第2話 狩りに行きましょう

二、狩りに行きましょう


 翠月が世子のもとに来てから一か月がたった。

 驚くことに、世子はこの一か月毎日飽きもせずに同じような書物ばかり読んで過ごしていた。

 よほど読書が好きなのだろう、とさしもの翠月も察するが、書物ばかりにふける世子は、まるで翠月のことなど気にかけない。存在しないかのように、翠月との会話もなければ、出掛けることもしないのだ。

 生来活発な翠月にとって、ここの暮らしはひどく窮屈であった。

 やることといえば世子の食事作りと洗濯、それから掃除くらいで、毎日毎日同じことの繰り返しに、そろそろ飽き飽きしてきていた。

「世子さま、世子さま」

「……その呼びかたはやめてくれと何度言ったら……」

「あっ、申し訳ありません。秋月さま」

「……なんだ」

「その……たまには外にお出掛けになられたらいかがですか」

 翠月は世子の机の前に座って、前のめりに言った。ちらりと世子の書物が目に入るが、難しい言葉たちは翠月の意識をすぐに削いだ。

 翠月は世子にキラキラとした眼差しを向けている。恐らく、いや、確実に、翠月は世子が自分の言うことを聞いてくれると踏んでいるのだろう。

 参った。

 ゆきずりで翠月をこの屋敷に住まわせたものの、世子は実際、翠月のことなど無視して、いつも通りの生活を送ってきた。日がな一日書物にふけるのが世子はなによりも好きだ。

 だが翠月はそうはいかなかったようだ。暇潰しになればと翠月にも書物をいくつか渡してあるのだが、てんで興味を示さない。それどころか、暇だと世子に嘆くように、外へ出ようと促した。

 正直に言うと、世子は後悔していた。憐れみからであったとしても、翠月を側に置いたことはあまり世子にはよろしくないことであったようだ。

 書物をぱたりと閉じて、世子は翠月を見た。

「そなたひとりで出掛けてきてよい」

「え……あ、でも」

「なんだ?」

「……わたくしひとりで楽しんできては、世子さ……秋月さまに申し訳ありません」

 翠月はどうやら世子のことを気にかけているようだが、それはお門違いだ。世子は翠月が外に出掛けようが、羨ましいとは思わない。

 だがどうやら、翠月は世子を差し置いて自分だけ出掛けることに抵抗があるようだ。

 無意味な気遣いだと思いつつも、世子は翠月の優しさを踏みにじるのは気が引けた。

「ならば……狩りに出掛けるか」

「狩り……?」

「野山で鹿や猪を狩るのだ」

 世子は弓を引く動作をして翠月に説明するが、翠月は「いけません!」と声を張り上げた。

 びくっと世子が驚き体を震わせる。翠月はハッとして、世子に恭しく頭を下げ、謝った。

「も、申し訳ありません。おなごがかように声を荒らげてしまい……」

「よい。しかし、なぜ駄目なのだ?」

「そ、れは……無為な殺生は……」

 もごもごと翠月は言葉を濁した。

 確かに翠月とて鹿や猪の肉は食べる。ゆえに、動物を殺すなとは言えない立場にいる。だが、王族方は食べるため以外にも、娯楽として狩りをするのだと翠月も知っていた。

 逃げ惑う動物たちを追いかけ殺して、なにが楽しいのだろうか。

 世子は翠月の意図が分からず、首をかしげている。

 翠月はおずおずと下げていた頭をあげて、ようよう声を振り絞り、付け加えた。

「動物たちとて必死に生きております。娯楽の一貫で命を奪うのは……わたくしは賛成できかねます」

「必死に……?」

 どうやら世子には意外であったようで、翠月の言葉を何度か口にして繰り返した。

 世子にとって動物の命は、そこら辺の草花と同じである。きれいな花は摘まれて死んでいく。動物たちもまた、自分の意のままに死んでいく。それがずっと、当たり前だったのだ。

