月物語

空岡

第1話 皇子様

序章


 青い空が少女を飲み込んだ。


 決して裕福な家柄ではない、だが少女はなんの不自由もなく暮らしていた。

 普通の家の、普通の家族との、普通の暮らしを、少女は幸せに思っていた。

 時折、友人たちと、「王宮の女官になれたら、毎日ごちそうが食べられるわね」と冗談半分に話すことはあったものの、少女にとって王宮は夢のまた夢、まるで無関係な世界であった。

 友人たちは着飾りごちそうの並べられた膳を毎日出され、世話役の侍女に何事をも世話されて、そういう生活がまさに「幸せ」そのものだと、うっとりとした表情で語っていた。

 だが少女には、そうは思えなかった。

 賤民ならまだしも、少女の身分は平民である。平民とはいっても、そこいらの平民に比べればはるかに裕福な暮らしぶりで、それは友人たちもうらやむような生活であった。

 それゆえなのか、はたまた少女の父母が少女を慈しんで育てたせいか、少女はまるで王宮になど興味を持たなかった。

 それだというのに。

 少女は青い空の下、静かに泣いた。

 とある昼下がり、少女は突如として独りとなった。

「そなたの娘を王宮によこせ」

 少女の家に押しかけてきたのは紛れもなく王宮の女官という者たちで、そうして女官のうちの一番偉いであろうその人物――尚宮が、少女の両親に向けてそう言ったのだ。

 尚宮たちは、少女の屋敷の門をくぐるや、家に上がることもなく、少女の両親にはっきりとそう言ったのだ。

 ぱちくりと目をしばたたかせることしかできない少女に対して、少女の両親は尚宮に平伏し、まるで考える様子もなく、その申し出を受け入れた。快諾である。

「お父様、お母様? 私、王宮になんて行きたくないです」

「もう決まったことなんだ。どうか聞き分けておくれ」

「お父様……?」

「ごめんなさいね、翠月。私たちはこの申し出を断るわけにはいかないの」

 それは、尚宮から交換条件に金品を受け取ったからであろうか。

 それともこれが、王命であったからなのだろうか。

 翠月にはその真意は分からない。分からないながらも、翠月はそれに従うほかになかった。

 本当は翠月にも分かっている、尚宮が直々に家に来たとなれば、それは平民には計り知れぬ事情があるということも。

「お父様、お母様。今まで育ててくださり、ありがとうございました」

「翠月」

「翠月、元気でね、翠月。私の娘……」

 翠月、若干十九にして、涙の別れを経験したのだった。


 そうして翌日には、翠月のもとに迎えがよこされる。

 華美な輿が屋敷のなかに運び込まれ、翠月は一晩中泣きはらした顔で、尚宮たちに言われるがままに輿に乗り込んだ。

 人一人がやっと乗れる大きさの輿であるが、これを担ぐのは十数人の男たちである。

 最大限揺れることのないように、ましてや落とすことのないように細心の注意を張り巡らせて、輿が持ち上げられた。

 翠月は輿の窓を少しだけ開けて、自分を見送る父母を見た。

 涙を目からこぼす両親を見て、翠月は紛れもなく自分は両親に愛されていることを再認識した。

 さようなら、お父様、お母様。

 心の中で最後の別れを済ませて、翠月は輿の窓を閉めた。

 春の陽気が心地よい、ある日の出来事である。


 輿に揺られながら、翠月はこれからの身の振りかたを考えた。

 そもそも、自分が王宮に呼ばれた理由はなんなのだろうか。女官になるにしては輿をよこされるはずもないし、それでは、もしや王さまの側室だろうか。

 いや、側室なんてありえない。現在の王さまはもういいお年だと聞いている。今更側室を迎え入れて、なんになるのだろうか。そもそも、自分が側室として見初められるほどの器でないことは翠月が一番よく知っている。

 それならば、何故自分は王宮に呼ばれたのだろうか。

「そなたが翠月か」

「……はい」

 そうこうしているうちに、輿が王宮内へと入り、翠月はとある部屋に案内された。

 王の居所ではないようだ、王宮の中でも端の方の宮殿に呼ばれ、翠月は姿勢を正しくその場に立ち尽くした。

 目の前に座る女はこの王宮の女官の中でも最も偉い人物、尚宮よりも上座に座っていた。

「目上の者に礼もできぬのか?」

「あっ、も、申し訳ありません」

 言われて翠月は、慌てて両の手を前で組んで、そうして膝をついて恭しく頭を下げた。だが、その作法はぎこちないもので、女はふう、っとため息を吐いた。

 翠月はいそいそと下座に座り、女の顔を横目で見る。怒っているように見えた。もしや自分がここに呼ばれた理由は、なにか自分が気づかないだけで、王宮の人間に粗相をしてしまったのだろうか。そうとしか考えられない。

