第十八話 嵐の前の静けさ

 早朝。アトラスは胸騒ぎがして目を覚ました。ニッキーが戻ってくると直感していた。根拠はない。ただなんとなくそんな気がするのだ。幼い頃からそうだった。アトラスはバークとユリーカが紛争に勝利して難民キャンプに戻ってきた時も数時間前に予告した。シンディばあさんがその日のことをよく話していたから知っている。人の気配を感じ取ったり考えていることを言い当てたりする力は気味悪がられ、子供時代はよくいじめられた。

 アトラスは武器庫から自室に戻って煤だらけの服を着替え、ジョンを起こしに行った。

 ジョンは部屋で眠っていた。アトラスは何度も叩き起こして済まないと思っている。だが、アマンダ絡みの件で頼み事ができるのはジョンしかいなかった。

「ジョン、起きてくれ」

「……またっすか」

 ジョンは部屋に誰かが入ってきた物音で目覚めかけていたようだ。嫌そうな顔でアトラスを睨みつける。その表情はどことなくジェシーにもアマンダにも似ている。顔の造形は似ていないのに不思議なものだった。

「ニッキーが戻ってくる」

 その言葉でジョンは跳ね起きた。

「いつですか?」

「もうすぐ。東側に向かうよ」

「東? アイツらまさか立入禁止区域に……?」

「だろうね。でも、2人一緒じゃない。戻ってくるのはニッキーだけだ」

「ニッキーだけ?」

「うん」

「根拠は?」

「僕の直感だよ」

 ジョンはそれだけで納得する。アトラスの能力を信頼している証だった。

「レアド先生も呼びに行かないと」

「いや、レアド先生はいいよ」

 ジョンは身支度を済ませると先に出て行こうとするが、アトラスは止めた。数日前の夜、ジョンとレアド先生はニッキーがいなくなったことを話し合い意気投合したらしい。だが、ニッキー本人とレアド先生の関係がよくなったわけではない。あの父娘を対面させると新たな火種が生まれそうなのでアトラスとしては引き離しておきたかった。

「レアド先生はきっとニッキーを真っ向から叱りつける。僕らの都合でバークヒルズから一時的に追い出したのにニッキーが怒られたらかわいそうだ」

「あの人はそんなことしませんよ。あんなに子煩悩じゃないですか」

「だからこそだよ」

「……アトラス兄さんが言うなら」

 立入禁止区域と面しているバークヒルズの東端まで行くと、既に数人の人が群がっていた。地平線の彼方から現れた馬と人の影に早朝から働き始めている人達が気付いたのだ。

「アトラス! 誰か来るよ! ほら、見て!」

 アトラスとジョンは町の人達の前に出て、向かってくる影と正面から対峙した。ゆっくりと近づいてくるその影はスプラッシュとニッキーだった。

 げっそり痩せて、服も汚れ、いつもきちんとセットされていた髪もボサボサのニッキーは目を腫らし、頬に涙の跡をつけていた。

「ニッキー……!」

 ジョンがスプラッシュに駆け寄った。ニッキーは涙をこぼしてジョンを見下ろした。

「ジョン……ごめんなさい……」

「今はいい。降りろ。怪我ないか?」

「私は平気……でも、アマンダが……」

「何かあったのか?」

 スプラッシュから降りたニッキーはジョンの胸に顔を埋めて泣いた。

 その様子を後ろで見ていた人達は何も言えなかった。アマンダのことは賛否両論だが、ニッキーを嫌う人はいないのだ。愛想がよくて働き者のニッキーを頼りに思う人も少なくはない。アマンダの名誉を回復させようとニッキーが動いているのも皆が知っていた。

 出勤途中だったダニエルもその様子を人だかりの向こうから見ていた。泣いているニッキーを励ます役目を自分が担えなかったことを苦々しく思っている。ニッキーが帰ってきて嬉しいはずなのに、ダニエルの心境は複雑だった。

