくなったのだ。翠月が首を突っ込むべき問題ではない。これは世子と夏月の問題であり、当事者がふたりで話し合うべきものなのだ。
それでも、夏月と約束した手前、なにもせずに手をこまねいているわけにもいかない。
ぐるぐる、ぐるぐる。
「翠月、そなた」
「え?」
「そなた、なにかわたしに隠しごとでもしているのか?」
「そ、そのようなことは……」
そわっと翠月の目が泳いだ。翠月は嘘が下手だ。世子はすぐさま翠月の嘘を見抜いて、箸を膳の上に置く。そうして翠月をまじまじと見ながら、
「そなたは嘘が下手だな。わたしが嫌になったか」
「いえ、いいえ。そのようなことは」
「では、何故ずっと私のほうを見ぬ」
「な、なんでもないのです。本当に……」
だが、やはり翠月は世子のほうを一向に見ようとしない。なにがなんだか世子には分からない。
ずっとうまくやってきたと思っていたのだが、どうやらそれは独りよがりだったようだ。
感情に任せて世子は立ち上がる。食事の途中だといういのに世子は屋敷から出て行ってしまい、翠月はおろおろするばかりだ。
世子を追いかけるもなんと声をかけていいのか分からない。
「せ、世子さま」
「……」
「どちらへ行くのですか」
「……知らぬ」
大股で歩く世子は、翠月に行き先も告げずに歩いていく。夕日に向かって歩きゆく世子の背中を見て、翠月ははあっとため息を吐いた。
その日から、世子の帰りが遅くなった。まだ未成年だというのにどうやら賭場に出入りしているようで、時には衣をとられて帰ってきた。
有り金はもちろん王宮からのものであるが、世子はそれを惜しげもなく賭け事に使い、そうしてすった。
翠月はずっと、毎晩深夜遅くまで世子の帰りを待っていたのだが、世子は帰るや翠月の顔も見ずに寝所へ向かう。
翠月が待っていることが心底気に入らないのか、いつも顔をゆがめている。
翠月は思い悩んだ。実際のところを世子に話してしまおうか。それでも、言ったら言ったで世子の機嫌が悪くなるのも目に見えている。
だが、だからといってこのままでいいわけがないことも自覚している。
ああだこうだ考えて、翠月はとうとうその本音をぶつけることにした。
世子が賭場に行きだしてから二週間後のことである。
「世子さま、お話があります」
「……わたしはそなたに話など無い」
「で、ですが世子さま、ずっとこのような生活は……」
「単なる暇つぶしだ。なんだ、わたしは賭場にすら行ってはならぬと?」
ふん、と鼻を鳴らす世子はいつもの穏やかな雰囲気はどこにもない。どこか拗ねた子供のような態度に、翠月は内心で面倒だと思いながらも、世子もまだ十八やそこらだ、子供な部分が垣間見えても致し方のないことだと思いなおす。
「世子さま、わたくし、ずっと言うべきか悩んでいたのですが」
ふうっと深呼吸する翠月に、世子は耳を傾ける。この二週間でだいぶ翠月は疲れた顔になった。無理もない、自分の帰りを深夜遅くまで待っているのだから。
世子は悪いとは思いつつも翠月に心配されるのいも悪くないと、甘えている部分があった。それでもわがままを通そうとしたのは、翠月への信頼の裏返しなのだ。
しかし、こうして改まって話をされるとなると、世子は少だけ不安にもかられた。もしかすると、翠月は王宮に帰るとか、そういう話を切り出すのではないだろうか。もう世子のことは見限って、翠月は自分を捨てて出ていくというのではないか。
そう考えると妙な緊張が世子に走り、少しだけ手に汗がにじんだ。
「わたくし、夏月さまと話す機会がありました」
「……」
予想外の人物の名前が出てきたことで、世子の機嫌がさらにさらに急降下した。緊張からの汗が怒りからのそれに代わっていく。
翠月のもそれは手にとるように分かったが、話を続ける。