 なるほど、平民と王族とでは考え方がまるで違う。

 世子は頷き、そうして翠月の言葉を肯定した。

「そうだな。目から鱗であったが、確かにむやみに殺生をするのはよくない」

「……はい」

 はぁあ、と翠月から力が抜ける。どうやらよほど緊張していたようだ。

 無理もない、世子に口答えするなど、打ち首になってもおかしくないくらいだ。

 だが翠月は、あえて口にした。命の尊さは人間や動物に関係なく、等しいものだと世子にも知ってほしかった。

「世子さ……秋月さま。それでは、狩りは狩りでも紅葉狩りなどはいかがでしょう」

「紅葉狩り? 紅葉を狩るのか?」

 まるで的はずれな言葉に、思わず翠月は吹き出してしまう。世子は笑われたことにムッとして、翠月にジト目を向けている。

 翠月は慌てて笑いをこらえ、そうしてコホンと咳払いをしたのちに、説明する。

「紅葉を見に行くことを、紅葉狩りと言うそうですよ」

「紅葉を……確かに今頃は見頃だろうな」

「はい。木々のしたを歩くのは胸踊ります」

 翠月がうっとりと紅葉を想像し、その場に顔をあげた。まるでこの部屋が林であるかのように、翠月は創造力を働かせる。

 世子には、翠月がなにを見ているのか分からない。同じように紅葉の林を想像するも、それはうまくいかない。どうやっても小さな部屋から世子は出られずにいた。

 さて、翠月がそれほどまでに焦がれる紅葉はどれほどきれいなものなのだろうか。

 世子はがぜん気になってしまう。

「翠月。それでは、紅葉狩りとやらに出掛けるぞ」

「本当ですか? ふふ、では、わたくしの秘密の場所に案内してさしあげますね」

 心底嬉しそうにする翠月に、世子までもが多幸感に包まれる。

 これが普通の、庶民の生活だというのなら、どんなに尊いことだろうか。世子はそんなことを思いながら、身支度を整え始めた。


 若干動きやすい余所行きに着替えた世子と、おめかしした翠月とでは、なかなか道中穏やかではなかった。

 なにしろ林に行くわけだから、輿など使えるはずもなく、翠月は世子に抱えられるようにして馬に乗っていた。

 初めての馬の揺れに加えて、すぐ後ろに世子の体温を感じてしまい、翠月はらしくもなく緊張してしまっていた。

 いくら男勝りだとて、平民はあくまで平民である、馬などに乗ったことなどなかったから、翠月は好奇心と気恥ずかしさでどうにかなりそうだった。

「せ、世子さま、少し窮屈ではありませんか?」

「……? 離れて乗ればばわたしが落ちる」

「で、ですが……それにしても近くありませんか?」

「……なるほど」

 そこでようやく、世子は翠月が困惑していることに気づいた。照れているのだ、声が若干震えている。

 かわいらしい一面もあるものだと、世子はおもむろに手綱を握り直して、そうしてより一層翠月に体を密着させた。

「ひゃ」

「ふっ」

「せ、世子さま? 笑いましたね? わざとやっていますね?」

 じたばたとしながら、翠月が世子を振り返ったものだから、馬が驚き体を横に震わせた。

「危ない!」

「え?」

 馬が動くのと同時、世子は翠月を庇うようにぎゅっと抱き寄せて、そうして翠月はわけがわからぬままに世子によって助けられた。馬から振り落とされずに済んだのは、世子がとっさに翠月を抱き寄せ庇ったからである。