 それならば、先に謝ってしまったほうが傷は浅くて済む。

 翠月はおもむろに床に手をついて、そうして今度は先ほどよりも深く、深く頭を下げた。

「も、申し訳ありません」

「……?」

「わたくしは、平民の身分でなにか粗相をしてしまったのでしょうか。でしたのならばどうかこたびだけは寛大な措置を……」

「なにか勘違いしているようだな」

 女の顔がフッと緩む。

 翠月は女の言葉にそっと顔を上げると、女は翠月をまじまじと見て、ふうっと息を漏らした。

「そなたは今日から、この宮殿に住むのだ」

「私が……?」

「そうだ。そなたにはあるかたの『許嫁』になってほしい」

「え? 許嫁?」

 まるで寝耳に水である。

 翠月は女の言葉を反復し、目をまん丸にして驚いている。

 傍で見ていた尚宮は、翠月の反応は予想内だったようで、眉一つ動かしていない。

 女は翠月を手招きする。

「ちこう寄れ」

「は、はい」

 膝立ちになって一歩、女の前へとにじり出た。

 女は翠月のあごに手を添えて、そうして翠月の顔を前から右から左から、翠月の顔を動かしながら、まるで品定めするように見渡している。

 翠月は居心地の悪さを感じるも、なにも抵抗はしなかった。

 それよりも、妙な緊張が体を支配して、体が固まって動けなかった。

 なぜ、誰の許嫁になるのだろうか。頭の中はそのことでいっぱいである。

 やがて翠月の顔を見終えた女は、ふうっとため息を吐いて、そうして翠月の目をまっすぐに見据えた。

「今日からそなたには、世子さまの許嫁になってもらう」

「……え、世子さまって……」

「この国の世継ぎであらせられるお方だ」

 さあっと血の気が引いていくのが分かる。翠月は、「そんなの私には無理です!」と即答で答えたものの、どうやらこの決定事項は覆せないようだ。女も尚宮も、首を縦には振らない。

