第4話 宴席にて

四、宴席にて


 いつも通りの日常が戻り、ホッと息をつくのは世子よりも翠月のほうであった。

 王宮暮らしはしょうにあわない、翠月はそれをまざまざと認識させられた。

 朝は女官が起こしに来るまで起きてはならないし、朝食も女官が持ってくるものしか食べられない。食前には補薬を飲まなければならなかったし、着替えだって女官にすべてを任せなければならなかった。

 女官は翠月の身の回りの世話をすべてやった。掃除や洗濯だってそうだ、なにひとつ翠月の自由にはならなかった。

 こんな暮らしならば、世子が王宮を出ていくのも頷けた。

 たがひとつ、気になる点があった。それは、世子が思いの外王宮の暮らしに順応していることだ。

 世子は普段この簡素な屋敷に住んでいる。それはまさしく、王への反発、王宮のしきたりへの反抗だと翠月は思っていたのだが、どうやら世子は、王宮の暮らし自体には不満はないようである。

 ひと月の王宮生活のなかで、翠月は世子がことのほか王宮に順応していることを知った。

 王に王妃に呼ばれれば素直に馳せ参じるし、内官の世話になることになんら抵抗はないようだった。

 自由気ままな暮らしとはほど遠い王宮の生活に、慣れている感じがしたのだ。

「やはりここは落ち着くな」

「世子さまったら。かように王宮の生活に馴染んでいましたのに」

「馴染む? まさか。あそこは窮屈だ」

 そうは言いながらも、実際に世子はあそこで生活してもなんら不自由しないのだろう、と翠月は思った。

 もとより、聞いた話では翠月が夏風邪を引いた際に、世子は町人に騙され、金をふんだくられ、そしてやぶ医者を紹介されたのだとか。しかも金をすりにあって、その結果医院にかかれずに翠月を王宮の御医につれていった。