 さすがはこの国に世子といったところである、運動神経も抜群で、反射神経もよいようだ。

 翠月はようやく自分が危機的状況にいたことに気づくと、おとなしく世子に謝った。

「も、申し訳ありません……」

 後ろを振り返るわけにもいかず、失礼を承知のうえで後ろ手に言う。世子は、「まったくだ」と言いつつも、翠月に何事もなかったことに心底安心し、ほっと息をついた。

 そうして再び馬を前進させると、世子は翠月に気を使ったのか、話題を逸らした。

「それで、そなたの秘密の場所とは、どこなのだ?」

「あ、はい。もう少しまっすぐ行ったところです」

「そうか……」

 慣れない道を選ぶべきではなかった、と世子は思うも、ここまで来ては引き返すのも忍びない。

 なにより、翠月が嬉しそうにその場所に案内したいと言い出したものだから、世子は断ることが出来なかったのだ。

 振り回されている、と世子自身も分かってはいるのだが、なにぶん、無邪気な翠月を邪険に扱うのは気が引けた。

 もしかしたら、気を許しているのかもしれないとも思う。まさかこんなことになるとは、世子自身も予想外であった。

「あ、世子さま。あちらです」

 翠月はいまだ世子のことを呼び慣れない。時々こうして「世子さま」と呼んでしまうくらいには、まだまだ二人の仲はそれほど打ち解けていないのだ。

 世子は「世子」と呼ばれることを嫌う。それは翠月も知っているのだが、なかなか自分のなかでしっくりこないのだ。

 あくまで世子は世子であり、目上の存在、名前で呼ぶなどおこがましいとさえ思ってしまう。

 仕方のないことだと世子自身も分かってはいるが、だがそれがどこか寂しい。

「世子さま? モミジはお嫌いでしたか?」

「いや……その呼び方」

「あっ、申し訳ありません。秋月さま」

 翠月は言い直すも、世子は不満そうに頬を膨らませている。

 まるで子供のようだと翠月は思った。思ったが、口にはしなかった。

 馬から降りて、ふたりで林を歩く。とても広い林は、翠月が小さいころからよく遊びに来た山だ。

 翠月は懐かしむように一歩一歩を踏みしめる。しゃりしゃりと樹の葉を踏むたびに、昔の思い出がよみがえった。

 お父様とお母様に会いたい。

 思いがけず両親を思い出してしまい、翠月の目に涙が浮かぶ。

「翠月? 泣いているのか?」

「いいえ。いえ、わたくし、泣いてなんか」

 ごまかすも、翠月の目から落ちた雫は涙にほかならない。

 世子はわけがわからないながらも、懐から布を取り出して、翠月に渡した。

「ありがとうございます」

「……なにか悩みか?」

 訊かなくとも、大体の察しはつく。大方、今の生活を憂いて泣いているのだろうと世子は思った。思ったのだが、それを口にしてやることはなかった。それならば、自分とて同じくらい今の暮らしに辟易している。