「あんまりです、私はただの平民の娘です。世子さまに釣り合う身分じゃありません」

「身分に関係なく、これは星読みで出た結果故に、覆すことは出来ぬ」

「星読み……?」

 どうやら、女は星読み――巫女であるようだ。

 巫女は尚宮などの他の女官よりも高い地位を得ることがある。それは主に、巫女が占いによって天災を免れたり、王族の病を治したり出来る唯一無二の存在だからである。

 とはいえ、病を治すのは基本的に患者が軽い体調不良を起こしたときのみであるし、天災を免れることが出来るのもまた、自然の流れを読めるからであるのだが。

 巫女といえどただの人間、つまりできることは普通の人とさほど変わらない。

 他と違う点があるとすれば、それは巫女たちにはほかの人間よりもわずかばかり医学に詳しかったり、邪気や気候や天気や風の流れを読めることである。

 だが、それは思いのほか貴重な才能であり、ゆえにこうして、尚宮よりも上座に座れるような、そんな本物の巫女が存在するのだ。

「翠月、といったか」

「は、はい」

「今日から私、月読がつきっきりで宮中の掟を指南する故、しばらくは私と寝食を共にしてもらいます」

「で、でも私、見知らぬひとと結婚なんて……」

「……よいですか。そなたの役割は許嫁ではありますが、そなたが世子さまを好きになる必要はありません。それから、そなたはそなたの好きなようにして構いません」

「え?」

 翠月は身を乗り出して訊き返した。

 許嫁になれと言っておきながら、その相手である世子を好きにならなくていいとはどういうことなのだろうか。まるで話がかみ合わない。

 そもそも、なんで自分なのだろうか。

「私の星読みでそなたが世子さまの許嫁にふさわしいと出た。だが、世子さまとそなたが好きあう必要はない」

「じゃあ、私はなんのために存在するんですか?」

「……そのうち分かる。さあ、今日はもう疲れたであろう。風呂を用意させる故、入ったらこちらの衣に着替えて、寝なさい」

 女が差し出したのは絹の衣だ。白い寝間着は、肌触りのいい絹でできている。光沢も品があって、翠月は恐る恐るそれを受け取った。

 滑らかな指触りに、思わずため息が漏れる。

 生まれてこのかた、こんなに上等な絹の衣を触ったことがない。むろん、着たこともない。

 花弁がちりばめられた風呂と、肌触りのいい絹の衣のおかげか、翠月は少しばかり今の置かれた状況を忘れることが出来た。


 翌日の朝、翠月は月読によってたたき起こされた。朝は卯の刻である。

 翠月は眠い目をこすりながら、ようよう布団から起き上がる。

 昨日は結局深夜まで寝付けなかった、翠月は温かく柔らかですべらかな絹の布団にもっともぐっていたかったのだが、月読がそれを許してはくれなかった。

「翠月、起きなさい。朝ですよ」

「……月読さん……こんなに朝早くになにをするんですか」

「朝食を作るのです」

「え……?」

 宮殿の暮らしといえば、朝食も身支度も、おつきの女官がするものと認識していたのだが、どうやら翠月はそうはいかないようだった。なぜだろうと思いながらも翠月はそれを聞くことはしなかった。

「朝食は粥と魚と漬けもの、それから卵をゆでたものと」

「ええ、そんなに作るのですか?」

「なにを言うのですか。そなたは今後、世子さまに料理を作って差し上げなかればならないのですよ」

「え、私が作るんですか?」

「その言葉遣いも改めなさい。『わたくしが作るのですか』、そう言い直しなさい」

「……わたくしが……作るのですか」

「そうです。そなたが作るのです」

 翠月は手を動かしながらも口を開くのをやめない。

「でも、私は世子さまを好きにならなくていいんですよね?」

「『でも、わたくしは世子様を好きにならなくてよろしいのですよね』」

「……わたくしは世子様を好きになりませんのに、何故料理をしなければならないん……のでしょうか」

 かしこまった言葉遣いは慣れない。どうしても途中で素が出てしまいそうになる。

 たどたどしく、やっとの思いで質問した翠月だが、それだけでどっと疲れてしまう。やはり、王宮暮らしはなじめそうにない。

「世子さまの許嫁にはなっていただきますが、結婚するかといわれたら、話は別なのです」

「え?」

「いいですか、翠月。そなたは世子さまをこの王宮につなぎとめる大事な役割を担うのです」

「つなぎとめる?」

 翠月はもはやなにがなんだかわからなかった。つなぎとめる、というのはどういうことなのだろうか。

 首をかしげる翠月に、月読は粥をしゃもじでひと混ぜしながら、ふうっと息を吐き出した。

「世子さまは、王さまのあとを継ぐお気持ちが有らせられない。王宮にもほとんどいらっしゃらない」

「……?」

「そこで、王の息のかかったそなたが、世子さまの御心を掴み、世継ぎとしてご自覚いただけるように説得する。それが、そなたの役割だ」

 あんまりだ、と翠月は思う。

 それは、自分への扱いもそうであるが、まるで世子に選択権がないことに対してでもある。

 翠月はふうっとわざとらしくため息を吐き出すと、卵の殻をむきながら、月読の顔を見ないで言ってやった。

「分かりました。私が世子様の御心を掴めるかは別として、私は世子さまの味方になります。世子さまの好きなように生き、好きなひととご結婚できるよう、私は月読さんに教えていただいたこのお話を、世子さまにすべてお話しますよ?」

