第5話 方便

五、方便


 穏やかな時が流れる。

 翠月は相変わらず世子の世話にいそしんでいた。最近は世子もあまり夜更かしをしなくなった。それは紛れもなく翠月のためである。

 もう二度と無理をさせて、風邪をひかせるわけにはいかないと思ったのだ。それに、自身も早寝にしてから調子がいい。

 今朝の朝食は自信作らしく、翠月が「美味しいわ、美味しい」と自画自賛しながら食べている。

「翠月、そなたは食い意地が張っていて男のようだな」

「えっ、ひどいです、世子さま。わたくしはおなごです。れっきとしたおなごです」

「たとえだ。……翠月、顔をこちらへ」

 ハッと笑いながら、世子が手招きをしたものだから、翠月はわけがわからないながらも顔を世子のほうに寄せる。すると世子は翠月の頬についた米粒を摘まみ取ると、自身の口に入れた。

 翠月は赤面して頬に手を宛てて口をハクハクとさせた。

 恥ずかしさと、それから優しくされることに照れてしまったのだ。

 世子はといえば、おのれの無意識な行動に自分でも驚いたのか、バツが悪そうにもごもごと口ごもりながら、コホン、咳ばらいをする。

「そなたは本当に世話の焼ける」

「そ、そんな言いかた!?……わたくしのほうが年上ですのよ?」

「年上、ね……それならば、もっとしっかりしてもらわねば、わたしが困る」

 まるで姉をからかうかのように、世子は言ったのだが、翠月からしてみれば面白くない。

 弟も同然の年下の世子にそのような風に言われては立つ瀬がない。

 一瞬だけそう考えて、翠月は首を横に振った。

 弟だなんて、なにをおこがましいことを考えてしまったのだろうか。世子は一国の国を背負う人物だ、その世子を兄弟のように見るなんて。

 もとより、この気持ちがなんであるのか、翠月には分かりかねていた。兄弟とも友達ともつかないこの関係は、いったいなんだというのだろうか。

 居心地が良くなっていた、いつの間にか世子と二人の生活が尊く楽しいものとなっていた。

 それは世子も同じで、ゆえに翠月との距離感がつかめない。

 最近はもっぱら翠月の動向が気になって、書物を読むふりをして翠月を目で追ってみたり、用もなく翠月の部屋を訪ねてみたりと、自分らしくいられない。

 よもや自分がこのような気持ちを抱くなどと、世子自身も思いもよらなかった。だが、その気持ちを翠月に知られるわけにはいかない。もしも翠月が知ったのならば、きっと翠月は、王命を果たすために自分を王宮へと連れ戻すだろう。

 ……そんなこと、翠月はしない。分かっている。翠月は世子をひとりの人間として尊重してくれている。だが、だからこそ怖いのだ。自分の気持ちを打ち明けて、離れていくのが怖いのだ。世子と平民では釣り合わないと、翠月は常々言っている。それ故に、世子は翠月に踏み込めずにいるのだ。

『世子さま! 世子さま!』

 朝食を済ませ、翠月は皿洗いに、世子は書物を読み始めたころ、屋敷の外に男の声が聞こえた。世子の内官である。聞き覚えのある声に、世子は何事かと立ち上がると、庭先に出る。