 なにも翠月だけが泣きたいわけではない。自分とて、子供であったのならば泣きじゃくっているところであろう。

 世子を横目に、翠月は布で涙をぬぐうと、世子に笑いかけた。

「わたくしは、自分は不幸だと嘆いてばかりおりましたが」

 ふわりとした笑みに、世子の心が乱される。なんてきれいに笑うのだろうかと、柄にもなくそんなことを思った。

 翠月は相変わらず笑みを携えたままに続けた。

「わたくし、本当はとても幸せで」

「しあわせ?」

「はい。お父様にもお母様にも愛されて育ちました。ですから、今もわたくしは幸せです」

「……わたしに縛られ許嫁として暮らすこの暮らしがか?」

「はい!」

 どうやら翠月はいよいよ覚悟を決めたようだ。

 今までの人生を振り返って、翠月は自分の幸せをかみしめた。

 父に母に愛されて、なに不自由なくこの歳まで育てられた。それだけで、一生分の幸せであると思ったのだ。

 この先は、自分のための人生ではなく、世子のための人生を歩んでもいい、そう思ったのだ。

 だが、世子はそれがにわかに信じがたかった。翠月は世子を王宮につなぎとめるための駒に過ぎない。そう、世子も認識しているし、翠月自身もそう言っていた。

 その翠月が、自分との生活に幸せを見出せるはずがないと世子は思った。

 世子の顔がみるみる曇る。翠月もそれに気づいて、だがやはり笑みは崩さない。

「秋月さまがどう思おうがかまいません。わたくしは、秋月さまのお手伝いをしとうございます」

「手伝い?」

「はい。秋月さまがこの先、世子として生きるのか、それとも王さまと話し合いをしてその責を辞退されるのか。わたくしはそのお力になりとう存じます」

 きれいごとだと世子は思った。もしも翠月が自分と同じ立場であったのならば、そんなこと言えるはずがない。

 世子の座を辞退するなどと軽々しく言えるわけが。

 王命に逆らうということは重罪だ。それを軽々しく口にする翠月が、少しだけ憎くて、少しだけ羨ましかった。

「そなたは楽観的なのだな」

「そうかもしれませんね」

 翠月とて、世子の嫌味に気づかないわけがない。楽観的と言われようが、翠月は決めたのだ。

 知ってしまった以上、世子に関わってしまった以上、最善の道を一緒に模索したい。そうでなければ、自分がこうして許嫁に選ばれた意味がなくなる。

 どんな縁でも大事にしたい。翠月はそう思っていたのだが、事態はそう簡単なものではなかったのだ。


 そんなやり取りがあったわけだから、紅葉狩りは当然無言のそれとなった。だが、気まずさは感じていない、お互いに。

 翠月のそれは世子を精一杯思いやっての言葉であったし、世子もまた、それは分かっている。故に、早々に引き返すこともなく、二人で紅葉狩りを楽しんでいた。

 徐々に徐々に、紅葉が世子の心を解きほぐす。自然の中にいると、自分はなんて小さな人間なのだろうと思い知らされる。

 世子は紅葉の葉を一枚拾うと、翠月にそれを差し出した。

「そなたの言う通り、ここのもみじはきれいだな」

「……よかった、です」

 へなへなと、翠月の体から力が抜けて行くのが分かる。どうやら世子が気づかないだけで、翠月はかなり気を張っていたようだ。

 泣きそうな笑みを浮かべながら、翠月は世子の手からモミジの葉を受け取った。赤々としたきれいな葉っぱに、翠月は「ふふ」と笑いを漏らした。

「なにがおかしい」

「いいえ。すごくきれいだったので」

「ただのもみじであろう?」

「はい。でも、秋月さまがくださった、大事なものです」

 他愛ない、些細なことにも喜びを露にする翠月の素直さに、世子の方が泣きたくなる。

 こんな風に自然を愛で、楽しみ、誰かと分かち合ったのはいつぶりであろうか。

 きっと、子供のころにも経験などしたことがない。

「来てよかった」

「え?」

「あ、いや。なんでもない」

 世子の声は木々のこすれる音にかき消され、翠月には届かなかったようだ。だがそれでよかったと世子は思った。もし先の言葉を聞かれていたら、恥ずかしさでどうにかなってしまう。