「夏月さまが世子さまを目の敵にしていらっしゃるのは……世子さまが王になったとき、夏月さまをその……」
「……私が兄上を暗殺するとでも?」
勘のいい世子は、翠月の言いたいことがすぐにわかった。だからあえて翠月より先に結論を言ってやったのだが、翠月は驚いたように世子を見て、だがしっかりと首を縦に振った。
なんて馬鹿な話を。世子はそう思うも、確かにあの夏月であればそのようなことを考えるに違いないと思う。慕っているのは自分だけで、夏月は実際自分をそのように見ていたのだ。それが悲しく、情けない。
だが実際はこれは、翠月が導き出した答えであって、夏月の考えではない。
翠月は、夏月が世子を邪険に扱う理由を自分なりに考え、導き出し、そうして結論付けた。それを世子に頼むと夏月に勝手に約束して、ずっとずっと言い出せずに悩んだのだ。
そうとは知らず、世子は少しだけ胸がささくれ立つのを感じた。なぜ翠月は夏月をそのように気にかけるのだろうか。
あの夏月のことだ、もしかしたら翠月を脅して自分にこんなことを頼むように言ったのかもしれない。
「わたしは兄上は殺さん」
「……はぁあ、よかった……」
「『よかった』? そなた、わたしが兄上を殺すと思っていたのか?」
「い、いいえ、そのようなことは」
翠月に他意はなかった。世子が夏月を殺すとは思えなかったが、一応、念のため世子に確証が欲しかったのだ。故にこの話題を切り出したのだが、世子はそれが面白くないようだ。
先ほどから握りしめている拳が赤くなり、その様子からも世子が憤慨しているのは明らかである。
「わたしは兄上を暗殺する理由はないし」
「せ、世子さま」
「そなたもそなただ。わたしに隠しごとなど」
だんだんと世子の声が荒くなっていく。顔も険しくなり、世子は普段からは考えられないう剣幕で、翠月を攻め立てた。
「そもそもそなたがそのような態度であるから、わたしはこの屋敷にいたくないのだ」
「そ、そんな……」
「もう顔も見たくない」
「……」
翠月が押し黙り、うつむく。少し言い過ぎたかと思うものの、世子は謝ることはしない。翠月を見おろしたままにふんっと鼻を鳴らす。
翠月はいよいよどうしていいか分からない。この屋敷に帰りたくないのなら、翠月が出ていくほかに方法はない。いやむしろ、今の言いかただと翠月に出て行けと言わんばかりのそれである。
わなわなと体が震えた。自分はやはり、許嫁の役割など果たせそうにない。世子に嫌われてしまっては、翠月がここにい続ける理由もないに等しい。
唇をかみしめる。
「……ます」
「なんだ?」
「わたくし、出ていきます!」
顔を上げる。翠月は目に一杯の涙をこらえて、世子にそう言ってやると、屋敷を飛び出していく。
いきなりのことに世子は翠月について行くことが出来ない。もとより、自分が翠月に言っていしまった言葉のせいで、追いかけることが憚られた。
翠月のことが好きが故の、世子の矜持だった。
「……そなたはどこまで鈍いのだ」
世子の言葉など、翠月には届かない。
勢い余って屋敷を飛び出たのはよかったが、さて翠月は途方に暮れた。どこへ行こう。翠月には行く宛がなかった。
とぼとぼと暗い道を歩く。寝間着のままであったため少しだけ肌寒い。
翠月は目的地もなく足が向くままに歩いていく。暗い道は、だが今日は不思議と怖さを感じない。世子のことで頭がいっぱいだからだろうか。
王宮の月読のもとに行けば、翠月は生涯王宮から出られないだろう。かといって、生家に行くことも気が引けた。
生家を出てからもう翠月は一切生家との連絡を取っていない。許されなかったのだ。
だが、思いとは裏腹に、翠月の足は生家の前まで歩いてきていた。
