第3話 風邪

三、風邪


 狩りの件以来、どこか世子は翠月と打ち解けてきた。それが、世子の孤独を知ったからなのか、それとも悩みを共有したからなのかは分からない。だが、確実に世子は翠月に心を開きつつあった。

「まだ十八だったなんて、驚きましたわ」

「なにを。ひとつしか違うまい」

 時おり、世子の生い立ちの話をするくらいには、ふたりの距離は縮まっていた。

 そして翠月がなにより驚いたのが、世子の年齢である。見た目若いとは分かっていたが、自分より年下だとは思いもしなかったのだ。それくらい世子はしっかりしていたし、翠月に対して偉そうであったのだ。

 翠月はここぞとばかりに先輩風をふかせる。

「わたくしのほうが年上なんですから、たまには言うことをお聞きくださいね?」

「まさか。わたしは誰にも従わぬ」

「ですから。まだ秋だとて夜更かしは体にさわります。いくら日が長いからと、夜更けまで書物をお読みになるのは」

「わたしは風邪など引いたことがない」

 確かに世子は、風邪など引いたことがない。それは今までおつきの医官が、毎日湯薬を処方していたからだ。その役割は翠月には引き継がれなかったため、翠月は世子の体調を心配していた。それどころか、湯薬の煎じかたを月読に聞きに行こうかと考えている。

 あくまで世子は世子だ。翠月の世話により体を壊せば、翠月の立場が危うくなる。もとより、体調を案ずるほどの仲になっていたのだ。

「そなた、自分が早く寝たいからわたしを急かすのではあるまいな?」

「うっ……」

「はぁ。それならば、先に寝て構わん。わたしはもうしばらく、書物を読んでから寝るゆえ」

 しっし、と 世子が翠月を邪険に扱う。翠月は「あんまりだわ」とぷりぷりしながらも、その日は世子よりも早くに床についた。

 最近の疲れがどっと出た気がする。体が怠いし心なしか寒気もする。

 翠月は自分の体調不良には鈍いようで、睡魔に身を任せながら、そうして意識を手放した。


 翌朝、世子がいつも通りに目を覚ますも、いつもなら翠月が朝食を用意しているところを、今日に限ってその様子が一切ない。

 寝坊するなど珍しい、そう思いながらも世子はどこか不安にかられて、翠月の部屋へと向かった。

 扉を開けるや、飛び込んできたのは苦しそうにうなされる翠月の姿であった。額にじっとりと汗をかき、ごほごほと咳をしている。

 世子は慌てて翠月に駆け寄るも、翠月はよろめきながら起き上がり、世子から距離をとる。

「いけ、ません。移ってしまい、ます」

「こんなときになにを……」

「けほ。世子さま、わたくしに近づいてはなりません」

 けなげにも世子の身を案じるが、がくん、と翠月の体は倒れた。起きていることすら辛いようで、くったりと布団に横たわる翠月に、世子は額に手を当てて熱を測る。

 燃えるように熱かった。

 ただの風邪ではない、世子はすぐさま支度をすると、町医者を探しに行くことにした。

「翠月、辛いだろうがしばしの辛抱だ」

 濡れた手拭いを翠月の額に乗せて、水を匙で掬ってわずかばかり飲ませて、そうして世子は町へと繰り出した。


 思えば、世子がひとりで町に出たのは初めてかもしれない。金の入った袋を懐に忍ばせて、町人に問う。

「この辺りで一番腕のいい医者を知らぬか?」

「なんだい、あんた。商品も買わないでそれだけ聞いて帰るのかい」

 米を売る商人に話しかけるも、ただでは話す気はないようだ。もとより、世子の装いを見た商人が、金をふんだくろうと目論んでいるだけなのだが、世間知らずの世子は、言われるままに金を十両、渡した。

 すると商人の目の色が変わる。金を大事に懐にしまい、手を揉みにこにこと愛想よくする。

「村外れの大黒ってお医者様が、たいそう腕がいいと聞いてますぜ」

「大黒。助かった、礼を言う」

 世子は、さらにもう十両、商人に金を渡す。これには商人も飛び上がり、もらえません、もらえません、と言うものの、しっかり金を懐にしまいこんで、今日の商売はもう畳む準備をしている。