 あまりにも世間を知らなすぎる。やはり世子は、世子なのだ。平民の暮らしに明らかに馴染めていない。

「世子さまは、いつからこちらにお住まいなのですか?」

「翠月。また呼び方が『世子』になっている」

「あっ、申し訳ありません。秋月さま」

 世子は言い直す翠月に、うむ、と頷きながら、

「今年に入ってからだ」

「え……今年?」

「なんだその、間の抜けた顔は」

「あ、いえ。でも……」

 そう言われれば、納得である。世子は世間知らずだ。そもそも翠月がここに来るまでは、内官や女官が世子の世話をしていた。

 それは、王宮で暮らすのと変わらない日常であったはずだ。場所が変わっただけで、実質王宮にいるのと変わらない毎日。

 だが翠月は、それを世子に言うことはしない。どんな形にせよ、世子は自分を変えようとしている。ならば自分は、それを否定するようなことはしたくない。

「大きな一歩ですね」

「そなた、乳母のようなことを言うな」

「乳母……? わたくし、そんなに更けていませんことよ」

 他愛ない話をするのが、心底楽しい。

 翠月は、この生活に慣れつつあった。世子とふたりで過ごす、許嫁としての日常に。


 だが、再び翠月が王宮を訪れたのは、それからひと月経つか経たないかといった頃である。

 その日は王さまの誕生日の宴会が開かれるとのことで、翠月ともども王宮へ招待されていたのだ。

 本当なら、翠月は断りたかったのだが、王直々の招待ともなれば、断れるはずもなかった。

 仕立てたばかりの真新しい余所行きの絹の衣を身にまとい、翠月は輿に揺られて再び王宮の地を踏みしめた。

 妙に緊張する。

「翠月、わたしの側から離れるな」

「は、はい……でもわたくしが、本当に王さまにお目にかかってよいのでしょうか」

「……王さまがお会いしたがっているゆえ、心配は無用だ」

 なぜ王が翠月に会いたがるのか、翠月には分からない。

 一方で世子は、王が翠月に興味を持った理由を知っている。なんなら、その原因を作ったのは世子自身である。

 翠月を王宮で養生させていた頃、世子は度々王のもとへと訪れた。そしてその際、世子は翠月の話を王に話した。何度も、いくらでも。

 あまりに世子が翠月を気に入っているため、王もまた、翠月に興味を持った。その流れで、本日翠月は宴会に呼ばれたのだ。

 口が裂けても言えない。世子のせいで翠月にとばっちりがいったなどと。

「うわあ」

 だが、悪いことばかりではなかったようだ。

 宴会の席に並ぶごちそうを見て、翠月が感嘆の声をあげた。

 月読から王宮の料理は習ったものの、本物の宮廷料理はきらきらとまばゆく、とても芳しいにおいがした。

 見たこともない食材と料理に、翠月の腹がぐう、と鳴った。

「ふっ」

「せ、世子さま、笑いましたね」

「いや。そなたは子供のようだな」

「むぅ。わたくしのほうが歳上ですよ?」

 馳走の膳の前に座りながら、翠月は世子を横目でにらむ。

 世子はまた笑いを漏らすと、膳から料理を取り分けて、翠月に渡す。

「宴会は長いゆえ、ひとまず食べなさい」

「でも」

「大丈夫だから」

 好奇心と、それから腹の虫には敵わず、翠月は渡された皿を受け取って、そうして箸を右手に、料理を口に運ぶ。

「美味し……」

「そうか? わたしはそなたの料理のほうが――」

 世子は言葉途中で口をつぐんだ。どうやら翠月は料理に夢中で聞いていないようで、世子はホッとした。

 だが反面、胸がモヤモヤした。

 確かに翠月の料理はうまいが、宮廷料理と比べるまでもない。そのはずなのに、自分は今さっき、なにを言いかけたのだろうか。

 宴会は始まったばかりだ。世子は自身もまた料理に箸をつける。やはり、翠月の料理のほうがうまいと思った。


 モクモクと料理に舌鼓を打つ翠月をよそに、世子は王や王妃に挨拶しに席を離れている。

 翠月は放っておかれるのももう慣れっこで、一人で淡々と料理を口に運んでいた。

 この料理はどう作るのだろう、これは世子さまが好きそうだわ。そんなことを思いながら、翠月はいろいろな料理を食べている。

 そのあまりの食べっぷりにか、ひとりの内官が翠月の元まで歩いてくる。そうして翠月をまじまじと見おろして、怪訝な目を向けてくる。

 さしもの翠月もいたたまれなくなり、料理を食べる手を止めた。自分はなにか粗相をしたのだろうか。

「あ、あの、わたくし」

「失礼ですが、あなたがたはどちら様――」

 内官の鋭い言葉と視線が翠月を射抜くかというとき、それに気づいた世子がさっと翠月と内官の間に割って入り、世子は翠月を庇うよに背中に隠した。

「わたしの連れだ」

「せ、世子さま。そうとは知らずに失礼なことを……」

「いい。そなたも仕事であるのは分かっている」

 もとより、自分が翠月のもとから離れたのが間違いであったと、世子は内心で猛省した。

 いくら翠月が許嫁だとはいえ、それは内密にされているようで、翠月の存在を知る人物はそう多くはない。

 この宴席で翠月の正体を知るものは、王と世子と夏月と、それから月読くらいであろう。

 世子は翠月の隣の席に腰かけて、おろおろとする翠月を見てはあっとため息を吐いた。

 さすがに翠月も世子に気を使わせてしまったことに気づいているようで、「申し訳ありません」とおずおずと世子を見ている。

 世子は「よい」と言いつつも、なんて世話の焼ける人だと内心で思っている。だが、その反面、自分が守らねばという妙な責任感にも駆られているのは何故だろうか。

「世子さま、宮廷料理はどれもおいしゅうございます」

「それはよかったな」

「わ、わたくし、帰ったら色々と作って差し上げますね」

「……はあ」

 健気だと思う。自分のためにと王宮の料理を必死に味見して、研究して覚えて、そうしてあの簡素な屋敷に帰ってからも、世子のためにこのような豪勢な料理を作ってみせると言っているのだ。

 どこまでもお人好しで、だがそこが翠月のいいところだとも思う。

 ハッとする。

 なにを和んでいるのだろうか、翠月の存在に、心穏やかになっている自分に気づいて、世子は頭がくらくらした。

「世子さま?」

「あ、ああ。なんだ」

「顔色が優れないので……」

「なんでもない、なんでも」

 本当は大いに問題がある。

 にわかに信じがたいことではあるが、世子もまた、翠月に心を許しつつあるということだ。こんなことになるのならば、あの屋敷で一緒に暮らすことを許可するべきではなかった。このままでは、王さまの思惑通り、自分は翠月によって王宮に連れ戻されてしまうのではないか。