「ええ、そうしなさい」

 まるで月読にはそれが予想内だったとでもいうかのように、柔らかな返事と笑みが、返ってきた。





一、皇子さま


 月読に指南されてひと月後、翠月はその日を迎えた。

 初夏の日差しが暑すぎる、そんな朝のことであった。

「初めまして、翠月と申します」

「……」

 案内されたのは、簡素な造りの屋敷だった。なんなら、翠月が住んでいた屋敷のほうが立派で大きいくらいの、本当に簡素な家である。

 そこに、かの世子さまがいたのだ。

 簡素な家とは裏腹に、世子は見目麗しく、そして上等ではないとはいえ、絹の衣をまとっていれば、なるほどどうして、彼が特別な存在であることは一目で分かった。

 小屋の中に入ると、世子が机の前に座り書物を読んでいた。翠月には目もくれないありさまである。

 だが翠月はこのひと月月読から教わった通りに、礼儀よく世子に礼をして、自己紹介をする。

「この度、わたくし翠月は、世子さまの許嫁としてご挨拶に参りました」

「……興味ない」

「え?」

「だから、興味がないと言ったんだ。どうせ大方、わたしを王宮に連れ戻す算段で、そなたがここによこされたのだろう?」

 眉目秀麗なかただとは都中の噂になっていたほどであるから、翠月自身も知っていた。

 だが、それ以上に頭が切れる。世子はすぐさま、翠月の役割も、よこされた理由もズバリと言い当てた。

 翠月は一瞬たじろぐも、そもそも翠月自身も、ここに来たのは本意ではない。

「そうでございます。わたくしは、世子さまを王宮に連れ戻すための駒にすぎません」

「……そなた正気か? それを聞いて、わたしがそなたを追い返すことは目に見えているであろう?」

「はい。ですが、わたくしとて嘘を吐くのは本意ではありません。それに、月読さんからも、私の好きなようにしていいとのお達しがありましたので」

「はは、いかれてる」

 世子は参ったと言わんばかりに両手を上げて、そうしてその場に立ち上がり、翠月の前へとにじり寄った。

 翠月はじっと座って世子を見ているのみである。

 仮にここで翠月が世子に気に入られなくとも、翠月にはなんら関係のないことなのだ。

 世子が王宮を離れてこのような場所に暮らす理由もなんとなくわかった気がする。翠月はこの一か月、月読のもとで王宮暮らしをして、世子の気持ちを少しだけ理解したのだ。

 王宮は窮屈すぎて息が詰まる。

「そなた、わたしが打ち首だと命じたらどうするつもりだ?」

「まさか。世子さまはそのようなことは出来ませんよ」

「『出来ません』? なにをもってそう言い切れる?」

 世子なりの脅しであったに違いないが、翠月は意外にも冷静であった。

 この一か月、月読のもとで過ごした時間がそうさせたのか、生来の性格なのかは分からない。そもそも、そのどちらもなのかもしれないが、翠月は生死を目の前にしても、一切怯むことはなかった。