見慣れた門構えに泣きたくなる。このまま屋敷のなかへと走って、寝ている両親を起こして、そうして再会を喜べたら。そんなことを考えて、やめた。
「どうかしてるわよね……」
それでも、翠月はその欲に敵わなかった。一目でいい、両親の顔を見てから、そのあとで王宮に戻ろう。
そっと門をくぐって、翠月は両親の寝所へと入っていく。まるで泥棒のように忍び足で、翠月はそこに足を踏み入れた。
すうすうと眠る両親に、翠月はその場に座りこむ。涙が出た。
懐かしい両親の顔は、だどこか最後に会った時よりも老けて見える。この数か月どのように過ごしたのだろうか。元気だったのだろうか。自分のことはもう忘れてしまったのだろうか。
はらはらと涙をこぼせば、パチリ、母親の目が開いた。
「翠月……翠月?」
寝ぼけ眼でとらえた我が娘に、母親はすぐさま起き上がると、暗闇のなかではっきりと翠月をとらえて、その両手を握って涙した。
「あなた、起きてください。翠月が、翠月が……!」
そうして母親は翠月の手を握りながらも、隣で眠る父親を大声で呼んで、起こす。父親も初めは何事かと眠い目をこすっていたのだが、翠月を見るや飛び起きて、そうして母親と同じように、翠月の手を握りしめた。温かく大きな手だ。
「あなた、どうしてここに」
「え、ええと、少し用事があり」
「……そうか、世子さまとなにかあったんだね」
「え……? なぜ世子さまのことを……?」
翠月が目をまん丸にすると、父親が母親を横目でぎろりとにらむようにして合図を送る。翠月はふたりのやり取りに気づく様子もなく、ただただ驚きと再会の喜びから涙を流している。
「あなたが世子さまのところにいることは、私たちも聞いていて……」
「……そうなのですね」
翠月が世子の許嫁になったことを、どうやら両親も知っているようだ。それならば話は早い。
翠月は今までのいきさつを両親に事細かに説明する。
「私、世子様の許嫁になって」
「そう」
「でも、世子さまの兄君の夏月さまが、世子さまを恐れていて」
「まあ」
「だから私、世子さまにお願いしました、『王になっても夏月さまを殺さないで』と」
ろうそくをともした部屋で、翠月は泣きながら今の状況を説明した。両親はなにも言わずに、ただただ話を肯定してくれた。それがどれほど心強いことか。
翠月はあらかた泣き終えると、すっきりしたように笑った。
「お父様とお母様に会えて、だいぶ元気が出ました」
「翠月……いや。翠月さま」
全てを聞き終えて、父親が改まった様子で翠月の名前を呼んだ。だがその呼びかたには畏敬の念が見え隠れし、翠月は途端に恐怖にかられた。
なぜ他人行儀な呼び方をするのだろうか。『さま』などと、子供に対してそのような言葉づかい。
「翠月さまはあるべき場所に帰るのです」
「あるべき、場所? それは、ここじゃないの?」
「申し訳ありません。それは私たちの口からはなんとも……」
それはつまり、翠月は世子の許嫁であるがゆえに、もう自分たちのような平民の親のことは忘れろということであろうか。そうとしか考えられない。
もしかすると、翠月はあの日、あの夏の日、尚宮たちに金で買われたのかもしれない。
来るんじゃなかった。翠月は思う。自分の居場所とは、ではどこにあるのだろうか。
翠月は両親の心をおもんばかる余裕がない。世子のところにも帰れない、かといって両親にも拒まれれば、翠月に行く宛などもうなくなった。
だが母親が、父親に少しだけ逆らうように、
「でも、あなた。せっかく来てくれたんだもの、話を聞くことくらい、いいでしょう?」
「……だが」
「あなた、翠月さまは私たちの娘よ?」
「……夜歩きは危ないからな。夜明けまでだ、夜が明けたら、帰ってもらいなさい。わたしはもう寝る。そなたと翠月さまの二人で、話せばよかろう」