 いや、断じてそれだけは阻止してみせる。いくら翠月が大事だからと、自分の人生は自分のものである。

 翠月には悪いと思いつつ、世子は決意を新たにした。翠月とは適度な距離を取って、そうしていつか自分が王さまを説得して、翠月を自由の身にしてやろう。


 世子が翠月と仲睦まじく話をしているのが、ふと王妃の目に留まった。

 あの世子が穏やかな顔でおなごと話していることに驚き、王妃は興味本位で世子と翠月のもとへと歩く。

 王妃に続いて女官たちがずらずらと並び歩くさまは、さすが王妃といったところである。

 その行列が翠月の目の前で止まるものだから、翠月はぎょっとしてその場に立ち上がった。

 疎い翠月でもわかる、このかたが王妃に他ならないのだ。

 まず衣が王家のそれであったし、雰囲気も品があって、柔らかな笑みは国母そのもの。

 翠月はその場に手を組んで礼をする。そうして顔を上げた翠月を見て、王妃は目をまん丸にした。

「そなた、わたくしに似ているのだな」

 翠月の顔は、王妃の面影がある。確かに並んでみると二人はどこか似た雰囲気を持ち合わせているのだが、だがそれはきっと、本人たち同士にしかわかり得ないことである。なにしろ実の息子である世子も、あの夏月でさえも、王妃と翠月が似ているなどと考えたことはなかったのだ。

 だが、翠月には分かる、どことなく近しいものを感じていたのだ。

「そなたが世子の許嫁か」

「は、はい」

「そうか、世子からはよく話を聞いている」

「よく?」

 嫌な予感がして、翠月は世子に説明を求める。じろりと世子を見やれば、世子は何食わぬ顔で、

「食欲旺盛で男勝り。言いたいことはなんでも言う、自立したおなごだと、話した」

 さらりとそんなことを言った。

 翠月は世子にジト目を向ける。その言葉の殆どが悪口にしか聞こえなかったからだ。だが世子は涼しい顔で、王妃など横目に料理を堪能しているようだ。

 王妃はふたりのやり取りに噴き出してしまい、翠月は目をまん丸にして王妃を見ることしか出来なかった。

 笑うと余計に自分に似ている。

 笑うときに細くなる瞳も、口元も、自分にそっくりだと思ったのだ。

「そなた、少し話をしないか」

「あ、え? わたくしが、ですか?」

「ええ。宮殿の庭に、きれいな花があるのだ。そこにどうしても案内したい」

 そのような申し出、断れるわけがなかった。

 なにしろ翠月はただの平民で、本来ならばこの場にいることすらおこがましい存在なのだ。それを、王妃様の申し出を断ることなど出来るはずもない。

 翠月は席を離れ、王妃のあとについて歩く。

 王妃、翠月、そして女官の大行列が、宴会の席から外へと歩いてくさまを、王も、世子も、夏月も。それぞれの思いを抱きながら見送っていた。


 案内された庭には、たくさんの草花が咲いていた。人工の池や川もある、そして橋も。その橋の上で王妃は翠月を振り返った。

 王妃が歩くといいにおいが道を作って、翠月はそれだけで天にも昇る気持ちであった。

 今の王妃はたいそう柔らかな人だと国民の間でも噂になっている。

 翠月はそれに大いに納得した。翠月のような下々の平民にさえ、王妃は優しく接してくれる。なんと人間のできた人であろうか。

 橋の上から、王妃は池を見おろしている。池の鯉がぽちゃんと跳ねた。

「世子をこの宮殿に連れ戻すために、そなたが一役買ってくれるそうだな」

「あ……はい、さようです」

 どうやら王妃も翠月の身の上を知っているようで、とたんに翠月は居心地が悪くなってしまう。

「わたくしも先ほど王さまから聞いたのだ。だが、そなたならあるいは」

「わ、わたくしには、そのような大役は、荷が重く……」

「そうか? わたくしが見るに、だいぶ世子と仲を深めたようだが」

 王妃は手招きをして、翠月を傍に歩ませる。言われるがままに翠月は一歩、また一歩王妃のもとへと歩み寄る。

 目の前まで来て、翠月はこうべを垂れながら、王妃の言葉を待つ。

 王妃はなにも言わずに、自身の髪からかんざしを一本抜き取ると、翠月の髪にそれを挿した。

 翡翠のかんざしだ。それが上等なものであるのは一目瞭然。

 翠月は思わず頭を上げて、あわあわと両手を顔の前で振っている。

「かような施し、受けるわけには……」

「気にするな。わたくしにはおなごの子供がいない。そなたが他人には思えぬ。わたくしの好意を、どうか受け取ってくれ」

 王妃には子供が二人いる。それは言わずもがな世子と、それから夏月のことである。

 王妃は娘が欲しかったのかと、翠月は素直に好意を受け取ることとした。そもそも、断る権利など翠月にはない。

「それでは、ありがたく頂戴いたします」

「ありがとう。それから、そなた」

「はい」

「時々、時々でいい。私のもとに遊びに来てくれぬか?」

 本当に、王妃は娘が欲しかったのだと、翠月は胸が締め付けられた。自分ができることならばなんでもしてやりたいと思うが、だが自分が王宮に出入りするなど、許されないことも分かっている。