 内官は慌てた様子で、息も絶え絶えに世子のあしもととまで来ると、ひいひい言いながら、世子に礼をして、言葉を発する。

「王さまがお倒れになりました」

「な……?」

 そこに皿洗いをしていた翠月も顔を出す。サッと青ざめた世子の顔を見て、翠月もただ事ではないと察する。

「世子さま、いかがいたしましたか?」

「父上が、倒れられた。……わたしは今すぐ王宮に行く故、留守は頼んだ!」

 それだけ言い残すと、世子は翠月を置いて屋敷を走り出た。

 内官は走り出す世子を追いかけるが、全く追い付けそうになかった。それほど世子は血相を変えて全速力で走っていたし、焦っていたのだ。


 走って走って、世子はようよう王宮についた。住み慣れたそこは世子にとってみれば庭のようなものである。

 門番は世子を見ると、恭しく頭を下げて、そうして世子は門をくぐる。門をくぐって正面の宮殿が王の居所である。

 世子はそこめがけてまっしぐらに走り、バタン! とその扉をあけ放つ。

「なんだ、どうした?」

 だが、そこにいた王は、想像していたよりもずっと明るい声で、世子の来訪をキョトンと見ていた。

 倒れたと聞いたが、それは嘘か早とちりであったのだろうか。

 だが確かに、王の隣には御医がいる。

 世子はゆっくりと王のもとへと歩いていき、そうしてその場に手を組んで、礼をした。

 王は血相を変える世子を見て、ははん、とうなった。

「そなた、よもや内官に騙されたか」

「え……」

「わたしは大事ない。ただ石に躓き転びはしたが」

「……は、はぁ、よかった……」

 気が抜けたのか、世子はその場に尻をついた。今更になって走った疲労が体を襲い、世子はもう一歩も動けそうにない。

 よくよく見れば、王のそばには王妃もいて、世子はそれに気づくと慌てて姿勢を正して、王妃にも挨拶をした。

「母上。だらしない姿をお見せしてしまい申し訳ありません」

 礼をした後、世子はその場に立ち上がった。膝が震えている。

 いまだ疲労困憊の世子を見て、王も王妃も顔を見合わせて笑った。

「そなたは親孝行な息子だ」

「ええ、王さまをかように案じて走ってくるなど」

 王も王妃も自分の息子をほめたたえるが、だが世子がここに来たのは紛れもなく内官の早とちりの賜物である。

 内官は王が倒れたと世子に報告したが、きっとあれは内官自身も人づてに話を聞いたのだろう、ゆえにことが大きくなって世子に届いた。

 世子までもが無性におかしくなって、笑ってしまう。

「とにもかくにも、ご無事でなによりでした」

「ああ。ときに世子」

「はい、父上」

 よい機会だ、と言いたげに、王は布団の上に座りながら、世子をまっすぐに見据えた。世子はその場に座って、王の話に耳を傾ける。王妃もまた、王の言葉に耳を向けている。

「翠月、という娘とは、うまくいっておるのか」

「はい、父上。とても気さくな娘故」

「はは、そうではない。許嫁としてどうだと聞いておるのだ」

 その言葉を聞いた瞬間、王妃の顔が曇るのが分かった。

 それは世子も気づいたのだが、王妃が気分を害する理由が分からない。王の誕生日を祝う宴会の席で、王妃はたいそう翠月を気に入っていた。

 王妃のお気に入りの庭に案内するほどであったから、王妃は今も翠月に好感を寄せているとばかり思っていたのだが、そうでもないようだ。

 王妃は世子が答えるより先に、王に向かって、

「王さま。あの娘は平民故……それに、あの娘は」

「ああ、分かっている。世子、そなたにはまだ話していなかったが、あの娘は星読みが使わせた娘だ」

 どうやらつまり、翠月が星読みの占いにより選出された娘であり、世子を王宮につなぎとめる責を担って寄こされた人間であると説明したいようだ。