 商人を横目に、世子は村外れの大黒のもとへと歩く。いや、走った。

 途中、道行くひととぶつかったものの、世子は気にすることなく、ひたすらに走ったのだった。


 大黒という医者がいたのは、本当に村の外れで、世子はわずかばかり不安にかられた。本当に腕のいい医者なのだろうか。ひとっこひとり患者がいない。

 世子は大黒の住む小屋に声をかける。

「すみません」

 だが、返事はない。もう一度、

「すまない!」

 声を大にして呼べば、なかから酒瓶をかかえた男が出てくる。まだ真っ昼間だというのに飲んだくれるそのひとこそが、大黒である。だが世子には胡散臭い初老の男にしか見えなかったらしく、思いきり顔をしかめた。

「お前さん、失礼なやつだな」

 世子の反応を見て、大黒が気分を害したように言う。世子は慌てて背筋をただし、大黒に頭を下げた。

「知り合いが病気なのです。あなたに診てほしい」

「俺に? はっ、物好きもいたもんだ」

 大黒はゲラゲラと笑い声をあげ、酒の瓶に口をつけて、ぐびりぐびりと喉を潤す。

「お前さん、騙されたんだよ」

「え……?」

「俺はもう、医者なんかやめちまった」

「『やめちまった』? ということは、医者には代わりないではないですか」

「目出度いやつだな」

 大黒はまた一口、二口と酒をのみ、やがて酒瓶はからになる。

 酒がなくなるや大黒の体がガタガタと震え出して、大黒は慌てて酒樽に走って、そうして酒樽から直に酒をのみ始める。

 さしもの世子も、大黒のうさんくささには気づいているが、今はとにかく、医者が必要なのだ。

「頼む。体が燃えるように熱く、咳がひどくて起き上がれないほどなのだ」

「ひっく、へぇ、そりゃあ大変だな」

「そなた、医者であろう?」

 大黒は酒瓶に酒を注ぎ込み、そうして再び世子のもとへと歩いてくる。近くに来るとそうとう酒臭い。どれだけ飲んだのだろうか、目の焦点も定まっていない。

 無駄足だった。世子は大黒に背中を向けて歩き出す。すると後ろから、大黒の声が聞こえた。

「早めにちゃんとした医者に見せたほうがいい。この時期の風邪は長引くと厄介だからな。って、聞いてねえか!」

 酔いつぶれた人間のざれ言など世子は耳も傾けなかった。

 半日ほど無駄に過ごしてしまった。

 世子は帰り道を急ぎながら、今度こそ医院へとたどり着いた。だが、そこで問題が発生する。

「金がないなら診られませんね」

「そんな、金なら屋敷に帰ればあるはずだ……」

「いいや、だめだ。うちは前払い制だからねえ。ただでさえ踏み倒す患者が多くて困ってる」

 医官は鬱陶しそうに世子を邪険に扱うが、世子は納得がいかない。医官たるもの、患者を慈しむのが筋である。それを、金のあるなしで判断するなど言語道断。

 だがなにぶん、今の世子にはどうにもできない。どうやら道中ですりにあったようだ。持ち金が一文も残っていなかった。

「往診していただけたら、金は払う」

「無理なものは無理だ。金がないのならさっさと帰れ」

 ぐっと言葉に詰まるも、ここまできて手ぶらで帰るわけにもいかない。

 一旦屋敷に帰ってから、再び医院を訪ねるのもひとつの方法ではあるが、大黒の言葉が妙に引っ掛かる。

 なるべく早く、翠月を医者にみせなければと思ったのだ。その結果、世子は最終手段をとることにした。

「わたしは世子だ。ゆえに、今すぐわたしの屋敷に来い」

「……ふっ」

 あははは、と医官は笑う。大口で笑って、

「まさかそんな嘘に騙されるとでも?」

 と、まるで信じる様子はない。確かに世子は、今まで世子として町に繰り出したこともなければ、今だっておつきの内官や女官がいるわけでもない。よくても裕福な両班にしか見えないだろう。