 二人は横並びに林の奥へと足を進める。

 ふいに、世子の耳が物騒な音をとらえる。

「翠月!」

「……え?」

 ばっと翠月を庇うように、世子は翠月の頭を抱えるようにして、その場から飛び転げた。

 その直後、世子と翠月が先ほどまで歩いていたそこに、ひょっと矢が飛び、そうしてそれは、近くの木に刺さり立った。

 矢羽から見るに、それは王家の矢であった。

 世子は起き上がり、矢が飛んできた方向を見る。翠月もまた起き上がると、世子の背中に庇われながら、矢の主を見やる。

「ほう、悪運だけは強いな」

「……兄上……」

 世子の視線の先にいたのは、世子の兄であるようだ。翠月は世子の背中越しにその人物を見て、固まった。そしてさあっと血に毛が引くのが分かる。

 兄上、確かに世子はそう言った。その人物こそがあの、世子と出会った日に町中で出会った両班の若い男であった。

 ひょこっと世子の背中から顔を出す翠月に気づいた世子の兄が、「ほう」と息を吐き出して、馬から下りる。

「そなた、また会ったな」

 その言葉が翠月に向けられたものであると世子はすぐさま理解して、翠月を振り返った。翠月はおろおろとするばかりで、状況を説明する余裕もない。

 くっく、と世子の兄は笑い、翠月と、そして世子に向かって説明した。

「わたしは第一皇子、陽の宮、夏月。そなたが秋月の許嫁とやらだったとは」

 いよいよ窮地に立たされた翠月は、世子の背中から一歩前へ歩み出て、そうして慌てて頭を下げた。

 両手を前に組んで礼をして、そのあと翠月は、深く深く頭を下げた。

「その節は、大変申し訳ありませんでした……」

「まったくだ」

「翠月、そなた兄上と知り合いなのか?」

 世子だけが話についていけないようで、翠月は世子を見て、小さな声で、

「はい。町中でお会いしたことがございます」

 だが翠月の声は夏月に丸聞こえで、夏月はけたけたと笑い声をあげる。

「『町中で会った』? 嘘を言え。そなた、わたしにたいそう横柄な態度をとったではないか」

「……! も、申し訳ありません」

「なんだ、わたしの身分が分かったとたん、したてに出るのか」

 つまらん奴だ、などと夏月はいうが、実際、知らなかったとはいえ第一皇子にあのような態度をとったとなれば、翠月はただでは済まないだろう。

 それは覚悟しているが、それでも謝るほかに方法はない。

 夏月は世子のほうを見て、忌々しげに顔をゆがめた。

「秋月。そなたここになにしに来た」

「……紅葉狩り、にございます」

「紅葉狩り? そなたいつからそのような庶民の娯楽に興味を持った?」

 言わずとも夏月には分かる、紅葉狩りに連れ出したのはほかならぬ翠月であると。だが、あえて聞いてやったのだ。

 そのように、平民のおなごに振り回されて、王族としての自覚が足りない、矜持がないのだ、となじるつもりなのだ。

 世子はそれでも、なんら臆することなく答えた。

「わたしもそう思っていましたが。紅葉を愛でるのも悪くありません」

「ほう?」

 夏月は一歩、また一歩歩みを進めて、とうとう世子と翠月の目の前まで来る。

 翠月はいまだ頭を下げたままであるが、世子はまっすぐに夏月を見据えていた。

「わたしと狩りで勝負しろ」

「兄上……?」

「そなたが勝てば、許嫁の不遜は許してやる。もし断るというのなら、わたしがじきじきにその女を罰するが」

 にやり、夏月の笑みは本気のそれである。断れば確実に翠月は罰を受ける。 

 それが世子にもわかったため、世子は仕方なしにその申し出を受け入れることにする。もとよりこの場をうまく片付けるには、それしか方法がないようだ。

「分かり、ました。わたしが勝ったら、翠月を不問に付してください」

「ああ、男に二言はない」

 翠月がアワアワするなかで、ふたりは話をつける。夏月は内官に持たせていた狩りの道具一式を世子に渡して、自身は馬の上へと移動する。

「そなたの馬は、あちらだ」

 と、夏月が指さした馬は駿馬ではない、宦官たちが乗ってきた馬たちである。だが、それも致し方のないことだ。不利な条件下の元、二人の皇子は狩りへと繰り出した。

 内官に連れられて、翠月は待機所で待つことしかできない。どうかご無事で、祈るのは世子の無事のみである。自身の不遜のことも忘れて、ただひたすらに祈るしかできなかった。