 だがそれは、世子も知っている。なんなら、翠月が世子のもとに来たあの日のうちに、翠月からその話は聞いていた。

 世子は、にこりと笑みを携える。

「すべて知っております」

「なんと、知っていたのか」

「はい。……それでもわたしは、王宮には戻りません。ですが、翠月と離れることもしとうございません」

 世子の目に宿る決意の色に、王は嬉しそうに笑うも、そばにいる王妃の顔は穏やかではない。

 今一度、世子に釘を刺すように、

「世子。世子嬪はわたくしが改めて探す故、あの娘は……」

「母上、なにゆえ翠月を拒むのですか? かように気に入られておいででしたのに」

「……話が変わったのだ。世子、王宮に戻ることはまだ先でよい。だが、あの娘と暮らすのはもうやめなさい」

 王妃のかたくなな態度に世子は首をかしげるも、世子とてそのように頭ごなしに反対されると、余計に手放したくないと思ってしまう。

 世子は頑として首を縦に振らない。王妃はだんだんと不安と怒りが湧いてきて、その場に立ち上がる。

「世子! 聞き分けなさい!」

 王妃が怒鳴りつけたため、さしもの世子も驚くばかりだ。王でさえ驚きなにも言えないようで、何事かと女官も内官までもが目を丸くしている。

 王妃がこのように取り乱すところを、世子はもちろん王も見たことがなかった。それだけにこの衝撃は大きく、世子は小さく「分かりました」と返事をするほかになかった。

 本当はなに一つ聞き分けてなどいない、あとで冷静になったときに王妃を説得しようと世子は思った。

 自分が世子の座を降りることも、あの屋敷で翠月とともに暮らしたいということも。

 だが、王妃にも世子の考えは筒抜けである。どうやって世子を説得するべきか、王妃は悩んだ。悩んで悩んで、明らかに王妃の顔に怒気が見えた。

 普段温厚で優しい王妃がこれほどまでに悩むとなれば、王も翠月の件について考え直さざるを得ない。

 王はため息交じりに、

「世子。王妃が反対するとなれば、わたしも考えを改めることにする」

「王さま、ですが先ほどは」

「いいか、世子。そなたの婚姻ははかりごとである。そなたの一存では決められぬこともある」

 確かに、この国の跡目の婚姻を、星読みの選んだ娘に決めるのはいささか安直である。だが、それを承知で王は翠月を自分のもとによこしたのではなかったのか。

 世子は明確に疑問を抱くも、王に逆らえるわけもない。

「今日は王妃の顔を立てて、もう帰りなさい」

「……分かり、ました。ですがわたしは、翠月を手放すつもりはありません故」

 世子は最後にそう言い残し、王の居所から出ていった。

 世子が出ていった部屋で王妃が王に縋りついて泣きながら、翠月だけはだめだと何度も懇願している声が、世子の耳にもよく聞こえた。


 沈んだ気持ちで王宮を歩く世子に、一人の女が話しかけた。

「世子さま」

 呼ばれて振り返ると、見慣れぬ女に、世子は首を傾げた。このような知り合い、居ただろうか。

 だが女は恭しく頭を下げて世子に挨拶をすると、にこりと微笑んだ。貼り付けたような笑みに、世子は思わず身構えるも、女は世子に一歩にじり寄る。

「私は月読と申します。この宮殿の星読みです」

「星読み……すると、ああ、翠月を私のもとに送った星読みか?」

「さすが世子さま、お察しの通り、私の星読みの結果、翠月を世子さまのもとへ送りました。翠月はちゃんとやっているでしょうか」

 月読は相変わらず笑みを絶やさない。だが、世子はそれが少し苦手だと思ってしまった。思ったが、邪険には出来ない。月読は、翠月に色々な王宮の作法を仕込んだ師匠なのだと、翠月から聞いていたからだ。