「世子さまはご自分の権力や立場を嫌われているかたです。そんなかたがわざわざ権力を行使して、わたくしを打ち首になんてできましょうか」

「……ほう、なかなか自信家だな」

「ええ、こう見えて男勝りで有名でしたのよ」

 翠月は昔から男子と遊ぶことが好きな、明朗快活な少女であった。

 猫が木に登ったのを追いかけて、木から降りられなくなったり、夏の川で魚取りをしたり、秋の森に探索に行ったり、冬の雪の中を駆け回ったり。

 おおよそ、女の子らしいことはしてこなかった。

 唯一、料理だけは母親に仕込まれていたため、月読に感心されたほどであるのだが。

「わたしはそなたに興味を持つことはない。故に、すぐにくにに帰れ」

「わたくしもそうしたいところなのですが、なにぶん、わたくしはもう二度とくにには帰れないのです」

 翠月の顔が少しだけ曇った。世子は翠月の言葉にに耳を傾ける。

「世子さまが生きている限り、わたくしは許嫁として王宮の外には出られません」

「それならば、わたしが命じて自由の身にしてやる故」

「それはいくら世子さまでも無理です。これは王命なのですから」

「……はぁ」

 大きなため息とともに、世子が諦めたかのように、やれやれと肩を竦める。

「それは悪いが、そなたには一生籠の鳥になってもらうほかあるまい。わたしはこの屋敷を離れることはしない」

「それでは、わたくしも一緒にこちらに住みます」

「何故そうなる? ここは狭い。二人で暮らす余裕など……」

「そうですか、そうですね。ではわたくしは王宮に戻り、ひとりで寂しく、世子さまの許嫁として生涯を閉じます」

 翠月の言葉に他意はなかった。覚悟はしていたものの、やはり世子にこのように断られてしまうと、どうしても自分本位な言葉しか出てこなかったのだ。

 しゅんとしょげる翠月を見て、世子は大きなため息を吐いた。

「……それは脅しか」

「え?」

「はぁ、分かった。一緒に住むくらいなら。だが、嫌になったらいつでも出ていけ? ここはあくまでわたしの私邸だ」

 翠月の顔がぱあっと明るくなる。世子は内心で「やれやれ」とため息を吐きつつも、なぜ自分がこの少女を受け入れたのか、分からなかった。

 分からないなりに考えた。

 少女はいきなり王宮に連れられて、そうしてきっと、なにもわからぬままに自分の許嫁として教育されて、自分のもとに送られた。

 見ず知らずの場所で独り、見知らぬ男の許嫁にされた。

 それはあまりにも不憫だと思ったのだ。故に世子は、翠月を受け入れてしまったのだ。

「よろしくお願いします、世子さま」

「その呼び方はやめてくれ」

「では、なんとお呼びすれば?」

「月の宮、秋月(しゅうげつ)。それがわたしの名前だ」

「月の宮さま……これからよろしくお願いいたしますね?」

 ふわりと笑うその笑顔が、世子の心を少しだけ明るくした。

 物おじしない翠月の、心からの言葉と笑みが、少しだけ世子の心を照らした。

 だからといって、心を許したわけではない。

 どうにかして、翠月を許嫁の責から外して、生家に帰してやらねば。

 そうでなければ、世子自身もまた、王の言いなりになってしまう。

 そんなことを考えながら、世子は厨で料理をする翠月の横顔を見守った。

 あまりにも嬉しそうにしているものだから、少しの間、王宮から離れたこの土地で暮らさせてやるのも悪くない、と、そんな考えが一瞬だけよぎり、慌てて否定した。

「なにを考えているんだ、わたしは」

 よもや自分が人恋しさにかられるとは、思いもよらなかったのだ。


 翠月は厨に入るや、その食材の多さにまず驚いた。

 さすがは世子といったところであろう、平民では手に入らない食材が所狭しと並べられていた。なにより、おつきのものが毎日食事を作っていたようで、翠月は最初その女官にどう説明しようかと悩んだ。

「そんな、許嫁である翠月さまにお料理をさせるなどと」

「いえ、でも、わたくし、世子さまのお世話をするように言われてここに来ましたの。月読さまから聞いていませんか?」

「そ、それは聞いておりますが……」

 女官の役割を翠月が担う。それはつまり、女官の仕事を翠月が奪うことを意味する。

 世子の世話を外された女官はどうなるのだろうか。

 きっと王宮にもどり、そこできらびやかな王族方のお世話をするに違いない。

 それはきっと、こんな小さな屋敷に勤めるよりもいいことのはずだ。

「わたくしが今日から世子さまのお世話をしますので、あなた方たちは王宮に帰ってよろしいかと」

「ですが、ですが……」

「いいのです。これがわたくしの役割ですから」

 女官は最後まで世子や翠月の身を案じていた。実によくできた女官だと翠月は思った。

 どんな場所で仕えようと、女官は女官なりに世子に誠心誠意尽くしているのだ。

 それに比べて自分は、仕方なしにこの責を受け入れた。見倣わなくてはと思う反面、それでも自分は自分なのだと思い直す。

 翠月は厨で料理をしながら、どうやって世子を説得しようか考えていた。

 無理に世子を世子として王宮に連れ戻すことはしたくない。それではあんまりだと翠月も分かっているからだ。だが、このままではいけないことも分かっている。世子は仮にも世子なのだ、その責を放棄するのならば、このような場所にいないで王宮で王さまを説得するべきである。いつまでも逃げて暮らすわけにはいかない。

