第2話 そして『スクールオブラグナロク』は、秋葉原から消えた
※この物語は、虚実入り混じったフィクションである。
世界中で猛威を振るった新型ウイルスをきっかけに、私自身のゲームライターとしての生き方は大きく変わった。各社でリモートワークが推奨されるようになり、インタビューもオンラインで行うことが増え、昔と比べて東京に出ることも少なくなった。自分のように地方から出て何日も泊まり込み、また帰るなんてやり方は不可能となり、地方に戻ってリモートで働くライターも増えている。編集部に泊まり込み、椅子を並べて朝まで必死で原稿を書くなんてことは、今だと不可能だろう。働き方改革も推進されるご時世では、冷暖房も電気も消えた夜の編集部に泊まり込み、徹夜で原稿を書くことも難しい。ライターと言えども、労働環境の変化には逆らえないのだ。
有象無象の社会不適合者が、体臭を放ちながらコントローラーを握りしめて寝落ちしているなんて光景は、もはやはるか昔のことだ。良いことでもあり、寂しいことでもある。たまに人が少ないフリースペースを訪れ、朝から夕方まで仕事をこなして帰ると、もはや自分は必要がないように思えてきた。スパルタで技術を叩き込んだ先輩も、毎日泊まり込んで攻略に明け暮れた後輩も、ほとんどが消えて別の業界に行ってしまった。そのうちゲーム雑誌は消えると見切りをつけていなくなった者、webライターの台頭による原稿料の変化に納得がいかなくなった者、理由はさまざまだが、ゲームを遊んで物を書くという仕事に対しての向き合い方は、今や大きく違っている。
メーカー自らが、動画や企画でユーザーに情報を届けやすくなったこと。ネットの浸透。文字でゲームをレビューすることへのコストパフォーマンスの悪さ。動画での批評やゲーム配信での一体感を求めるユーザー層の変化。時代とともにゲームを語る行為にも変化が生じ、もはや文章によるゲームレビューも、ライターによるPRに近い記事も、廃れゆく文化なのかもしれない。残るとしても、それは共感を得やすい「好きを押しだしたゲームの感想」か、逆に酷評する場合はインテリゲンチャによる文化を多層的な視点から捉えた「歯に衣着せぬ批評」か、いずれにせよ中途半端な存在では生き残れないのだろう。それに何を発言するのにも気を使う時代ならば、気を遣うメンタルの人間よりも、炎上を良しとして金に換える者のほうが生きやすい。
いずれ、自分もその波に飲まれて消えていくのだろうか。もしくは闇落ちして、炎上を良しとするクソゲーYoutuberに生まれ変わるのだろうか。そんな薄暗い気持ちとは裏腹に、まだしがみついていたい執念と、しがみついてどうなるという気持ちがせめぎ合う。ゲームは好きだが、自分の感覚を言語で伝えることにはやや疲れている。
タイパが叫ばれる時代は、わかりやすさを求めていた。この話のようにわかりづらくこねくり回した、一見してゲームの話なのか、燃え尽きた人間の昔語りなのか、何が言いたいのかわかりづらい、とっつきにくい物に人は興味を引かれない。たとえ、誰か1人が求めていたとしても、多数に求められなければ消えていくものだから。
自分の仕事に対して、こんな感傷的な気持ちになってしまったのは、今でも毎日『スクールオブラグナロク』という単語で検索しているからかもしれない。
◇
2015年11月8日。
その日、私は偶然起動したTwitchのライブ配信で、なんとはなしにゲームの公式大会を見ていた。公式大会にも関わらず、200人から250人ほどの視聴者しか閲覧していなかったそのゲームは『スクールオブラグナロク』。本当に、偶然と言えるくらい何かゲームの大会が見たくてTwitchで大会の様子を見たのだ。タイトルだけは知っていた。確か、稼働したばかりのアーケードゲームだ。後輩が「稼働したばかりなのにオンラインが過疎で、対戦を成立させるのが難しい」と嘆いていたのを覚えている。いや、待てよ。8月27日に稼働したばかりのはずなのに、人がいない……?