そう言って父親は再び布団に潜り込んだ。その瞳から涙がこぼれ落ちたことを、翠月だけは知らない。
翠月は見放されたと思うだろうが、実際は逆だ。両親にものっぴきならぬ事情があった。
翠月を王宮へ送り出したのだって、泣く泣くでの出来事であった。いきなり現れた尚宮たちに、翠月の両親はその瞬間に覚悟を決めたのだ。いや、この十九年間、毎日覚悟して生きてきたのだ。翠月はいつか自分たちのもとから離れていく。盗られてしまう。それがずっと怖かった。十九年間ずっと恐れていた。それがあの日、あの夏の日に起こった。だが翠月の父も母も、翠月には悟られまいと平静を装って翠月を送り出した。翠月の身の上を翠月自身には話さなかった。
翠月は、実の子供ではない。
「それで、陽の宮さまのお話も聞かせてちょうだい。どんなおひとなの?」
「はい、陽の宮さまは、最初はとても横柄なかたかと思ったのですが、本当はとてもお優しくて。そう、どこかでお会いしたかのような親近感がわきました」
「そうなのかい。それから、世子さまはどんなかたなんだい?」
「はい。世子さまはとても聡明な方で……でも少し、子供っぽいところもおありです。それに、なんだか手のかかる弟みたい――って、これは内緒にしてくださいね」
翠月の話を聞いて、母親はふたりの皇子に思いをはせた。それどころか、会ってみたいとさえ思う。どのようなひとなのだろうか、二人の皇子は。
夜通し話せば、もう外には朝日が昇っていた。
一晩中眠れなかった父親が翠月たちの部屋へ入ってくる。
「もう話はいいだろう」
「お父様。はい、私もすっきりしました」
「では、そなたは王宮へ戻れ」
「え……? 世子さまのところではなく?」
「王宮だ」
父親は翠月の前まで来て座り込むと、その小さな手をぎゅうっと握った。
心なしか父親の手は冷たく震えているようにも感じる。なぜだろう。
翠月もまた、父親の手を握り返すが、その手はあっさりと離れてしまう。
「それから、ないとは思うが、世子さまと本当の許嫁になれるとは思わないでください」
「え……?」
「あなた、それは……」
父親の確固たる決意を秘めた瞳に、晴れたはずの翠月の心が再び曇った。なぜ、どうして。
父や母だけは自分の味方でいてくれると思ったのに。なぜ翠月の意見を尊重してくれないのだろうか。
「お父様、私は世子さまを――」
「言うな、その先は言わないでくれ」
「いいえ、言います。私は世子さまをお慕いしています」
「翠月……!」
母親がむせび泣いた。父親もまた、渋い顔をしている。
いったいなにが起きているのか、翠月には分からない。分からないながらも、説明を促すように両親を見つめている。
両親はなにも言わず、ただひたすらに翠月を見ている。
いたたまれない、行き場がない。なぜ王宮に戻れというのだろうか。身分違いな婚姻をさせないためだろうか。きっとそうだ、父も母も、翠月よりも世子――この国の行く末が大切なのだ。
そう思ったら、翠月はもう両親のもとにいられないと思ってしまう。
すくっと立ち上がると、翠月は両親に挨拶もせずに部屋の扉へと歩いていく。扉を開けたところで、両親を振り返りもせずに、
「私、自分の好きなように生きます」
そう、小さな声で言い残し、屋敷を後にした。
結局翠月は世子の屋敷に戻ることにした。謝って許してもらおう。翠月には打算があった、世子は優しい故に、きっと話せばわかってくれるという打算だ。自分でも狡いと思う、世子の優しさに付け込むなど。だが、翠月には行く宛がない、ゆえに、それ以外に方法がなかったのも事実だ。
しかし、もしも世子に許しを得られなかった時には、仕方はないが王宮で生涯を閉じるのも悪くないと思い始めていた。