 翠月の知り合いは自分の知り合いも同然だ。

「はい、料理に洗濯に、とても気の利く娘です」

「そうか、そうか……」

 月読はうわごとのように呟いて、うんうんと頷くも、次には笑みをすっと消して、世子を見た。

「翠月は、世子さまがここ王宮に戻らなければ、生涯許嫁として王宮で飼い殺しにされます」

「それはわたしも聞いている。だがわたしは、王宮に戻るつもりはない」

「それで、世子さまは翠月の身を引き取ると?」

「……! そなたにはなんでも筒抜けなのだな。そうだ、わたしは翠月とともにあの屋敷で、ずっと暮らしたいと思っている」

 あの簡素な屋敷でずっと。翠月と婚礼を上げて、平民として暮らすのも悪くない。世子はそう考えていたのだが、月読はそれをあざ笑った。

 世子の前で笑うなどと、普通の人間であればそのようなことは出来ない。だが、月読はそれをした。ゾッとする、世子は月読の雰囲気に圧倒された。

 ジリジリと後ずさって距離を取るも、月読もまた、世子に向かってにじり寄るため、ふたりの距離は開かない。

「世子さま、ひとつ忠告差し上げます」

「な、んだ」

「はい。翠月と世子さまは結ばれることはありません」

 まるで世子の心のうちを見透かしてあざ笑うかのように、月読ははっきりとそう言ったのだ。

 世子は憤慨するより先に、強い疑問に襲われた。なぜだ、なんで、どうして。

「それは、星読みゆえの忠告か?」

 存外冷静に口を開く世子に、月読は感心してしまう。健気だ、とも思う。だが、現実を突きつけるのをやめることはない。

「いいえ、世子さま。これは世のことわりに従った答えです」

「世のことわり?」

「わたしはただ、あるべきものをあるべき場所に帰すだけです」

 つまり、平民と王族では釣り合わないと言いたいのだろうか。王族はどうあがいても王族、世子は王宮に帰ってしかるべきだと言いたいのだろうか。世子には月読の真意が分からない。分からないから、恐怖を感じた。 