 権力とは目に見えないものゆえに、世子は自分の存在をどのようにして民に知らしめるべきかを知らない。

 もとより、このような田舎の町に、世子が現れること自体が異例のため、十人が十人、同じ反応をするだろう。

「くそっ!」

 王族とか、平民とか、その区別はいったいどこにあるのだろうか。世子は改めてそんなことを思った。

 世子でありながら、ひとひとり守ることができないなんて、なんと無力なことだろう。

「それじゃあ、世子さま。あなたを助けたら私の医院を大きくしていただこうかね?」

 医官はそんな冗談を撒き散らして、やがて世子に背を向けて医院の仕事へと戻っていった。

 悔しい。

 本来ならば、このような屈辱、許されるわけがない。だが、今はそれよりも、翠月を救うことが先である。

 世子が最終的に頼ったのは、結局は王宮の御医にであった。


 血相を変えて王宮に戻ってきた世子に、王は何事かと慌てふためいた。

「翠月が、翠月が、ひどい熱なのです」

「翠月……ああ、許嫁として遣わせたおなごか」

「はい。王宮につれてきて、御医に診てもらうことをお許しいただけませんか」

「ああ、そうしなさい」

 王の快諾を得て、世子は屋敷に輿を送り、自身も共に屋敷に戻って、そうして翠月を王宮へと運び込んだ。


 宮廷に運びこまれた翠月は、すぐさま御医によって診察された。

 脈診と、それから病状を見て、御医はふうっと息を吐き出し、妙に神妙な面持ちである。

 固唾を飲んで見守る世子を振り返り、やや言いにくそうに口を開いた。

「もう少し遅かったら、手遅れになるところでした」

「え……?」

「この時期の風邪は厄介です。翠月さまは夏風邪をこじらせておいでです。おからだも弱っているようでしたので、余計に重くなってしまったものと」

 御医の説明に、世子は翠月のほうを見る。

 先ほど医女が持ってきた湯薬を飲み、鍼を打ったためか朝に比べればだいぶ呼吸が楽そうにはなったが、だが顔は赤らみ咳はとまる様子はない。

 世子は翠月の手を握るも、翠月がその手を握り返すことはなかった。

 妙な緊張をしてしまう。このまま翠月が死してしまうのではないかと、世子は少しだけ、ほんの少しだけ恐怖した。

 だが御医は、世子を安心させるように、世子の手を握りながら、

「大丈夫です。わたくしがついています故、世子さまは部屋でお休みに」

「いや……いや。わたしが悪いのだ。翠月の体調に気づかなかったわたしが。よくなるまでわたしはここにいる」

「世子さま……」

 ここまで言われては、御医も食い下がるわけにはいかず、仕方なしに立ち上がり、部屋を後にする。

 残されたのは翠月と世子のみである。女官も医女も、世子によって締め出された。

 看病している姿を誰にも見られたくない、と世子は言うが、実際のところ、世子は自分が翠月に抱く気持ちがよくわからない。

 分からないながらも、翠月が大事であることだけは確かであった。

 汗のにじむ額に濡れた手ぬぐいを宛ててやると、少しだけ翠月の表情が和らぐ。世子は一晩中、ずっと翠月の傍で、翠月の看病をした。

 夜が白んできたころ、世子は眠気に逆らえず、翠月の隣ですうすうと寝息を立てていた。

 月明かりの薄い、細い月の出る夜の出来事である。


 目を覚ました翠月は、見慣れぬ天井と上等な布団に首を傾げた。首を横に動かすと、世子が翠月の手をぎゅっと握りしめて、寝入っていた。

 世子の手には濡れた手ぬぐいが握られているため、どうやら翠月は自分が風邪をひいたことを悟った。

 確かに昨晩は悪寒がしたし体も熱かった。それに、今でもなお咳が出そうに喉や肺が痛むし、熱も下がり切っていないように感じる。

 だが、だいぶ熱は下がったようで、翠月はようよう起き上がる。

「世子さま」

 自分の看病をしてくれたであろう世子を呼ぶが、疲れているのか起きる気配はない。

 さて、ここはどこだろうかと、翠月はそっと世子の手をほどいて、立ち上がると衣を着て、居所の外へと歩く。

 結果分かったことといえば、ここが宮殿であるということくらいで、翠月は風邪からとはまた違った悪寒を感じた。

 このような失態を犯すなど、どう考えてもただでは済まない。

 あの世子に看病をされたこともそうだが、どうやら翠月のために御医や医女や、そのほか諸々の宦官たちが動いたようだ。

 どうしよう、と思うも、ここはもう腹をくくるしかない。

 翠月は確かに世子の許嫁ではあるが、それは公のものではない。許嫁とは銘打っていても、実際に結婚するかといえばそれは違う。そういう風に月読から聞いていた。

 その意味が翠月にはいまだにわからないのだが、とにもかくにも、世子を王宮につなぎとめるためだけに存在する翠月が、このような場所に足を踏み入れ、ましてや看病などを受けたとなれば、それは前代未聞のことであろう。