そんなバカな。
大手のゲームメーカーが鳴り物入りで出した大型アーケード筐体のはずだ。
私は頭に引っ掛かっていた彼のひと言が気になり、公式大会の配信を見始めた。ライブ配信で見るだけでも、欠場が多いことがわかるその大会は、独特の空気が漂っていた。爆炎が飛び交うバトルは、よくわからないものの楽しそうに見える。基本的には3Dのフィールドで陣取りをするゲームのように見えるのだが、近づくと2D格闘ゲームのようにカメラが切り替わるのも新しかった。やたらと多いコンパネのボタンも気になる。格闘ゲームなのか、陣取りゲームなのか。ネットで軽く調べると、ジャンルは「オンライン1vs1タクティカル5Dアクションゲーム」という2Dでも3Dでも4Dでもない次元に到達していることだけがわかった。画面も操作も何やら複雑に見えのだるが、プレイしている人たちはそこまで難しく遊んでいるようには見えない。
大会の様子を見るだけでも、インカムが苦戦していそうなことは想像できた。もしかすると、このゲームはすぐに遊べなくなってしまうかもしれない。私はすぐにプレイ……と行きたかったのだが、すでに地元には筐体が置いていなかった。次に東京へ出たときに、秋葉原へ行こう。そこならきっと、必ず置いてあるはずだ。
◇
本格的に始めたのは、12月17日。大型バージョンアップによって、『スクールオブラグナロク』が『スクール オブ ラグナロク Re:Boot』というタイトルに生まれ変わってからとなる。配信をみたあと、すぐに『スクールオブラグナロク』を遊ぶための「NESiCA」(アーケードゲーム専用の認証カード)を作ったものの、いろいろと忙しく、本格的にプレイするのは遅れてしまった。その間に、3店舗あった秋葉原の筐体は2店舗のみとなり、『スクールオブラグナロク』は希少種となってしまった。
このまま遊ばなければ一生遊べなくなる。意を決して私はリブート後に東京レジャーランドへと向かった。当時、秋葉原で『スクールオブラグナロク』を遊べたのは、クラブセガ1号店と東京レジャーランドの2店舗。そのうち、クラブセガは階段を上がった目立つ位置に置かれていた。東京レジャーランドはエスカレーター前だが、柱が死角になっていて、そこなら背後を気にせず落ち着いて遊ぶことができた。私は、東京レジャーランドをホームに決めて、仕事帰りに『スクールオブラグナロク』を遊び始めた。キャラクターはルル&ノノ。リブート後に登場した新キャラクターだ。新キャラクターというものはたいてい強い。初心者で始めるならコレだろう。
幸い、バージョンアップ前も操作を覚えるために数回遊んでいる。初心者ではあるが、ほかの初心者よりも遅れは取らないだろう。そう思ってついに全国対戦へ挑んだ自分は、そこで大きな問題にぶち当たることとなった。
まったくマッチングしないのだ。
鍛えられた上級者かリブートで戻ってきた人はいるのだろう。だが、肝心な初心者ランク、ルーキーランクでは全然マッチングしない。平日の午後とはいえ、アップデート日にここまでマッチングしないということは、初心者は少ないのだろうか。
確かにパッと見のとっつきにくさはある。レバーに加えて8個のボタンに、フリーカメラ操作。同時押し。プレイヤーである転校生に加えて、パートナーである学園神への指示。陣取り要素からの近接の駆け引き。一見すると、覚えることが多そうに見えるのだ。しかし、実際に遊んでみると意外と慣れるもので、必殺技も2ボタン同時押しだけで発動できる。レバーの方向との組み合わせで使い分けられるので、コマンド入力は必要がないのだ。意外と直感的に動かせることに感動を覚えたほどだ。