「あ、アトラス兄さん」

「……はあ……はあ……。え? アトラス兄さん……?」

 そこへ、早朝ランニングに出ていたジェシーが現れた。ジェシーに付き合わされてコーディも息切れしながら走っている途中だった。

 ジェシーの声を聞いてニッキーは顔を上げた。その目に先程までの弱さはなく、ジェシーに向かって明らかな敵意を示していた。

「ジェシーさん、あなた一体アマンダに何て言ったのよ!!」

 ニッキーは鬼の形相でジェシーに歩み寄った。ジェシーはばつの悪そうな顔でニッキーから目を逸らした。その態度が余計にニッキーを怒らせた。

「アマンダがどれだけあなたの言葉で傷ついたかわかってるの! ねえ! 何とか言いなさいよ!!」

 ニッキーはジェシーの胸倉を掴んで揺すった。ジェシーは力なく突っ立ったままで反撃も何もしない。

「おい、やめろニッキー。幹部だぞ」

 ジョンがニッキーを止める。ジョンの手がニッキーに触れると、ニッキーはそれを振り払った。

「その前に一人の兄じゃない! 妹を敵に売り渡そうとするだなんて、兄のすることじゃないわ!」

「ジェシー兄さんにも考えがあったんだ! もう済んだことで責めるなよ!」

「何も終わってない! アマンダは今も……1人で……」

 ニッキーはまたしくしく泣き出した。ジェシーは顔を覆って泣くニッキーの長い赤毛をただ見つめている。その髪を撫でてやった回数はアマンダを撫でた回数よりはるかに上回る。ジェシーの姉のハンナと仲が良く、実の妹以上に交流があったニッキーにここまで言わせた自分が情けなかった。

「僕のしたことは責められるべきことだ。君が殴りたいなら好きなだけ殴れ」

 ジェシーは勇気を振り絞ってそう言った。ニッキーは顔を上げたが、そこにあったのは怒りでも憎しみでもなく、諦めの表情だった。

「あなたなんて殴る価値もない」

 ニッキーはスプラッシュの手綱を引っ張って歩き出した。ジョンとアトラスがスプラッシュのことは任せて休めと説得した。どっと疲れが出たニッキーはその好意に甘えて家に帰ることにした。

 人々はひそひそ噂をしながら自分達の仕事を始めるために散り散りになっていった。取り残されたジェシーはぐっと拳を握りしめて泣くのを耐えていた。コーディだけがそんなジェシーを隣で見守っていた。


*     *     *


 リヴォルタの研究所の地下には、隔離実験室と呼ばれる四重の壁で厳重に隔離された広い部屋がある。サッカー場分の広さで、天井は30mの高さがある。柔軟性があり、壊れにくい素材のタイルで床も壁も天井も覆われている。普段はコピアの実験に使われる部屋だが、その日は中央にぽつんと一台のベッドが置かれていた。

 ベッドにはバンドで全身を固定されたピートが寝ている。少し離れた所には防具をつけたカズラがいた。

 スピーカーの電源が入り、ごそっというノイズが入る。

「カズラ、準備はいい?」

 その声はサルサだった。隔離実験室の様子はカメラでモニタールームから確認できるようになっている。モニタールームにはサルサの他にウォルトとリズとコピア災害対策本部の面々がいて、ピートとカズラの一挙手一投足を観察している。

「準備とかそういう問題じゃないですよ。何ですかこれ?」

「ピートの身体検査です。まずはバンドを外してくれる?」

「いや、そうじゃなくて。私は学者ですよ。何でこんなことしなくちゃならないんですか」

「アマンダ・ネイルとニッキー・レアドを逃がした罰です。少しは協力しなさい」

「えぇ……」

 カズラはあからさまに不満そうな顔をした。たしかに怒りに任せてアマンダを怒鳴りつけ、警戒されて逃げられたのはカズラの落ち度だ。しかし、それとこれとは話が違いすぎる。

「カズラさん。心配しなくても、俺、大丈夫ですから。加減しますよ」

 ピートはネツサソリの毒にやられ、ウォルトのコピアで一時回復したが、驚異的な筋力だけがそのまま残ってしまった。その力は水の入ったコップを割り、ベッドの支柱の金属を捻じ曲げるほどだ。この実験はピートの筋力がどれほどかを確かめ、物を壊さないように手加減させるリハビリでもあった。

「加減がわからねえからこういうことになってるんじゃねえのかよ」

「まあ、そうなんですけどね」

「笑いごとじゃねえよ!」

 ピートが苦笑するのを見てカズラはより不安になる。この人事はカズラなら剣術のために体を鍛えているからピートが加減を誤っても上手くよけてくれるだろうという都合が見え見えなのだ。カズラはたしかに素早く敵の動きを見切って攻撃に転じるのが上手かったが、それは高校生の頃の話だ。今は試合形式の剣道はやめ、ひたすら剣技を磨くための剣術に転向している。破壊力が未知数のドーピングマンと手合わせしても大丈夫なわけではない。