「どうしよう……」

 起き抜けの頭にも、ややこしい事態になったことはすぐに理解できた。

 このまま王宮を抜け出すにも、それをすれば世子に余計に心配をかけてしまう。

 だが、このまま王宮にいたらいたで、女官や内官たちから白い目を向けられるだろう。

 翠月の目に涙がたまる。もういっそ、このまま消えてしまいたかった。

「そなた……」

「ひっ!?」

 と、新月のため目がきかないところに、男の声が響き渡る。

 翠月が体を震わせると、声の人物は翠月が見えているようで、けたけたと笑いながら翠月の傍まで歩いてきた。

 すぐ近くまで来てうようやく、翠月にもその人物が目視出来た。陽の宮、夏月である。

 ほっと胸をなでおろして、翠月は涙をぬぐって、夏月に毅然とした態度でふるまう。

「なにか用ですか」

「つれないやつだな」

「だって、夏月さまがこんな時間に出歩くなんて、どうせろくなことじゃないでしょう?」

 ツンとした態度に、夏月はふっと息を吐き出した。

 翠月が王宮に連れてこられたことは夏月の耳にも入っていた。それがもう四日も前のことであるから、翠月は自身がどのくらい眠っていたのか知らないようだ。

 夏月はため息交じりに、

「そなた、四日も寝ていたそうだな」

「え、四日? まさか……」

 そういえば、と翠月は空を見上げる。翠月が倒れる前はまだ新月まで時間があった。それなのに、今日はもう新月である。真っ暗な空が、翠月を現実へと誘った。

 確かに翠月は、四日ほど寝込んでいたようだ、認めざるを得なかった。

 そしますます居心地が悪くなってしまう。

 四日も世子に世話をしてもらったとなれば、これはもう合わせる顔がない。

「……何故泣く」

「だ、だって、私……世子さまにこんなにも面倒をおかけしてしまって……」

 ぼろ、ぼろと泣く翠月に夏月は手ぬぐいなど渡すことはしない。ただただ、翠月の涙をじっと見て、枯れるのを待つのみである。

 そんな夏月を、翠月は薄情だと思った。ひとが泣いているのになにも声をかけずただじいっと見ているのは、いささか軽薄な人間すぎやしないかと思ったのだ。

 だが、それとは裏腹に、泣いた分翠月の心は軽くなった。

 我慢せずに、思い切り泣いた翠月は、もうなにがどうなってもかまわないとも思えてくる。

「なんだか、可笑しいですよね」

「なんだ、気でも触れたか」

「ひどい言い草。世子さまにご迷惑をかけたことは、あとでちゃんと謝ればきっと許してもらえるでしょうし」

 夏月は夜の空を見上げる。今日は月がないおかげか、星の瞬きがよく見える。

 翠月もまた、夏月に倣って空を見上げた。先ほどまでは真っ黒だと思っていた空に輝く星を見て、何故だか心が晴れ晴れとした。

 そんな翠月を見て、夏月は顔をゆがめている。世子のことを考える翠月を見て、不機嫌になったのだ。

 夏月はおもむろに翠月の手を握り、自分のほうに引き寄せる。

 驚き翠月は抵抗するも、病み上がりであるためかそれはうまくいかない。

 目の前に夏月の顔が見えて、思わず翠月は目をそらした。

「そなたもどうせ、秋月のほうが世子にふさわしいと思っているんだろう?」

「……え?」

 思いもよらぬ言葉に、翠月は目をまん丸にした。

 夏月はきっと、自分こそが世子にふさわしいと思っているに違いない。