 立ち尽くす世子をよそに、月読はフッと笑いを漏らすと、世子の前から離れていく。

 王宮の奥へと消えゆく月読の背中を見ながら、世子はようやく生きた心地がした。まるで蛇ににらまれた蛙のように、息をすることすらままならなかったのだ。

 月読、翠月を己のもとへ寄こした星読み。彼女は一体なにが目的なのだろうか。

 世子にはついぞ月読の考えが分からなかった。


 一方そのころ、翠月のもとに一人の来客があった。

「あの、えーと」

 それが、かの夏月であったことに翠月は動揺してしまい、屋敷に上げたもののどうもてなせばいいのかわからなかった。

 朝食を済ませ、世子が王宮へ走ったのと同時に、夏月が翠月のもとを訪ねてきたのだ。まるで見計らったかのように現れた夏月に、翠月は手をこまねいていた。

「そなた、もてなしの茶すら用意できぬのか」

「あ、あ。そうですね、少々お待ちください」

 急かされて、翠月はようよう立ち上がるも、その手を夏月が握ったため、立ち上がろうとした体は再びその場に尻をついた。

 なにか用だろうか、と翠月は夏月を見るも、夏月はなにも言わずにただじいっと翠月を見ている。

「そなた、ここの生活にも慣れたようだな」

「え? ええ、それは……もうずいぶん時が経ちましたし」

 翠月が素直に答えると、夏月は面白くなさそうに顔をゆがめた。

 翠月が世子と仲睦まじくここで暮らしていることは知っている、何故なら夏月は時おりこの屋敷に偵察を送って、それを事細かに報告させているからだ。

 なにも翠月が気になるからではない、夏月はずっと、世子の動向を見張ってきた。

 世子が自分に牙をむこうものならば、即刻返り討ちにして、そうしてやがて自分が世子の座につければ、そう思ってずっと世子を見張っていたのだ。

 だが最近は、その限りではなくなっていた。世子のみならず翠月のことも細かに報告させて、そうして夏月は、翠月のことをより一層深く知りたいと思うようになった。

 この気持ちは紛れもなく恋慕だ、夏月自身は気づいていないだけで、夏月は翠月に心を寄せている。

 今日だって、夏月は王の件を知って、わざわざ世子がいなくなるこの時間を狙って翠を訪ねた。

 翠月には、「秋月の様子を見に来た」とたいそうな嘘を言って。

「でも、夏月さまも世子さまが気になるのですね」

「は……?」

「え? だって、世子さまに会いにいらしたのでしょう? あいにく今は出かけておりますが、しばらくしたら帰ると思いますので」

 相変わらず翠月は的外れなことを言う女だと思う。夏月は呆れたようにため息を吐く。仕方なしに、夏月は先ほどの嘘を撤回する。

「秋月の様子を見に来たというのは嘘だ」

「え……?」

「秋月は王のもとへ行った故、そうそう早くは戻るまい」

「え、何故それを知っているのですか」

「……そなたはつくづく目出度いな」

 それは初めて会った日にも同じことを言われた。翠月は首をかしげるも、夏月はなにも言わない。

 初めて会ったあの日、夏月は王家のみが持つことを許される「龍の扇子」を広げて見せた。町の人々もそれに気づきざわめいたものだが、翠月はまるで驚かなかった。きっと知らないのだ、王家の扇子のことを。

 だとしても、あの時からして明らかに翠月は男勝りな性格であった。みずしらずとはいえ両班に向かってあのような態度をとれば、普通ならばなんらかの罰を受けていただろう。夏月がそれをしなかったのは、ことを大きくしたくなかったからである。

 夏月は王宮での地位は低い。第一皇子であるのに、その権限は実質ほぼ与えられていない。

 その夏月が町中で、しかも平民との間に問題を起こしたとなれば、余計に風当たりが強くなってしまう。故に夏月は、翠月になんの罰も与えなかった。いや、与えられなかったのだ。