自分の生き方は自分で決めたい。それがもしも、本意ではない結果になっても、それでも翠月は、世子と生きていきたいと思ったのだ。
でも、夏月は? ふいに浮かんだ顔に、翠月は考えを巡らせた。
このままもしも、翠月が世子とともに暮らし始めたら、夏月はどうなるのだろうか。世子はあくまで世子であるから、王にもしものことがあれば順当に世子が王になる。否応なしに世子は王になる。
それを阻止するために夏月は、きっとあの手この手で世子の命を狙うのではないか。いや、そもそも命を狙うのならば、今の今まで放っておくだろうか。
夏月は世子を疎ましく思いながらも、殺そうとしたことは一度もない。それは何故だろうか。まだ機が熟していないからであろうか、それとも世子の護衛が厳しいからだろうか。
だが、この数か月、世子の周りに護衛がいたことはない。翠月が来てからというもの、王宮のそばめたちはみな、王宮へと返された。それなのに、夏月はなにひとつ手を出してこない。
「なんでかしら……」
分からない。翠月はぶつぶつと独り言をしながら歩いていく。
どのくらい歩いたのだろうか、翠月にもわからない。いつの間にか翠月は世子の屋敷の前まで来ていて、翠月は足取り軽く屋敷の門をくぐった。
「せ、世子さま?」
そうして屋敷に上がって最初に訪れたのは世子の部屋である。だが、そこには世子の影はない。ろうそくもついていないわけだから、この家に世子がいないのは明らかである。
どこへ行ったのだろうか。よもやまた賭場に行ったのではないだろうか。自分の心配などしてくれず、賭場に入り浸っているのでは。
だが、それは次の瞬間払しょくされた。
世子の机の上に、書簡が置いてあったのだ。表には『翠月』の文字。
翠月は慌てて机の前に座ると、その書簡を開いた。
『翠月
私が悪かった。帰ってきてくれたといううことは、わたしを許すということでいいのだな?
入れ違いになったらすまない、私はそなたを探しに行く』
つまり世子は今、自分を探して町中を歩いているということだろうか。
いてもたってもいられなくなり、翠月は書簡を握りしめて立ち上がる。そうして再び屋敷の外に出たところで、一つの影が見えた。
「世子さま!?」
弾んだ声とは裏腹に、影は不機嫌そうな声を漏らした。
「わたしだ」
声の主はすぐにわかった。朝陽に照らし出された姿もそうだが、その声は一度聞いたら忘れられない。
夏月であった。翠月が少しだけ肩を落としたのを見て、夏月はふっと自嘲的に笑った。
「秋月でなくて悪かったな」
「あ、いえ……」
「そなた、心配をかけるのも大概にしろ」
「えーと、何故夏月さまが?」
翠月の問いに、夏月はやれやれと肩を竦めた。
翠月は居心地が悪くなりながらも、夏月の説明を待つ。夏月はひとつ、息を吐き出してから、
「秋月から頼まれてな」
「世子さまから?」
「ああ。わたしのところに来ていないかと使いがよこされた」
「……世子さまが……」
とくりと胸が脈打つ。あの世子が、仕方なしにとはいえ夏月の力をかりに行くなど、どれほどの進歩だろうか。そしてその、弟の頼みを聞き入れた夏月も、以前とは明らかに違う。
少しだけ兄弟の距離が縮んだことに、翠月は感激する。そんな翠月に、夏月は距離を一歩ずつ詰めていく。
「そなた、勘違いをしているようだが」
また一歩。
「わたしは秋月に頼まれたからそなたを探しているのではない」
「……? それでは、何故私を?」
もう一歩。
夏月はとうとう翠月の目の前まで歩み寄り、その場に止まった。翠月は夏月を見上げる。夏月もまた、翠月を見おろしている。
端正な顔つきだ。だけど、どうしてか、世子のような感情を抱けない。どこかなじみのある顔なのだ、夏月の顔は。