 だから、世子に冷たく当たるのだ。自分は第一皇子であるがゆえに、世子にふさわしいと驕っているのだ。

 だが、確かに順当に考えれば、世子になるべきは夏月のほうであると翠月も思った。

「私には、分かりません」

 だが、翠月には断言することが出来なかった。

 世子も夏月も、血を分けた兄弟なのになぜ争う必要があるのだろうか。だから翠月は、どちらの見方もしない。

 それだというのに、夏月はそれすら気に入らないようで、翠月をさらにさらに自分のほうへと引き寄せる。

 鼻先が触れるほどの距離で、夏月が翠月の瞳をじっと見据えている。

 きれいだ、と翠月は思った。黒々とした瞳は、だが曇りはひとつもない。

 野心家に見えるが、その実恐れているだけなのかもしれない。

 世子に選ばれなかった皇子は、王になった皇子を生涯恐れて生きていく。

 王室は長らく、即位した王によって皇子を暗殺してきた。謀反を起こさせないためである。

 すなわち、この夏月もまた、それを恐れているのではないだろうか。

 もしもこのまま世子が王になったとき、夏月は世子に暗殺されるのではと、そんな心配をしているのではないだろうか。

 血を分けた兄弟なのに、なんて寂しい事だろう。

「大丈夫、ですよ」

 翠月は、夏月の頬に手を宛てて、そうしてゆっくりと、はっきりと言葉にした。

 夏月の瞳が大きく見開かれた。

 なにをもって大丈夫と言い張るのだろうか、なにが大丈夫だと言いたいのだろうか。夏月にはその意図が全く分からない。

 分からないがゆえに、翠月の言葉に聞きいってしまう。

「世子さまは、王になっても夏月さまを邪険に扱ったりしません」

「……っ! そなた、なにを」

「せっかくの兄弟なのに、なぜいがみ合うのですか」

「分かった風な口を……」

「私からも世子さまにお話します。夏月さまがなににおびえ――」

「黙れ!」

 夏月は翠月を突き放す。勢い余って翠月はその場にしりもちをつくも夏月は翠月のほうを一切見ようとしない。

 ただただ「黙れ」と繰り返して、怯えるのみである。

 なんだ。なあんだ。

 翠月はひとりで立ち上がると、怯える夏月に歩みより、そうしてそっと夏月を抱きしめた。子供をあやすように、母親が子供を慈しむように、そっと、だがしっかりと夏月を抱きしめたのだ。

 夏月は驚きのあまり言葉を失った。抵抗すら忘れた。

 ただただ、ぬくい翠月の腕の中で、泣きたくなるのを我慢するのに必死である。

「夏月さまも世子さまも、仲良く生きていけたらいいのに」

「なに、を、たわけたこと、を……」

 だが、それ以上は夏月も言い返すことが出来なかった。新月も相まってか、翠月は自分でもこの行動は意外であった。

 だが、別段自分が可笑しいとも思わなかった。翠月は、夏月のことをもっと知りたいと思ったのだ。世子とともに生きてきた夏月は、なにを見てなにを思い生きてきたのだろうか。

「だが、そなたとて、秋月とわたし、どちらを選ぶのかと訊かれたら、秋月を……選ぶのだろう?」

 震えている、声が、体が。

 翠月は考えるまでもなく、

「私はどちらも選びません」

 そう、はっきりと答えた。

 俄かに信じがたい夏月は、何度も何度も翠月に同じ質問をした。「秋月が好きなのだろう」「秋月のほうが世子にふさわしいと思うだろう」「秋月のほうが偉大だと思うのだろう」「秋月のほうが優しいと思っているのだろう」