「夏月さま、は、その」

「なんだ」

「はい。世子さまを、……疎んじているのですか」

 なにを分かり切ったことを。夏月はそう言おうとしたのだが、それより先に、夏月の腹がきゅるる、と鳴いた。

 腹の虫など今まで鳴いたことなどなかった。夏月にとって食欲とは、あってないようなものであった。

 毎日世子への憎しみに明け暮れる夏月は、空腹など感じたことがない。ずっと張り詰めた緊張感のせいで、腹が減ったと感じたことがなかったのだ。

 それが、なぜ今、腹の虫が泣くのだろうか。

「ふっ」

「なっ、そなた、笑ったな」

「だ、だって、夏月さま……ふふ」

 急に恥ずかしくなって、夏月は口を一文字に結んだ。なぜこのおなごのまえでは自分らしくいられないのだろうか。そんな自分が恨めしい。

 だが、翠月はさほどそれを気にしていないようで、すくっと立ち上がると、「少々お待ちくださいね」と部屋を後にする。

 ひとり残された夏月は、いたたまれないくなり頭を抱えた。

 ずっと独りで生きてきた夏月にとって、このようなぬくい空間は戸惑いの他になにもない。

 その反面、この空間を手放したくないとさえ思っているものだから、自分はいよいよおかしくなったのだと思う。

 ああだこうだと葛藤していれば、翠月が戻ってくる。手には膳を持っており、その上にはたいそう豪勢な料理が並んでいた。

 翠月はそれを夏月の前に置くと、自身はその向かい側に座り込んだ。

「お腹、空いているのでしょう?」

「誰が施しなど……」

 ぐうう、と再び夏月の腹の虫が鳴いた。

 料理を目の前にするとどうしても腹の虫が主張を強める。かぐわしい匂いときれいに盛り付けられた食事は、宮殿の宴席のものに近しいものがある。

 世子は毎日このようなものを食べているのかと思うと、膳をひっくり返したい衝動に駆られるも、翠月がいる手前それは出来ない。

 翠月が悲しむ顔を見るのは本意ではないのだ。

 例えばこの料理が世子のためではなく自分のために作られたものであったのならば、どれほど嬉しかっただろうか。

 ハッとする。今自分は、なにを考えた。

 喜ぶ、嬉しいという感情など、とうの昔に捨てたはずだった。

 翠月とて、単なる世子の許嫁ゆえに、自分のものにしたかった。世子にはなにひとつ劣りたくなかった。世子のものをすべて奪い取りたかった。

 だがそれとは別に、翠月に抱く感情は、この感情は別のものなのだ。

 単純に、翠月という人間に興味がわいた。ただそれだけなのだ。

「はは、目出度いな、わたしは」

「ええ、どうかしたのですか、夏月さま」

「いや、なんでも」

 夏月は自嘲しながらも、翠月が持ってきた料理に箸をつける。

 冷めきってはいたものの、程よい味付けでどれも美味い。だが、魚の煮つけはやや甘いと感じた。

「甘いでしょう?」

 煮魚を食べる夏月を見て、翠月が甘やかに笑った。夏月はすべてを悟った。今翠月は、世子のことを考えている。

 そう言われてみれば、世子は甘めの煮魚が好きであった。翠月はそれを知っていて、この煮魚を作ったのだ。甘すぎる味付けは世子のためのものである。

 はらわたが煮えくり返る。

「不味いな、甘すぎて」

「そうですよね。私もやはり、甘すぎかなと思います」

 不快な気分は一瞬で消えた。翠月の笑みが、今度は夏月に向けられたからだ。

 翠月は夏月を疎んじたりしない。ひとりの皇子として、人間として見てくれる。

 それがむずがゆもあり、嬉しくもある。自分は本当にどうしてしまったのだろうか。

 誤魔化すように、夏月はパクパクと食事を口に運んだ。甘すぎる煮魚も、程よい塩梅の漬物も、粥も干し肉も、味などわかりやしなかった。


 ゆっくりとした食事など、思えば生まれて初めてかもしれない。

 王宮にいるときはひとりの食事が心底嫌で、適当に数品をかきこんで、あとはすべて捨てさせた。

 たまに自身で狩りに出向き、獲った獲物を捌いて食べることもあったが、自分で作る料理はなんとも味気なかった。

 それなのに、他人の作った料理がこんなにもうまいものだとは思わなかった。

「お腹は膨れましたか?」

「……不味くとも膨れるものだな」

「もう、夏月さまって減らず口ですよね」

「そういうそなたは、怖いもの知らずだな」

 夏月にこのように気やすく話してくるものなど、翠月のほかに夏月は知らない。故にどんな風に話せばいいのか、どんなことを話せばいいのか、全く分からないのだ。

 幼いころから友も学友もいなかった。『あいつは第一皇子なのに世子になれなかった』後ろ指さされながら、そう、生きてきた夏月は、歳を重ねるにつれて性格が歪んでいった。歪まざるを得なかったのだ。 

 自分の心を保つために、殻に閉じこもって、そうして世子を目の敵にして、そうしなければやっていられなかったのだ。

 孤独は人の心を簡単に殺す。

「そういえば、夏月さまは王さまのもとへ行かないのですか?」

「ああ、王さまはお元気だからな」

「え……? 倒れられたとお聞きしましたが」

「ああ、あれは内官の早とちりだ。石に躓き転んだだけだそうだ」

 夏月は誰より先に王の身を案じてそこにはせ参じていたが、門前払いされたのだ。

 そこから世子が出かけたこの屋敷に足を向ける流れとなった。世子のことだ、王宮から呼び出されれば急いで王宮に走ることは明らかであった。そして、王宮に来てしまえばしばらくは、世子は王や王妃のもとに引き留められて、話をすることになるのも目に見えていた。