ボタンの多さだけではなく、画面内の情報の多さもとっつきにくさに拍車をかけていたのかもしれない。残り時間、自分と敵の体力ゲージ、拠点の状態を示すミニマップ、心・技・体の拠点に応じて溜まるスキルゲージ、学園神の体力、神わざゲージ、画面下の神がかりゲージ、スタミナゲージ、ショットゲージ。さらに、自分が使っているルル&ノノには専用ゲージのラブリーストックがあり、まずどこを見ていいのかわからなくなるかもしれない。実際に遊んでみるとあっさり理解できるし、状況に応じてどこを見ればいいかわかるのだが、きっと外から見ていた人は何がなんだかわからなかっただろう。遊んでいると、たまに興味本位で覗きに来る者もいたが、すぐにどこかへ行ってしまうのは、そうしたとっつきにくさがあったのかもしれない。
その日、CPUと10回戦うのを繰り返したがマッチングできたのは2回だった。しかも、ぶつかったのは同じ相手。きっと、リブートを機に始めた仲間だろう。なぜかうれしくなって、画面に向かって微笑んでしまった。ネットの向こうに、人がいた。
◇
次の休日も、また何度も同じ人とぶつかる。同じ人を倒し続けた結果、ランクEからDまで上昇し、マッチングの確率は少し上がった。自分と同じルル&ノノで始めた人たちばかりなのだろうか。ランクEやDは、ルル&ノノばかりで同キャラ対戦が続いた。どうしてもほかのキャラと対戦したかった私は、知り合いと連絡を取り合って同じ時間に対戦しようという話さえしていた。実際は、時間を合わせていないのに何度か友人に当たったことがある。それくらい、人が少ないのがネックだった。人がいないわけではない。少ないのでマッチングしないのだ。自分と同じく、リブートを機に始めた初心者はいるはずなのに。確かにそこにいるはずなのに、出会えない。きっとそれは、画面の向こうでマッチングしようとした誰かも同じ気持ちだっただろう。
◇
ランクCまで上がった私は、ごくまれにマッチングする対戦が楽しくなっていた。マッチング待ちのCPU戦はトレーニングモードだと思えばいい。待つ時間も楽しいのだ。対戦さえ成立すれば、このゲームにもこのゲームとしての面白さが、間違いなく存在している。自分以外に遊ぶ人をまったく見かけず、店内対戦すら起きなかったが、それでも全国の誰かと当たる日もある。ただ、秋葉原では誰も新しくプレイする人はいなかった。誰もいないからと、椅子の上でカードを広げて休憩する外国人の姿すら見かけるほどだ。私は、いっそのこと筐体を買うべきなのではと思い始めていた。人が少なすぎて快適に遊ぶどころか、このままでは遊べなくなりそうだ。
「スクール オブ ラグナロク Re:Boot」で中古筐体を検索すると、3万円で売りに出されているのを確認した。この値段ならすぐに買える。あとは、田舎に置く場所とネットワーク環境が作れるかどうかだ。ある日の夕食時、親に恐る恐る「スクールオブラグナロクという大型アーケードの筐体を買ってもいい……かな?」と聞いてみた。しかし、サイズを確認した親は、またバカなことを言っていると首を横に振る。
「最後まで責任持って買える?」
「捨てたくなったらどうするんだ?」
ペットを飼いたいと頼む小学生を諭すように、両親から次々と質問を返された。
「そんな大きいもの、うちには買って置くスペースがないでしょ」
「飽きても簡単には捨てられないんだぞ」
もはや、完全に『スクールオブラグナロク』よりも動物を飼う前の会話である。
「置く場所は、ほら、親戚の農家が放置してる土地があったじゃん。あそこにプレハブを建てて置けば、なんとかなるんじゃないか……と……」
ダメもとでも、提案してみる。
「インターネットに繋げる必要があるって言ったじゃない。あそこ、森の中よ」
「熊も出るぞ」
もし買えたとしても、熊が出るのは困りものだ。『スクールオブラグナロク』で対戦している相手が、ネットの向こうで熊を背に戦っているとは想像つかないだろう。それに、登録できたとしたら個人の名前が店舗名として出ることになるのだろうか。それはそれでおもしろいが、両親が許すわけがない。結局、アーケード筐体のネット契約が個人で出来るのかもよくわからないままだった。電気代がいくら必要になるのかも不安だ。そもそも、なんと言って親戚に土地を借りればいいのだ。さまざまな理由が重なり、結局のところ私は『スクールオブラグナロク』筐体の購入を断念した。