 恭しく頭を下げて、翠月は答えに窮する。

「そなた、名は?」

 王妃の問いに、翠月は小さく答える。

「翠月、にございます」

「すい、げつ……?」

 だが、翠月が名乗ったとたん、王妃の顔色が明らかに変わった。さあっと顔から血の気が引いて、そうして確かめるように、翠月のあごに手を宛てて、翠月の顔を上げさせる。そうしてまじまじとその顔を見て、はたとなにかに気づいたように、震えた。

「そなた、歳は?」

「……? 十九にございます」

「……もしや、名前の由来など、聞いておらぬか?」

「……? ええと……わたくしが生まれたのが緑が生い茂る月だったため……水のように澄んだ娘になるようにと……」

 ふらっと王妃がその場によろめき、慌てて翠月が支えるも、それより先に女官が動き、王妃の体を力強く支えた。

 なにがなんだか翠月には分からない。自分はなにか悪いことを言ったのだろうか。

 翠月が首をかしげるなか、王妃はよろめく体を立て直して、翠月に作り笑いを向けた。

「そなたはもう、宴席へ帰るがいい。わたくしは体調が悪い故、このまま居所に帰る……」

 真っ青な王妃を心配する翠月をよそに、わらわらと女官が王妃を取り囲んで、そうしていそいそとその場を離れていく。

 翠月はその場に取り残されてしまい、どうしたものかと首をかしげる。

 もし自分のせいで王妃が体調を崩したと知られたら、どうなってしまうのだろうか。

「私……私、なにかしたのかしら?」

 自分に問いかけるように池を見おろすも、そこに写るのは間の抜けた自分の顔と、そしていつの間にいたのか、月読の顔だけであった。

 驚き翠月は月読を振り返る。

「月読さん、何故ここにいるのですか?」

「そなたこそ、王妃さまとご一緒ではなかったのか」

「え、ええ。王妃様は体調がお悪いとのことで、先に居所へとお帰りになりました」

 それだけ聞くと、月読は翠月に背中を向けて歩き出していた。

 本当に今日はいろいろな人間に会うが、みな翠月に冷たい気がする。やはり自分は、許嫁として歓迎されていないのだろうか。

「あの、月読さん」

「なんだ」

 後ろ手に、月読は振り返らずに返事をする。翠月はその背中に、思いのたけをぶつけるしかできない。

「私、なにか粗相をしたのでしょうか」

「……いいえ、なにも。むしろ、粗相をしたのはあちらのほうです」

「え……それはどういう……」

 どういう意味ですか。そう聞こうとしたのだが、振り返った月読の顔が、それを許さなかった。

 これ以上戯れに付き合う暇はない、そなたと話す暇など無い。月読の目が、ごうごうと燃えていたのだ。

 粗相をしたのはあちら、つまり、王妃がなにか翠月に粗相をしたと言いたいのだろうか。

 いや、そんなことはない。この短い時間に、王妃が翠月になにか変なことをしただとか、きつい言葉を浴びせただとか、そんなことは一切なかった。

 ならば月読の言葉はなにを意味するのだろうか。

「月読さ……」

 だが、月読はすでに翠月から遠く離れて歩き出していた。どこへ向かうのだろうか、あちらは王宮外へ続く道でも、宴会への道でもないというのに。

 翠月は不思議に思いながらも、月読を追いかけることはしなかった。月読の妙な雰囲気に気圧されて、なにもできなくなってしまったのだ。


 月読がさって、さて翠月は道に迷った。ここまでの道は王妃が案内してくれたが、その王妃が突然帰ってしまったものだから、翠月は広い王宮の中、一人で迷子になっていた。

「こっちかしら」

 だが、方向音痴な人間に限って、その場にじっとしているということはしない。自分の勘に任せて歩くものだから、宴席からますます遠い場所へと離れてしまう。

 半刻ほど歩いたところで、翠月はようやく足を止めた。

 どうやら自身が選んだ道はどれも的外れで、だいぶ宴席から離れたことに気づいたようだ。だが、このような場所で気づいても、誰かが見つけてくれるとも思えなかった。

 王宮の隅の、日当たりの悪い居所の前で、翠月は立ち尽くした。

「だ、誰かいらっしゃいませんか……」