「わたしは秋月に頼まれずとも、そなたを探していただろう」
「……世子さまの頼みではないと……?」
「ああ、そうだ、これはわたしの意思だ」
どこか言い訳のようにも聞こえる。
それでも、結果的には世子の頼みを聞いた形にはなる、翠月はそうも思ったのだが、いかんせん、夏月の言い分も正しいと思ってしまう。
夏月は確かに、世子の言うことならば聞かないだろう。やはり、兄弟間の溝は深い。
「秋月はきっとまだ、町じゅうを探し回っているだろうな」
「それでは……私が迎えに行きます」
「そなたはだから考えなしなのだ。今そなたが出ていけば、入れ違いになるのがおちだ」
夏月は冷静だが、翠月は気が気じゃなかった。早く世子に会って謝罪して、そうして自分はずっとここに住みたいと、ずっと世子と一緒にいたいと伝えたい。
それなだというのに、世子は今、どこにいるのだろうか。
「わたしは世子とは違うからな」
「……?」
「わたしは、そなたが生家にいたことも、ここに一番に帰ってくることも、すべて予想内のことだ」
「え……? 何故私が生家にいたことを知っているのですか……」
翠月は心底不思議そうにしているが、夏月からしてみればそれはほんの些細なことなのだ。
夏月はあらかじめ翠月の身の上を調べていた。それは、翠月が世子の弱点となりうるためである。その結果分かったことといえば、翠月は平民の家の出で、その両親は何故だか裕福な暮らしをしていたことである。
最初はそんな成り行きで調べた翠月の生い立ちも、今となっては翠月を知る手がかりの一つである。
翠月が家出をしたとなれば、あの家に行くのは必然であろうと夏月には分かっていたし、生家に行けば、世子が恋しくなりこの屋敷に帰ってくるだろうということも容易に想像できた。
夏月はそれほど、翠月に思いを寄せている。
「翠月」
「なん――?」
夏月の手が、翠月を引き寄せた。その腕の中に抱きしめて、夏月は翠月の首筋に顔を埋めた。
どくどくと心臓の音が翠月に響く。それが翠月自身のものなのか、夏月のものなのかは翠月にもわからない。分からないのだが、妙に胸が騒いで、夏月を拒むこともできなかった。
この感情の名前を、翠月は知らない。
「そなたは」
「……」
「そなたは、それほどまでに秋月を慕っているのか」
かすれた声に、泣きたくなる。夏月とはいったい、どのような人間であったか、翠月にはその輪郭が分からなくなった。このように優しく抱きしめ、すがるような声を振り絞る、弱弱しい人間であっただろうか。
世子に敵対心を露にして、翠月にも冷たく当たる夏月は、今はどこにもいない。
「……はい、私は世子さまを、お慕い、しております」
冷酷だと思う、自分はこんなにも冷酷な人間なのだと、翠月は自身をあざ笑う。
夏月は自分を好いてくれている。なんならきっと、世子よりも自分のことをよく知っている。
先の件だってそうだ、世子は家出した翠月の行き先が全く分からなかったというのに、夏月はまるで簡単にその動向を把握していた。
それは解っているのに、翠月の口は冷たくも、世子への思いを言葉にした。
だが夏月は一切気に留めることはない。
「何故わたしは、生まれながらにすべてを手に入れられないのだろうな」
「夏月さま……?」
弱弱しい声だ、きっとこれが、本来の夏月の姿なのだ。今までのそれは、虚勢を張って強がって、偽りの姿であったに違いない。
思わず翠月の手が夏月の背中に回されそうになるも、翠月はすんでのところで手を止めた。
これが同情なのか、はたまた別のなにかなのか、翠月には判断しかねた。
「そなたに選ばれたい。それだけが今のわたしの願いだというのに」
「……っ」
「そなたが望むのは、秋月なのだな」