 だが翠月は、そのすべての問いに「いいえ」と答えた。

 馬鹿馬鹿しいと思ったのだ、世子と夏月を比べることなど。翠月にとってはどちらも尊い皇子に他ならない。どちらがどちらより優れているかなどと考えるだけでおこがましい。

 夏月は翠月の背中に手を回そうとする。だが、それは存外うまくいかない。夏月の矜持がそれを阻んで、夏月はとうとう翠月の腕の中から離れていった。

 名残惜しい、などと考えて、夏月はハッとしたように翠月から距離を取る。自分はいつからこのような腑抜けになったのだろうか。

 翠月の前でこのような醜態をさらすなど、男として情けない。

「夏月さま、私はもう帰りますが」

「ああ、さっさとどこにでも行ってしまえ」

「はい。でも、夏月さま。夏月さまはもっとご自分を大事になさってくださいね?」

「……っ! 知った風なことを。さっさといね!」

 照れ隠しなのか、それとも本当に気分を害したのか、翠月には分からない。だが、言いたいことを言う性格の翠月には、黙って去ることなど出来ないのだ。

 翠月が王宮の居所に消えゆく姿を、夏月はそっと見守っていた。


 居所に戻ると、世子が翠月を迎え入れた。しかしその顔は怒気を含んでおり、どうやら許可なく出かけた翠月に怒っていることは翠月にもすぐに分かった。

「翠月、そなたはどれだけわたしに心配をかければ気が済むのだ!」

「わわ、も、申し訳ありません!」

 翠月はその場に深々と頭を下げるも、やはりまだ外の風に当たるのは早かったのか、少しだけよろめいてしまう。

 世子はすかさず翠月の手を取り体を支え、心配そうに顔を覗き込んだ。

 夏月とは違った、黒色の瞳は、なにを映し出しているのだろうか。世子の座の争いを見据えているのか、はたまた夏月を恨んでいるのだろうか。

 世子は翠月を支えて歩き、布団まで導く。

 翠月はされるがままに布団までたどり着くと、そこに腰を下ろして、ふうっと息をついた。

「なにをしていた」

「いえ、なにもしておりません……」

 嘘である。

 翠月は先ほどまで夏月とともにいた。そして話をした。世子のこと、夏月のこと、夏月が怯えていること、世子を説得すると約束したこと。

 だが翠月は、それらすべてを世子に隠した。なぜかは分からない、とっさに嘘が口をついて出てきてしまい、引くに引けなくなってしまったのだ。

「はあ。翠月、そなたはいつもわたしに心配ばかりかけて」

「すみません。四日も寝込んでしまって」

「……? なぜ四日も寝込んだと知っている?」

 ついつい口が滑ってしまい、翠月はあわあわと両手を顔の前で振りながら、

「きょ、今日は新月でしたので……わたくしが最後に夜空を見た時は、細い月が空にありました故」

「……そうか。そうだ、そうなのだ、そなたは四日も寝ていて。わたしがどれだけ心配したか」

 世子は翠月を横に寝かせると、布団をかけながら、大事なものを扱うかのようにそっとその手を握りしめる。

 あたたかい世子の手に、翠月はどきりとする。

「そなたが死ぬのではないかと、わたしは気が気じゃなかった」

「死ぬなんて……でも、ありがとうございます」

 翠月は素直に礼を述べる。そして不意に、夏月のことを思い出して、世子の手を握り返す。

「世子さま、その……」

「なんだ?」

「はい。夏月さまを、殺したりしませんよね?」

「そなた、なにを言い出すのだ? わたしが兄上を? たった一人の兄なのに?」

 世子が思いのほか驚き、声を荒らげたため、翠月は気圧されてしまう。それと同時に、安堵した。

 やはり世子は優しいかただ。兄である夏月を殺そうとするはずがない。

 ほっと安堵したためか、翠月の体がどっと重くなる。やはり風邪はまだまだよくなっていなかったようで、翠月はうとうとしながらも、世子の手を強く強く握って離さない。

 世子もまた、翠月を励ますかのようにぎゅうっと手を握りしめて、そうして翠月が眠りに落ちるまで、その手を握って離さなかった。


 風邪が治ったのはそれからひとつき後のことである。

 夏風邪は思いのほか長引くものらしく、翠月はひと月も宮殿の居所で過ごすこととなってしまった。不本意ではあるが、世子が絶対に安静だと譲らないため、翠月はこのひと月、おとなしく宮殿で暮らしている。

 宮殿では女官が毎日翠月の世話をしに来て、まるで翠月は王妃かなにかになったかのように、それは丁重にもてなされた。

 翠月が王宮にいる間は、世子も仕方なくではあるが、王宮で暮らしていた。これには王も王妃も大喜びで、世子は度々実の両親に呼び出されては、食事を共にしたり、書物を読んだり歌を詠んだり、絵を描いたりと忙しいようであった。