 世子が狩りに出るのはもうだいぶ久々であった。その上、乗っている馬は自分の馬ではなく、やや気性が荒い。

 さらには弓も自分のものではないとなると、なかなか骨の折れる狩りとなることは必至であった。

 馬を走らせしばらくすると、林の木の陰に鹿を見つける。

「よし……」

 牡鹿だ、この林の長なのであろう、立派な角を生やした鹿である。

 世子はその鹿に狙いを定める。

 だが、世子が矢を放つ前にひゅっと世子の目の前に矢が飛び交い、馬が驚き世子を振り落とした。

 夏月の矢が、世子を狙ったのだ。

「兄上?」

 落馬したものの、世子は受け身を取っており、遠くに見える夏月は「ちっ」と舌打ちをしている。

 世子が落馬した音によって、牡鹿は逃げおおせる。今度は世子が舌打ちをする番だった。

「くそっ、また探さなければ」

 立ち上がり、世子は再び馬にまたがる。

 遠くにいたはずの夏月の姿は、もうない。出遅れた、と世子はいよいよ焦り始める。

 だが、落馬の音を聞いた内官たちが、青ざめた顔で世子のもとへと走り寄ってくるのが分かる。

「世子さま、世子さま、ご無事ですか」

「大事ない。わたしは」

「ああ、世子さま、衣が汚れて……世子さま、もう狩りはおやめに」

「うるさい!」

 馬の手綱を引き、世子は再び獲物を探し出す。

 なにがなんでも夏月に勝たねば。そうでなければ翠月を守れない。そんな気持ちとは裏腹に、世子は純粋に夏月に邪魔をされたことが気に入らなかった。

 正々堂々と狩りで勝負をしない兄に、どうしても勝ちたかったのだ。


 世子の落馬の知らせを聞いて、翠月もまた、居てもたってもいられなくなり、世子を探して走り出す。

 だが、ひとりで走り出した手前、誰がどこにいるのかさっぱりわからない。

 昔は遊び慣れていた林であったが、ここ何年か来たことはなかった。故に、林のなかは迷路のように翠月を翻弄した。

「どこ、どこなのよ」

 はあはあと息を切らして、衣の裾を破きながら走る翠月だが、どうやらみなとはぐれたのは間違いなさそうだ。

 こんなことならば、誰かと一緒に行動すればよかった。宦官を振りほどいて走り出すんじゃなかった。

 いつもそうだ、自分は浅はかで、後悔ばかりなのだ。

 泣きたくなる。

 世子が負ければどのみち翠月は罰を受けるが、そんなことはどうでもよかった。今は、世子の安否のほうが先である。

「……え?」

 びゅん! と、矢が翠月の右ほおを切り裂くように飛んでいく。翠月の前方の気の陰に、夏月の姿があった。

 そして、翠月の後ろには、大きな猪が一匹。

 夏月の矢が猪に見事に当たり、猪は一発で仕留められた。

「そなた、正気か?」

「あ……」

「このような山奥で、弓矢も使えぬおなごが」

「私……」

 いまさらになって、翠月は自分がだいぶ危険な状況にあったことを知り、その場に腰を抜かした。

 生きている。助けてもらった。

 翠月にはなにがなんだか分からない。

 もしも今、夏月が猪を射止めなかったら、翠月は確実に死んでいた。

 そもそも、この林がそんな恐ろしいところだとは思わなかった。こんな場所に世子を連れてきて、万が一なにかあったらと考えると、自分の浅はかさが恨めしかった。

 その場に座り込みはらはらと泣き出した翠月に、だが夏月は同情も優しくもしてやらない。

「立て」

「……ひっく」

「立て! そなた、それでも許嫁か?」

「私、は!」

 震える足に力を込めて、翠月は立ち上がった。いまだ腰も抜けているし、うまく立てていないに違いないが、それでも翠月は、意地を見せた。

 立ち上がり、夏月を思い切りにらむように見据える。夏月もまた、翠月のほうをじっと見ている。

「私、好きで許嫁になんかっ!」

「ほう、それはわたしではなく秋月に直接訴えるんだな」

「……あなたはっ、なんであなたは世子さまの兄君なのに、世子さまを敵対視するのですか」

「……分かり切ったことでろう」

 夏月は馬をゆっくり進めて、翠月の元まで歩かせる。そうして翠月の横まで来ると、その手をぐっと引っ張りあげて、自身の馬の上へと乗せた。

「や、私、一人で帰れます故」

「そなた、まだ分からぬか。この林は獣が数多いる。食われるのがおちだ」

 翠月は馬から下りようとするが、だが暴れることはしなかった。先の件で学習したのだ。世子と馬に乗ったとき、暴れて落とされそうになったこともあり、馬を驚かせないようにと、夏月への抵抗がうまくいかない。