悲しい声だ、冷たい声ではない、血の通った声。今まで聞いたことのない、夏月の本心、翠月の目から思わず涙がこぼれ落ちた。
すっと夏月が翠月から離れるも、翠月の目からはとめどなく涙があふれている。
夏月は自分のために涙する翠月を、心底愛おしいと思った。
そして、その涙をぬぐってやろうと翠月に手を伸ばした刹那のことだった。
「翠月!?」
聞こえた声に夏月の手が止まる。
声のほうを見やれば、門をくぐったところに世子の姿が見えた。
世子はすぐさま翠月のもとへ走り寄る。だが翠月が涙していることに気づくと、世子は怒りを露にして、そうして一拍も置くことなく、なんのためらいもなしに、夏月の頬を殴りつけた。
「……!」
夏月の体が右に吹き飛び、夏月はその場にしりもちをつく。
ふうふうと肩で息をする世子は、翠月を背中に隠すようにして立っている。
「いくら兄上とて、翠月を泣かせたことは許さない――」
「せ、世子さま、違うのです」
慌てて翠月が説明しようとするも、世子は聞く耳を持たずに、夏月に馬乗りになっていた。
どうしよう、どうしよう。
おろおろする翠月をよそに、世子は夏月の胸ぐらをつかみ、鬼の形相で見おろしている。
「兄上が翠月に興味を抱いていたことは知っていました。ですがわたしは、翠月を手放す気はございません」
「……はっ、それではまるで、翠月はそなたのものだと言いたげだな」
「ええ、そうです。翠月はわたしの許嫁です」
「下らん。翠月の気持ちを聞いたわけでもあるまいに」
夏月と世子あにらみあうも、やがて世子は夏月の上から退くと、翠月のほうを見る。夏月に後ろ手に、
「私は世子として王宮へ戻る! わたしは絶対に、兄上を許さない!」
恐れていたことが起きてしまう。翠月からさらにさらに涙がこぼれる。
「違うんです、違うんです」と何度も繰り返す翠月に対し、二人の皇子はいがみ合いをやめる気はない。
翠月だけを欲する夏月と、翠月を守るために世子となる決意をした世子の影が、朝日に照らし出されていた。
夏月を屋敷から追い出して、世子は改めて翠月から事の顛末を聞いた。
夏月は翠月を心配してくれたことも、自分が世子とともに暮らしたいと思っていることも。
だがひとつだけ、翠月は世子に隠しごとをした。それは、夏月に抱き締められたことである。夏月に求められたことである。
翠月は後ろめたさを感じるも、その件だけは必死に隠し通した。
隠すとなれば、翠月が何故泣いていたのかの説明がつかなくなる。
「そなた、本当に兄上になにもされていないのだな?」
「はい、ですから、先ほどの言葉は……」
翠月がなにかをされたことは明らかである。なにもなかったのならば何故泣いていたのだろうか。世子は考えるも、思い当たるふしが多すぎて絞り切れない。
夏月のことだ、翠月にまたなにか嫌味を言ったのか、或いは自分との婚姻を反対されたか、それとももしかすると、夏月に言い寄られたのか。
最後の選択肢だけはあってほしくないと思いつつ、世子は翠月の手をぎゅっと握りしめた。
「わたしは王宮に戻る。そして世子となる。そのうえで、そなたを正式に妻にできるように、王さまのお許しを乞うつもりだ」
「せ……世子さま、それは……」
「案ずるな。わたしはなにがあってもそなたを守り抜く」
翠月は言葉に詰まってしまう。よもや、今この瞬間に翠月の頭に浮かんだ人物が、夏月であろうとは口が裂けても言えなかった。
もしも世子が世子として王宮に戻ったのならば、夏月の立場はどうなるのだろうか。王になった暁には、夏月をどうするのだろうか。
その不安を口にすることは結局できず、世子はその日、王宮へ戻る手筈を整えた。
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