 居所のなかに、もしかしたら誰かいるのではと思ったのだが、あいにく今日ははみな、王の宴会に出向いていて、そこはもぬけの殻だった。

 泣きたくなる。

 あの場所でおとなしく誰かを待っていたのならば、このような薄暗い場所にひとりにならずに済んだかもしれない。自分はいつも損な目に合う。

 翠月の目から涙がこぼれ落ちた時だった。

「誰だ」

「え?」

 聞こえた声に振り返ると、夏月がそこに立っていた。

 思わず翠月はほっとして、夏月のもとに走り寄り、「よかった、よかった」と泣きながら、夏月の手をぎゅっと握った。

 驚いた夏月は翠月の手を振りほどき、だがその場から動くことが出来なかった。

 なぜ翠月がここにいるのだろうか。

「す、すみません。私ったら、嬉しくてつい」

「そなた、何故ここにいる?」

「え……? 道に迷ってしまって」

「はあ」

 夏月は大きくため息を吐くと、翠月に背中を向けて歩き出す。

 翠月はわけが分からずぼうっと立ち尽くしたが、夏月が翠月を振り返って、

「そなた、ここは私の居所だ。道に迷ったのならば宴席まで案内する故、ついてこい」

「あ、あ。ありがとうございます」

 薄暗くじめじめしたここが、夏月の居所なのだと、改めて翠月はその居所をまじまじと見た。

 翠月が想像する王宮とはかけ離れていた。王宮とは、もっと華やかで住みやすい場所だと翠月は思っていた。

 実際それは間違ってはいないのだが、なにぶん夏月は生まれた時からこのような扱いを受けてきた。

 第二皇子である秋月に世子の座を奪われ、居所もこのような王宮の隅の日当たりの悪い場所をあてがわれた。

 内官も女官も夏月にはほとんどあてがわれていない。

 夏月に従うのは、夏月を王に据えんと画策する宦官か、それか町の荒くれものたちくらいである。

 だが夏月は、もうそのような生活には慣れっこであった。そのはずなのに、翠月にだけはそれを知られたくなかった。

 今日は厄日だ、と夏月は思う。

 宴席だって本当は正式には招待されていない。だが、自分とて王の子である、夏月は意地でそれに参加したが、招待客はまるで夏月など存在しないかのように、世子ばかりをもてはやす。

 自分の存在意義を見失いかけて、夏月はいたたまれなくなり宴会を離れた。

 だが、戻った居所の前に翠月の姿を見つけ、余計に夏月の心は追い込まれた。

 よもや翠月は自分の居所を王妃に見せられて、そうして自分をあざ笑っていたのではないのだろうか。自分を軽蔑したのではないだろうか。

 ずっとそうだ、いつだってそうだ、夏月はおおよそ人間らしい扱いを受けてこなかった。

「あの」

「……なんだ」

「私を、探しに来てくれたのですか?」

 だがどうやら翠月は自分をあざ笑う気も、馬鹿にする気もない様だ。それだけが唯一の救いであったが、それどころか翠月は、夏月に期待のまなざしを向けていた。

「まさか。自分の居所に帰っただけだ」

「あ、そうなんだ……」

「だがそなた、本当に迷い込んだだけか?」

「……? そうですよ?」

 翠月は夏月の横に立ち、速足でパタパタと歩いている。夏月は少しだけ歩みを緩めて、翠月に歩幅を合わせてやる。

 翠月はすぐさまそれに気づくと、にっこりと夏月に笑いかけた。

「なにがおかしい?」

「いえ。夏月さまは、お優しいのですね」

「……!?」

 藪から棒になにを言うのだろうか。動揺し、夏月は再び歩幅を広く歩いた。

 気を遣わなければよかった、優しいなどと勘違いされるくらいならば、翠月のことを心配などするべきではなかった。

 自分は優しくなんかない。欲しいものは手に入れる、なにがなんでも。それが夏月という人間だ、自分という人間なのだ。

 世子を世子の座から引きずりおろして、自分は次期王になって見せる。そのためならば、どんなことだってしてみせる。

 そう思って、強く強く決めて生きてきたのだ。周りはみな敵であったし、自分を優しいと言う人間などついぞいなかった。いや、居た。ひとりだけ。いつだったか、幼かった自分にそのような戯言を抜かした人間がいた。