「カズラさん。僕が入れなくてごめんなさい。本来なら僕がその役を引き受けるべきですが、チーフガンナーが未成年は危険な任務に従事させられないと」

 申し訳なさそうにするウォルトの声がスピーカーから流れる。ピートとは正反対の礼儀正しい物言いだ。カズラは少しだけ気持ちを和らげる。

「いいんだよ。こういうのは、どうせ私の仕事だってわかってるからさ」

 ウォルトは亡くなった義弟、レンの後輩コピアガンナーだ。育ちが良く、礼節も忘れないのでカズラは一目置いていた。

 だが、それとこれとは別問題だ。ピートの破壊力がどれほどかわからない現状、気を抜くことはできない。カズラは恐る恐るピートが寝ているベッドに近づき、バンドを解いた。ピートはピクリとも動かずに待っている。というより、自分でも怖くて動けないのだろう。遠くからではわからなかったが、ピート自身も自分の体の異常な変化を恐れているのだとカズラはようやく気付いた。

「できたぞ」

それなりの距離を取ってからカズラは報告する。モニターでも確認すると、サルサが次の指示を出す。

「では、ピート。まずは親指だけを動かしてみてください」

「はい」

 ピートは右手の親指を曲げ伸ばしする。

「次は人差し指」

 サルサの指示に従ってピートは一本ずつ指を動かす。ピートはやりながらどの程度の力加減でどれだけ指が動くのかをまるで生まれたての赤ん坊のように実感しながら試す。

「それではピート、ゆっくりと起き上がってください」

 ピートは優しくベッドの支柱に肘をついた。力を入れすぎるとマットレスが破けてしまう。自分の体が羽になったかと思うくらいに軽い力でピートは起き上がり、ベッドに腰かけた。動作が完了すると、ピートは安堵のため息をついた。

「カズラ、ベッドが壊れていないか確認してください」

「はい」

 カズラとピートが実験している様子を見守るウォルトとリズは気が気でなかった。特にウォルトは忸怩たる思いでピートを見つめている。ピートが日常生活を送れるまでにならなかったらウォルトの生活も一変する。おそらくピートは隔離され、ウォルトとのバディは解消されるだろう。命があっただけでもマシというものだが、ウォルトにとってはこれだけでも辛いものだった。

「大丈夫だよ、ウォルト。ピートって運動神経はいい方でしょ? おバカだけど」

「うん……」

 リズが慰めの言葉をかける。ウォルトはそれに頷くことしかできない。

「ウォルト・ナット。ここはチーフガンナーに任せて、君はこちらへ」

 コピア災害対策本部の男がウォルトを別室へ促す。予めウォルトだけに伝えなければならない事項があると言われていた。ウォルトはリズに目配せだけして部屋を出る。

 連れて行かれた部屋にはコピア災害対策本部の研究者の女性がいた。

「IDカードを見せて」

 ウォルトは研究者にIDカードを提示する。研究者は自分の胸にかかったIDカードをウォルトに見えるように掲げる。ミク・カールストン博士と書かれている。細くて色の薄いフレームの眼鏡をかけていて、薄化粧だ。理知的で他人を寄せ付けない雰囲気を持った女性だった。

「これを見て」

 カールストン博士はディスプレイに顕微鏡で観察した何かの映像を映し出した。細胞か何かなのだとはわかるのだが、ウォルトには細かいことはわからない。

「これが現在のピート・ナットの血液です」

 ピートはネツサソリに刺されてウォルトにコピアガンを撃たれた後、すぐにコピア災害対策本部の救急救命室に搬送された。その時に血液を採取されたのだ。

「ピート・ナットの血液中には、ネツサソリの毒とそれを抑え込むウォルト・ナットのコピアが含まれています。これがネツサソリの毒、これがあなたのコピア」

 カールストン博士は指示棒で映像の一部を指し示す。

「あなたのコピアは完全にネツサソリの毒を解毒することはできませんでした。しかし、ネツサソリの毒の効果を半減させることはできています。ネツサソリの毒による発熱、幻覚作用、錯乱などは確認されていません。だが、筋力増強効果だけは残っています」

 カールストン博士がディスプレイを操作してネツサソリの毒とコピアにズームする。コピアはネツサソリの毒を取り囲み、何かをしているように見える。ネツサソリの毒は動き回って時々何かを噴出させている。この噴出しているものがウォルトのコピアで抑え込むことができなかった筋力増強に関わる物質なのだろう。