「世子さま、出来ました」

「ん、あ、ああ」

 世子がずっと翠月の様子をうかがっていたとは露知らず、翠月は食卓に料理を並べ、世子の部屋へと運んでいく。

 その料理は世子のおつきの女官にも劣らぬもので、言ってしまえば王宮での料理に引けを取らないくらいに豪華なものであった。

 それは月読が翠月に料理を仕込んだ賜物であるのだが、世子はそのようなことはみじんも知らない。

「すごいな、驚いた」

「どうしました?」

「いや、そなたは料理がうまいのだな」

「……それは召し上がってから言ってください」

 照れ隠しに、翠月は世子より先に料理に箸をつけてしまう。箸をつけたあとにハッとして翠月は世子の方を見たが、世子は「気にするな」と、自分も料理に箸をつけた。

 怒られなかったことに心底安堵して、翠月は世子の動向をそっと見守った。さて、自分の料理は口に合うのだろうか。

 世子の口が開き、煮た魚をぱくり、口に入れた。

 世子は甘めの味付けが好きなのだと月読から聞いていたため、今日の煮魚はやや甘めに煮つけた。翠月にはやや甘すぎに感じたそれだが、果たして世子の口に合うのだろうか。

「……! うまいな」

「……そ、そうですか?」

「ああ。そなた、わたしの味の好みまで把握しているのか?」

「……はい、一応そのように仕込まれましたので」

 翠月は照れと申し訳なさでいたたまれなくなる。まるでこれでは、自分は世子に取り入ろうとしているように感じてしまったのだ。

 世子の好きな味付けで料理を作って、その距離を縮めて、そしていつか、自分を晴れて自由の身にしてくれたらと思ったのだが、それはすなわち、世子の自由を奪うことになる。

 世子が王宮に戻れば、退屈な宮殿暮らしが待っている。それから、世子としての教育も。

 世子は何故、世子の座を受け入れないのだろうか。

「世子さま、は」

「なんだ」

「何故、このようなところに暮らされて――」 

 それ以上はなにも言えなかった。世子の目が、悲しみに染まっていたからだ。やはりそなたもそれを聞くのか、そんな目をしていた。

 踏み込んではいけなかったのだ、世子にとってそれは、ただ唯一それだけは、触れられたくない最大のものなのだ。

 翠月はいたたまれなくなりその場に立ち上がる。

「申し訳ありません、わたくし、夕餉の食材を買いに行ってまいります」

 本当は逃げ出したいだけだ。食材など、毎日王宮から届けられるそれで事足りると、先ほど女官たちからいろいろなことを申し送られた。

 だが、なんとかして理由を作って、この場から去りたかった。そうでなければ、世子と決定的な溝ができてしまいそうで怖かった。

 ひとには触れられたくないものがひとつや二つ存在して当たり前だ。それを、会って間もない自分がずけずけと踏み込んでしまって、翠月は自分の浅はかさを恨んだ。

「私、馬鹿ね」

 昔から考えなしなところがあった。なんでも思ったことは口にする性格故に、男の子とけんかになることも多々あった。それになにより、翠月は嘘が下手だ。

 だから、世子がなにに悩んでいるのか、気になり始めるとほかのことが手につかない。自分でも情けないほどに不器用なのだ。

 ああだこうだ考えて歩いていたせいか、翠月は慣れない町で、一人の男にぶつかってしまった。前を見ずに歩いていたため、気づかなかったのだ。

「す、すみません」

「……『すみません』? 誰に向かってそのような口を」

 ぶつかった相手は運悪く横柄な男であった。強面の男は翠月をぎろりとにらみ見くだし、翠月はそこで初めてこの危機的状況に気づいておろおろとするばかりである。

「も、申し訳ありません」

 見るに、上等な絹の官服を着た男は両班だ。厄介な人物に目をつけられた、と翠月は身の振り方を考えるも、翠月に勝ち目など無いに等しい。たかが平民である翠月には、両班に敵うことなど一つもなかった。

「へえ、いい衣を着ているな、そなた、どこの娘だ?」

「や、いえ、私は」

 男がぐっと翠月の右手を掴み、そうして自分の方へと引き寄せる。髭を生やした顔が下卑た笑いで歪んでいる。

 気持ち悪い、誰か助けて。

 翠月はそう思うも、声にはしなかった。月読に教え込まれたのだ、世子の許嫁たるもの、なにがあっても気丈に振る舞うこと。ましてや、人の目につくような行動は慎むこと。

 本来の翠月であれば、言われっぱなしなど考えられない。明らかに言いがかりをつけてきたのは男の方であるし、町人も町人で、翠月を助けようとはせずに、だが二人の動向をひそひそとみていることが気に入らなかった。