「夏月さま? どうかしましたか?」

「……いや、そなた、変わり者だな」

「今さらですか? 世子さまの許嫁をやっている時点で、だいぶ変わっていると思いますが」

 自虐するように、翠月は笑った。だが、夏月の言う「変わり者」はそういう意味ではない。

 確かに許嫁として世子に近づいたこともだいぶ変わり者ではあるが、翠月にはまるで善悪の区別がつかないように感じたのだ。

 例えるなら、善である世子と、悪である夏月の区別がついていない。

 夏月は今更、自分が正義だと主張するつもりはない。王座についてしまえば、どんな悪であろうと途端にそれは正義となる。ただそれだけの話だ。

 権力はすべてを覆せる。夏月の孤独も、すべてを覆すことが出来ると信じて進んできた。

 だが実際、どうあがいても自分は世子にはなれない。

「ここをまっすぐ行けば、宴席に帰り着く」

「あ、ありがとうございます。あの、夏月さまは行かないのですか?」

「わたしはいい。もう宴席を離れて居所でゆっくりするところだったからな。誰かさんのせいで寄り道することになってしまったが」

 嫌味たっぷりに夏月は言うも、翠月はもはや怯むことはない。これが夏月の性格なのだと承知しているのだ。

 翠月は恭しく夏月に頭を下げた。

「助かりました、夏月さま。私はもう行きます。それではまた」

「……」

 『また』ということは、翠月は再び自分に会うつもりでいるのだろうか。

「はっ、可笑しなやつだ」

 宴席へと走る翠月の背中に向かって、夏月は自嘲した。

 『また』などと、夏月にそのような言葉を向けた人間は、もしかすると翠月が初めてかもしれない。


 そのころ、居所に戻った王妃は、水を一杯一気に飲み干して、そうして、泣き嘆いていた。

「よもや、あの娘が……」

 女官たちは部屋から追い出した、この独り言は、決して誰にも聞かれてはならない。王妃はひとり、頭を抱えている。

 なぜ、どうしてこの時期に。謀ったかのように。

 ばたん!

 部屋の扉が開け放たれる。王妃は驚くもあっけにとられてなにも言えない。そこにいたのは、星読みの月読であった。

「そなた、ここが誰の部屋か分かっておるのか?」

 王妃は毅然とふるまうも、月読は一切気にかけることなく、王妃のもとへと歩いていく。一歩、二歩、三歩。

 目の前まで来て、月読は立ったままに王妃を見おろして、無表情のままに口を開いた。

「王妃さま。あなたは私の姉を覚えていますか」

「……なに、を」

「あなたが殺した星読みを、覚えていますか」

「……! まさか、そなた……」

 思い出す。

 確かに覚えがある、王妃の暗い過去だ。誰にも知られてはいけない過去だ。それをこの星読みは知っている。

 王妃はよろめく体で立ち上がると、月読をまっすぐににらみ返した。

「そなた、わたくしの秘密を知っているな。ならばあの星読みと同じように――」

「もしも、もしもあなたが私を葬ろうものならば、あなたの秘密を王さまに届けるように、私の弟子に書状を預けてあります」

「……! そなた、なにもの……」

 月読の口角が上がる。月明かりに照らされたその顔を見て、王妃は月読にとある人物の面影を見た。よもやあの時の星読みの。

「私の姉を殺したあなたには、これから罪を償っていただきます」

「わたくしを脅すのか」

「いいえ。王妃さま。罪というものは未来永劫許されないものなのです」

 月読は踵を返し、歩きながら後ろ手に言い放つ。王妃は追いかけることもできず、歯を食いしばってその場に立ち尽くすのみだ。

「罪は一生消えない。世子さまに対する罪も、私の姉に対する罪も。――に対する罪も」

 どくどくと王妃の心臓が脈打った。

 この女はすべてを知っている。自分の罪も、世子のことも。

 この星読みは、ただの星読みではない。自分に復讐せんと王宮に潜り込んだ鼠だ。

 鼠は退治しなければならない。だが、月読がそれをやすやすと許すわけもなかった。

 月読はなん十年に渡って王宮に入り込み、準備をして、王妃への復讐の準備をしてきた。その月読に、一筋縄で敵うわけがない。

 どうすればいい、どうすれば。

 もしもこのことがほかの誰かにばれたのならば、今まで築いてきた自分の地位は一気に崩れ去る。それだけはなんとしても避けなければならない。

 月読が出ていった居所で、王妃はさらにいっそう頭を抱えるのだった。





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