「この噴出している物質を抽出して検査したところ、ステロイドのような効果のある物質であることが判明しました。ですが、効果はステロイドのおよそ30倍。並みの人間なら耐えられない」

「それがネツサソリに刺された人が亡くなる原因の一つなのですね」

「だと思いますが、まだ全ては解明し切れていません。なにせ、ネツサソリの毒は刺された人間が死ぬと効果を失い、採取した検体から多くの情報を得ることができませんでしたから」

「ピートは運がよかったということですか?」

「いいえ、これは運ではない。あなたの功績よ」

 ウォルトは涙ぐむ。思いがけずピートの命を救ったのはウォルトだとはっきり言われると胸が詰まる思いだった。

「ここからは現実的な話よ。ウォルト・ナット」

「はい」

 ウォルトは鼻をすすって返事をする。カールストン博士は別の映像にディスプレイを切り替える。

「血液中からあなたのコピアだけを取り除いた実験結果がこちら。邪魔するものがなくなったネツサソリの毒は再び活性化し血液の温度を急上昇させ様々な物質を放出します。発熱や幻覚作用が復活するということです」

 ウォルトはブクブクと泡立つ血液の映像に震えた。これが数分でもピートの体内で起きていたと思うと寒気がする。

「これが何を意味すると思いますか?」

 カールストン博士はウォルトに質問した。ウォルトは答える。

「僕のコピアの効果が切れたら、ピートは再びネツサソリの毒にやられるということですね」

「その通り」

 カールストン博士は映像を切った。

「ウォルト・ナット。あなたには勇気ある決断が必要です。これから私達コピア災害対策本部はあなたの弟であるピート・ナットを被検体とし、ネツサソリの毒の解毒剤を開発します。その件に関しては、事前に同じ説明をしてピート・ナットからも了承を得ています。日常生活に復帰が可能と判断したら隔離を解き、定期的な血液採取と実験に参加するだけになります。そしたら今まで通り学校にも行けますし、あなたのバディとしての仕事もできます」

「それはいつになりますか?」

「ピート・ナットの回復次第です。カズラ・コガ博士とのリハビリで日常生活が可能と判断されたら翌日から解放されます」

 これはとても難しい案件だ。心情的には今すぐにでもピートとの生活を取り戻したいが、ステロイドの30倍の筋肉増強剤がピートの血液に含まれていると聞かされたら納得せざるを得ない。

「了解しました。ピートがそれで納得いっているなら、僕が反対することもありません」

「ありがとう。それともう一つ、あなたはこの場で決断しなければならないことがあります」

 カールストン博士はジュラルミンケースから1丁の銃を取り出した。

「これは麻酔銃です。中にはゾウ1頭を3時間眠らせることができる量の麻酔が入っています。これをあなたが所持しなさい」

「何をするためにですか?」

「万が一、ピート・ナットが再び暴走状態になった時、今度はコピアではどうにもできない可能性もあります。ネツサソリの毒にあなたのコピアへの耐性がつき、いつ復活するかも不明です。その時、これでピート・ナットを一時的に昏睡状態にするためです」

「そんな多量の麻酔を打って大丈夫なんですか?」

「血液での検査で割り出した適量です。これだけなければピート・ナットを抑え込むことは不可能です。しかし、血液での検査が肉体で必ずしも有効かと問われると100%イエスとは言い切れません。昏睡状態から二度と目覚めない可能性も捨てきれない」

「そんな……」

「ウォルト・ナット。私にも家族がいます。家族にこんな危険な薬を打つことにためらいが生じるのは重々理解しているつもりです。しかし、これはあなたの弟の名誉を守るためでもあるのです。何度も検査して血液細胞が損傷しないが効果がある量を割り出しました。ネツサソリの毒の解毒剤が完成するまで、これを保険として所持することを私達はあなたに求めるしかできないのです。その代わり、この麻酔銃を持つのはあなただけにします。ピート・ナットが暴走状態になった時、彼の運命を決めるのはあなたです」

「……わかりました」

 ウォルトは麻酔銃を受け取った。

「用件は以上です。ご協力感謝します」

 ウォルトは部屋を出た。2丁拳銃用の両側タイプのガンホルダーが歩くと揺れる。麻酔銃の方が重いため、麻酔銃が収められた左側が斜めに垂れ下がる。こんな危険な物を持たされて平静ではいられなかった。ピートの顔を真っ直ぐ見る自信がない。