 ああもう、どうにでもなれ。

 とうとう我慢ならなくなり、翠月は男の手を思い切り振りほどいた。

「私は! 女だからと――」

「おい、なにをしている?」

 翠月が声を張り上げた時、両班の男の背後からもうひとり、若い男が現れて、そうして両班の男はその声にびくりと体を震わすと、振り返り恭しく頭を下げた。

「も、申し訳ありません、陽の――」

 若い男は右手を上げて、両班の男の言葉を遮った。両班の男は口を一文字に結んで、そうして頭を下げたままに、若い男のほうへと歩く。

 若い男のほうは、翠月に気づくと悠長な足取りで翠月の前まで歩き、身体をかがめて翠月の顔をまじまじと見てきた。

 失礼な男たちだと思いながら、翠月もまた、若い男の顔をまじまじと見てやった。端正な顔立ちだ。だがどこかで会ったような気もする。どこでだったか。

「そなた、わたしの連れがすまなかったな」

「……ええ」

「『ええ』? そなた、自分は悪くないとでも言うのか?」

「……確かに私も前を見ていなかったのは悪うございました。でも、因縁をつけてきたのはそちらの両班のかたの方です」

「ほう、なかなかじゃじゃ馬だな」

 若い男はふん、と鼻を鳴らしながら、翠月をにらみ下ろす。翠月もまた、男をにらみ見上げる。

「わたしが何者か知って、そのような態度をとるのか?」

「……両班だからと、なにが偉いのですか」

「ほう?」

「私は確かに平民です。でも、それだけで卑下されるのはおかしいでしょう?」

「それは、謀反ととるが」

 男は意味深に笑うも、翠月は一切怯まない。

 確かにこのような、身分制度への反発を口にするのは謀反に等しい。だが、だからといってすぐに捕らえられることもない。常日頃から民は同じことを思って生きているはずだ。

 故に、翠月を捕らえるというのならば、この国の民全員が同じ罪に問われてしかるべき。

 なによりも翠月は、自身の立場に慢心していたのかもしれない。

 少し前までならば、翠月もまた、ただの平民だったに違いない。だが今は、世子の許嫁という立場も相まって、少しだけ気持ちが大きくなっていた。

 翠月が一切怯むことなく男に言い返したため、男は気分を害したかのように踵を返した。

「そなた、名は」

「名乗るほどのものではありません」

「顔は覚えた。此度は許すが、次はないと思え」

「もう二度とお会いすることはないと思いますが」

 減らず口は相変わらずで、男は返した踵をさらに返す。再び翠月のほうを見て、男はズイっと翠月のほうへと顔を寄せた。

 そうして男は懐から扇子を取り出し、それをばっと広げる。町人がざわつくのが分かった。だが、翠月にはその意図が分からない。

 男は持っていた扇子を閉じると、翠月を再びにらみ見る。

「無知もそこまで来るとお目出度いな」

「……?」

「そなたは所詮平民だ。取るに足らない、ただの平民なのだな」

「……だったらなんだというのですか。両班がそんなに偉いのですか? 作物を作る農民や商人がいなければ国はまわりません。それだというのに、私たちを見くだして楽しいですか」

 精一杯の去勢である。

 本来平民が両班に口答えなど許されるはずもない。だが、先に述べた通り翠月は本来男勝りな性格であり、それに加えて今は、世子という後ろ盾がある。無意識だとしても、翠月は世子の許嫁という立場から、普段に輪をかけて気持ちが大きくなっているのだ。

 男は、ふうっと息を吐き出す。まるで話にならないと言いたげに、翠月から両班の男のほうに視線を移して。

「力づくで分からせたいところではあるが、悪いがわたしは今から大事な用事がある。故に、見逃してやる。さっさとわたしの前からいね」

「……見逃す? たいそうなご身分ですこと。言われなくとも、私はもう行きます故。たいそうご立派なひとなんでしょうね、あなたは。それでは、失礼いたします!」

 最後に嫌味をたっぷりと言い放って、翠月は男の前から駆け出した。

 本当は心臓が破裂せんばかりにばくばくと早鐘を打っていた。打ち首にされてもおかしくないことを言ってしまった。それなのに、翠月の口は止まらなかった。言われっぱなしは性格上許せなかった。

 それになにより、世子との関係でもやもやとしていたうっぷんを、誰かにぶつけて発散したかったのかもしれない。

 翠月はそんなことを考えながら、世子の住む屋敷までの道のりをひた走った。

 あの両班がもし自分を追いかけてきたらどうしよう。もし訴えられたらどうしよう。

 いまさらになってそんな不安が押し寄せるが、幸いにも男たちが追いかけることも訴えることもなかった。

 走り去る翠月の背中を、男は忌々しげに見ていた。

「『たいそうな身分』ねえ。言ってくれるな」

 男のつぶやきは、誰にも聞かれることはなかった。

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