 だから夏月は翠月を訪ねたのだが、翠月がそれを知ることはない。

「そなた、今の生活は楽しいか」

 なにを聞いているのだろうか。出し抜けに。自分は可笑しい、もうだいぶ前からおかしい。

「はい、楽しいです」

 ふわりとほころんだ翠月の顔に、夏月は全てを悟る。翠月はここの暮らしをいとおしく思っている、世子のことを大事に想っている。

 無所に腹が立つ、悔しささえ。

 夏月は翠月の手をとると、その目をまっすぐに見据えた。

「そなたは以前、わたしと秋月、どちらも選ばぬと言ったな」

「……はい」

 なんとなく翠月にも夏月の言いたいことが分かったようで、その声が小さくしぼんでいるのが分かる。だが夏月は容赦なく続けた。

「今は秋月とわたし、どちらを選ぶ?」

「……!」

 即答できなかった。だがそれが答えだ。

 翠月は今の生活を手放したくない。世子とようやく打ち解けてきたこの生活が、いつの間にか愛おしいものへと変わっていた。

 だが反面、翠月はこれではいけないとも思う。このままでは自分は世子を王宮に戻すための駒に、本当にその役割を果たしてしまうかもしれない。

 もし万が一、翠月になにか不利な条件を突き付けられたとき、自分は世子を王宮に戻るように説得してしまいそうな気がして、翠月はいたたまれなかった。

 世子も最近は翠月に心を許してくれていたし、ゆえにもしも翠月が説得をしたのならば、世子はもしかすると王宮に戻る決意をしてくれるかもしれない。

 だがそれだけはしたくない。

 世子の自由を奪うことは、したくなかった。翠月は自由に生きる世子が好きだ。毎日兄弟のように他愛ない話をして笑いあうのが好きだ。

 それを、自らの手で手放すことだけはしたくなかった。もとより、世子の自由を奪いたくない、ぜったいに。

「すぐに答えぬということは、それが答えだな」

「いえ……私はただ」

「ただ?」

 この期に及んで言い訳を探す翠月が憎らしい。いっそこの場で殺してしまって、自分だけのものにしてしまおうか。

 昔の夏月ならばそのようなことを考えたあだろうが、今の夏月は違う。ただただ憂いた。自分を選ばない翠月が、憎らしくもあり、だが翠月らしいとも思う。

 嘘をつけない性格故に、翠月の気持ちはすぐにわかった。そもそも、はなから自分は誰かに選ばれるような人間でないことも分かっている。

 昔からそうだ、夏月はなにも持たない、望んだものはなにひとつ手に入らない、そういう星のもとに生まれてきた。

 だから今更、翠月が世子を選ぼうと、落胆などするはずがない。そんなわけが。

「私は……世子さまの許嫁としてここにいます、ので」

 たどたどしい答えだが、やはり翠月らしい。

 夏月を気遣っての言葉でもあるし、自分を偽る言葉でもある。本当に嘘が下手だ、翠月は。

 翠月はおずおすと夏月を見る。その瞳の奥に憂いの色が垣間見えて、翠月の胸がきゅっと締め付けられた。

 なんでだろうか、夏月とはよき友のような関係で、それなのに先ほどの言葉はまるで、夏月が自分を好いているようなそれだった。

 まさか、そんな。

「夏月さま、は」

「……戯言だ。いくらわたしが世子の座を狙っているとはいえ、そなたの心まで欲しいなどと思うわけがあるまい。そなたのようなおなごなど」

「あ、はい……そうですよね」

 先ほど夏月の瞳に見えた憂いの色は、見間違いであったのだろうか。翠月は顔をうつむかせ、もじもじと両手を合わせる。どうしていいのか分からずに黙り込めば、夏月が立ち上がり、部屋を出ていく。

 扉を開けて、後ろ手に、

「今日、わたしがここに来たことは、秋月には言うな」

「……はい」

「……馳走になったな」

「……え?」

 聞き間違いかと、翠月は顔を上げて夏月のほうを見やるが、もうすでに扉が締まっており、夏月の姿は見えなくなっていた。

 いったいなにを考えているのか、まるで分らない。

 分からないながらも、なんとなく、翠月は夏月の人生を思う。

 夏月が王宮でどのような扱いを受けてきたのか、世子伝手には聞いていたが、だが実際の夏月はどこか悲しそうで、いつもなにかにおびえている。

 世子が王になった暁には夏月はどうなってしまうのだろうか。

「あ、私……」

 まだ世子に夏月のことを話していなかった。もしも世子が王になっても、夏月を殺さないでくれと、そういう話をすると夏月に約束していた。それを今、思い出した。

 すっぽりと抜け落ちていた約束を、何度も何度も心の中で反復する。絶対に今度は忘れぬようにと、翠月はひとり、その言葉を繰り返した。





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