今思えば、あれが『スクールオブラグナロク』を買える最後のチャンスだったのだろう。もし、あの時買っていれば、森に置いておけば、何か変わったのだろうか。
◇
その日は、突然やってきた。
2016年4月18日、秋葉原から最後の『スクールオブラグナロク』が消えたのだ。
ゲームなら、なんでもあるわけじゃない。オタクの聖地とは偽りだ。秋葉原のゲームセンターですらも、置かれなくなるものはある。そして都内からは次々と『スクールオブラグナロク』が消えていった。9月には7店舗となり、それから一年後。2017年6月30日に『スクールオブラグナロク』は、ネットワークサービスを終了した。それ以前の段階の6月24日時点で、ネットワークが稼働しているのは茨城県のブックオフのみとなっていたのだが、最後の『スクールオブラグナロク』の火が消えたのだ。
その後、『スクールオブラグナロク』の筐体はコンバートされて『フィギュアヘッズエース』というゲームに生まれ変わる。そちらは、14カ月でサービスが終了したので、22カ月もった『スクールオブラグナロク』よりも短い生涯だ。こうして、『スクールオブラグナロク』として存在していたものはすべて消え、夢は終わったのだ。
◇
もう二度とプレイできない『スクールオブラグナロク』を昨日のことのように思い出す。格闘ゲーを嗜む人たちからは格闘ゲームとは見られず、そうでない人たちからはややこしい格闘ゲームと思われ、とっつきにくさから敬遠されていたゲーム。遊ぶ場所も、遊ぶ人もどんどん消えていったし、リブートも『フィギュアヘッズエース』への転生も、うまくいったとは言い難い悲しいアーケードゲーム。だが、自分が遊んでいたときの気持ちは、自分が楽しいと思った気持ちは、確かに本物だったのだ。
遊べなくなったゲームは、もはや想い出として語ることしかできない。オンラインを使うアーケードゲームは、中古としても形が残らない。サービスが終わったスマートフォンのソーシャルゲームと同じ、幻のようなものだ。もっとも、ソーシャルゲームは機能限定版などをリリースできるという意見もあるかもしれない。だが、機種変更をしたらそれまで。たとえば、自分が課金を重ねて全キャラを入手したソーシャルゲーム『サクラ革命』は、4年近く使ったスマホが限界を迎えて買い替えたため、機能限定版を起動できなくなった。物事には終わりがあり、消えゆくものだ。
ただし、ゲームは求められる限り生き続ける。求める者が多ければ多いほどサービスは続き、ゲーム自体が無限の命を獲得していく。求められることが必要なのだ。
そうではなく、求められないゲームには価値がないのだろうか。私には、わからない。だが、たとえ終わったゲームでも、誰かがいつか思い出す限り、それが忘れられることはないはずだ。亡くなった人を誰かが思い出せば、その人がいた痕跡は再び世の中に戻る。完全に忘れ去られてしまったとしても、誰かが覚えていたという事実を永遠に消すことはできない。それは、ゲームも同じだ。語る者がいれば、消えない。
とはいえ、人生の最期に遊ぶためには、やはりゲームとしてこの世に残り続けてもらわねばならない。そうした点で、最期まで残る可能性は家庭用のビデオゲームやアナログのゲームのほうが大きいだろう。もちろん、それらも永遠に新しいハードで遊べたり、劣化を防げるとは限らないのだが……。物事は、いつも突然終わるものだ。
◇
人生の最期に遊びたいゲームは、まだ見つからない。
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