 そうこうしているうちに夏月は馬の手綱を引いて、走り始める。こうなってしまえば翠月の抵抗など無駄に等しい。

 いくら翠月とて、走っている馬から飛び降りるほどの胆力はない。

「そなた、わたしが王族と知ったとたんに態度を変えたな」

「……それは……」

「だが、案ずるな。あのときの私は王族ではなく両班として町に出た故。全て不問に付す」

「……え?」

 意外であった。翠月は夏月の意外な一面を垣間見た気がして、思わず夏月を振り返った。

 だが思ったよりもすぐ近くに夏月の顔があり、翠月は驚き再び前を見る。

 馬は走り、狩りの最初の地点へと向かう。翠月はただ、黙って夏月に抱きかかえられるようにして、馬に乗っていることしかできなかった。


 狩りの結果は、夏月の勝ちであった。

 夏月は大きな猪と、それからウサギを何匹か仕留めたが、世子のほうはなにも仕留めることが出来なかった。やはり、落馬した影響が大きかった。

 それに加えて、妙な圧力のせいで本領を発揮できなかった。この勝負に負ければ翠月が罰を受ける、それが世子の動きと思考力を鈍らせたのだ。

「ははは、秋月。わたしの勝ちだな」

「兄上……ですが、兄上が牡鹿の狩りを邪魔しなければ、わたしにも勝算はありました」

「負け惜しみを」

 確かに夏月は世子が牡鹿を狩るのを阻んだ。だが、当の夏月はそれをひとつも悪いとは思っていないようだ。

 高らかに笑いを漏らして、世子を見くだし笑っている。

 世子は顔をゆがめる。まるで子供のようだと翠月は思う。夏月がではない、世子が子供のようだと思ったのだ。

 世子はまるで、兄である夏月に負けたことが不服であるように、いじけたように顔をゆがませたのだ。

 だが夏月にとっては、それこそが気に入らない理由なのだ。

「兄上。狩りには負けましたが、どうか翠月のことは……」

「ならぬ」

「兄上!」

 はて、と翠月は首を傾げた。先ほど夏月は、翠月のことは不問に付すと言ったばかりである。

 だがなぜ今度は、「ならぬ」と言うのだろうか。翠月に言った言葉は単なる戯れで、嘘で、からかったのだろうか。

 翠月は世子と夏月の間に割って入る。

「夏月さま。私のことは不問に付すとおっしゃいましたよね?」

「さあ、なんのことやら」

「……男に二言はないものではないのですか?」

「……そなた、わたしに口答えするのか?」

 夏月が翠月を見おろした。だが翠月は、一歩も引かない。、夏月を見上げて、まっすぐに、ひるむことなく。

「でも、先ほど夏月さまは私を許すとおっしゃいました」

「……はあ。そなた、やはり強気なおなごだな」

 夏月はやれやれ、と肩を竦めて、今度は世子のほうを見る。

「このおなごの件は水の流す」

「兄上? 本当ですか?」

「ああ。そなたも不憫だな。このようなおなごが許嫁とは。王さまもなにをお考えなのか」

「……っ!」

 今までならば、世子は夏月にどんな嫌味を言われても平気であった。自分が第二皇子でありながら世子になったことも、夏月になに一つ敵わないことも。

 それなのに、翠月のことを言われると、どうにも我慢ならない自分がいた。

 大きく息を吸い込んで、世子は夏月に目一杯の反抗を見せた。

「兄上にとっては『このような』おなごでも、わたしにとっては『唯一無二の』おなごです」

「……! そなた、兄に向かって口答えをするようになったか」

 忌々しそうに顔をゆがめて、だが夏月はそのまま踵を返す。これ以上は言い争う気はないようだ。

 馬に乗って、そうして宦官たちを引き連れて、夏月は去っていく。

 仕留めた猪とウサギを担がせながら、夏月は後ろ手に、

「わたしが狩った獲物はわたしの腹に収まる故、心配無用だ」

 それが翠月に向けた言葉だとは、誰も気づかなかった。


 夏月を見送って、翠月と世子も帰路につく。もうだいぶ日は暮れて、山道は暗い。

 翠月は今日一日の出来事で、世子が世子になりたくない理由を垣間見た気がした。

「わたしと兄上は仲がよくなくてな」

 訊いてもいないのに、世子のほうから話し始める。翠月はただ黙ってそれを聞くのみだ。

 馬の揺れが心地よい闇の中で、世子の声はよく聞き取れた。

「わたしは兄上になに一つ敵わない。なのに世子に選ばれた。本当ならば兄上が世子に選ばれるべきなのに。なぜわたしが……」

 世子は夏月が好きなのだ、兄として尊敬している。だからこそ、自分の力で打ち負かしたい。それができればきっと、世子は王の後継として自分を認められる。だが実際、世子はなにひとつ夏月には敵わない。

 だから世子は、自分は世子にふさわしくないと考えて、王宮から離れてあの簡素な屋敷に住んでいるのだ。

 思ったよりも根深い問題だと翠月は思った。だが、知ってしまったからには力になりたい、そう思いながら、ふたりで暗い道を、ゆらゆらと揺られるのだった。





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