「世子さま、今日も遅くなるのですか」

「ああ、すまない。今日は父上がお呼びなのだ」

 宮殿にいる間くらい、親孝行をなさっては。そう言ったのは紛れもなく翠月であったのだが、こうも頻回に出かけるとなると、少しの寂しさを感じてしまう。

 翠月がしゅんとしょげる様子を見て、世子は申し訳なく感じるも、父である王の頼みにはどうしてもそむけない。

「すまない、なるべく早く帰るようにする」

「はい、はい。分かっています、私のわがままなどお気になさらず、ゆっくりして来てくださいませ」

 翠月のそれが強がりであることは世子も重々承知であるのに、その日も世子は早く帰ってくることはなかった。


 世子が王宮に暮らし始めて一ヶ月、ようやく翠月の病状が完全に回復したとの御医のお達しが出て、ようよう明日にはあの簡素な小屋に戻れると、世子はふっと息をついていた。

 だが、今後しばらく世子が宮殿に来ないだろうと、その日もやはり、世子は王と王妃に呼ばれて、夜から出かける支度をしていた。

 こんな日くらい、ゆっくりすればいいのに、と翠月は思うも、王や王妃の気持ちも痛いほどに分かるため、なにも言わずに世子を見送った。

「今日もひとり、かあ」

 きっと世子は、今日も翠月が寝入ったころに帰ってくるに違いない。そう思うと、無性に腹立たしく寂しさが募り、翠月はなかなか寝つけないでいた。

 そんな翠月の居所の扉が、なんの合図もなしに勢いよく開いた。

「ひゃ?」

 あまりにも荒々しく開け放たれた扉に、翠月は布団から飛び上がって部屋の隅に移動する。

 よもや強盗かなにかかと思ったのだが、そこにいたのはもう見慣れた顔であった。

 夏月が、扉の前にひとり、たたずんでいたのだ。

「か、夏月さま……び、っくりした……」

「なんだ、そなたは。わたしが見舞いに来たというのにそのような扱いを」

「あ、あ、いえ。いいえ、すみません。本当に驚いただけで」

 まさか強盗と間違えそうになったとも言えず、翠月はその場に立ち上がると、夏月に上座を譲り、自身は下座に座る。

 夏月はふん、と鼻を鳴らしながら上座に座ると、手に持っていた花を翠月に渡した。

 炉端に咲いているような、小さな小さな花である。

 翠月の居所には毎日たくさんの花が飾られる。その花はどれも見事な大きく可憐な花たちばかりで、夏月が差し出してきたそれとは比べものにならない。

 だが翠月は、夏月に差し出された花のほうが、毎日飾られる花たちよりも何倍もなん十倍もきれいだと感じてしまう。何故だろうか。

 翠月は夏月から花を受け取ると、思わず笑みをこぼしていた。

「それでは、わたしはもう行く」

「え、夏月さま、今来たばかりじゃないですか」

「そう長居するつもりはない。病み上がり故、そなたの睡眠を邪魔することはしたくない」

「あ、あ、でも……」

 翠月は夏月から受け取った花を両手に持って、その花に視線を落としながら、言いにくそうに口をハクハクしている。

 いつもであれば言いたいことをはきはきと言う翠月が、なにを言い淀んでいるのかと、夏月ですらも気になって、立ち上がりかけた身体を再びおろす。

 そうして翠月は、ようやく声を振り絞って、

「ひとりは寂しいので……少しでいいので……ここにいてくれませんか」

 世子には言えなかったほんの些細な望みを、翠月は夏月にぶつけていた。

 風邪で倒れる前も、風邪で倒れてからも、世子は翠月との時間をあまりとらない。それは照れくささから来るものであることは翠月も分かっているのだが、どうしても世子には甘えることが出来ないのだ。

 看病をしてくれていた時は寝ないでずっとそばにいてくれたことももちろん知ってはいるのだが、だからこそ世子にはわがままを言えないのだ。

 世子は世子であるがゆえに、一国の跡取りである世子にわがままを言うのは憚れたのだ。

 夏月はすぐに翠月の内心を察するも、そのような頼み事など聞こうとも思わなかった。自分は世子の代わりではない、代用品として扱われるなどと不本意極まりない。

 だというのに、夏月はその場から離れることが出来なかった。たった一言、「嫌だ」と言えば済むものを、それができなかったのだ。

 夏月は観念し、息を吐き出す。

「少しだけなら、話し相手をしてやっても、いい」

「ほ、本当ですか? よかった……」

 翠月は心底嬉しそうに破顔した。

 その顔が、妙に夏月の胸を締め付ける。

 どうせそなたは、世子のほうが好きなのだ。世子が大事だからこそ、わがままも自分の意見も言えずに、代用品としてわたしを利用するのだ。

 だがそれは、もう慣れている。夏月はいつだってそういう扱いを受けてきた。王宮は窮屈だ。だが夏月は、王宮の外に住もうとはしなかった。

 自分こそがこの国の世子に相応しいのだと言わんばかりに、ずっとずうっと、ひとりで気を張って生きてきたのだ。

 そんな自分が、よもやただの平民の娘に、花を摘んで見舞いになど行くことになろうとは、露ほども思わなかった。

 夏月は、自分が自分でなくなるような、そんな恐れを翠月に抱いた。このまま翠月とともにいれば、いつか自分は世子を憎めなくなる。

 そんなことを思いながら、夏月はただ淡々と、翠月のおしゃべりに付き合うのだった。





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