「終わったの?」

 ウォルトは床を見つめていた顔を上げる。廊下にはリズがいた。

「リズ……」

「大丈夫?」

「いや……」

 ウォルトは麻酔銃をホルダーから出してリズに見せる。

「この中にゾウに打つ量の麻酔が入っているんだって。もしもの時、僕がこれをピートに撃たなくちゃいけない」

「そんな……」

 リズも青い顔をした。ウォルトは今頃自分もそんな顔をしているのだろうと思った。

「この銃は僕だけに渡すから、必要な事態になったら僕が責任をもって撃たなくちゃいけないって言われたよ」

「重責が増えちゃったね」

「うん」

「私さ、一人っ子だから兄弟のこととかはわからないけど、父を亡くしたことはあるから少しは気持ちわかるよ。もしその場に自分がいて、父を助けられる可能性が少しでもあったなら、私はそれに賭けたかった」

「僕もそう思ったからあの時コピアガンを撃ったんだ」

「なら次もそうするべきじゃない?」

 ウォルトはしばし考える。何もせずにピートを失う恐怖と麻酔を打っても救えなかった時の恐怖を天秤にかける。だが、数秒後、そんなことを悩むこと自体がナンセンスだと気付いた。

「僕もピートも自分の力で明日を切り拓くためにここへ来たんだ。今更、何も怖いことなんかない。ピートが助かる可能性が少しでもあるなら、僕はこれを打つよ」

 リズはウォルトに微笑みかけた。

「よかった。いつもの目に戻ったね」

 リズはウォルトの丁寧に梳かされた髪がくしゃくしゃになるほど撫でた。

「ちょっと!」

 ウォルトはリズの手を撥ね退ける。

「それでこそウォルトだよ。あれこれ悩んで弱気になるのはらしくない。頑張れよ!」

 リズは廊下を歩き去っていった。さっきまでの憂鬱な気分は吹き飛んでいた。ウォルトはリズなりに励ましにきてくれたのだと気付き、子供扱いされたみたいでだんだん腹が立ってくる。

「何だよ、アイツ。急に上から目線になって」

 リズはウォルトより年上だし大学生だし直属の上司でもあるのをウォルトは忘れているわけではないのだが、そんなことでも口に出したくなる気分だった。


*     *     *


 アマンダが1人でリヴォルタの旧研究所に向かっている時、それは密かに計画されていた。ネリ・スクワブと結託した導師は、エイジャ・ガムら数十人の部下を従え、その日のために準備をしていた。

 うす暗い部屋の中央に置かれた大きなテーブルにはバークヒルズやリヴォルタの旧研究所の場所が記されているウェイストランドの詳細な地図が広げられている。

「エイジャ、君は私と一緒に旧研究所へ来てください。」

「了解しました」

 エイジャは導師の言葉に即座に返答する。そこには誰も間に入ることのできない確かな主従関係が見られた。

「ネリ、君はバークヒルズの同行を見張ってください。旧研究所で動きがあれば、バークヒルズの人間も気付きます。彼らが余計なことをしないようくれぐれも注意してください」

「はいよ」

「それと、もう一つ。頼んでいた人材は揃えてありますか?」

 ネリはニヤリと不敵な笑みを浮かべる。ネリの後方には暗くてよく見えないがただならぬ気配のする人物が数人立っていた。導師は彼らの佇まいに満足して頷く。

「それでは、結構は三日後。それぞれ手筈を整えてください」

 部下達は一斉に部屋を出た。導師の率いる団体は着々と組織としての体裁がなってきているのだった。


*     *     *


 カズラはその夜も丸一日ピートの実験に付き合わされてへとへとで帰った。たまにはアオイよりも早く帰ってスバルの相手をしてあげたり、夕食を用意したりしたいと思っている。だが、どうしてもカズラの方が残業も多く、ピートのことでさらに仕事が増えたので全く余裕がない。アオイがどんな気持ちで一人で家事と育児をこなしているのか考えただけでも胸が痛かった。

「ただいまぁ……」

「カズラ、おかえり」

 リビングルームでアオイは1人でお茶を飲んでいた。アケボシ国から輸入している有名な緑茶だ。

「スバルは?」

「もう寝たよ」

「そうか」

 アオイは冷蔵庫から夕食のカツ丼を出して電子レンジで温めた。アオイが作るカツ丼は絶品だった。アケボシ国の本場の味付けを知らないカズラはアオイの作るアケボシ料理が大好きだった。

「カツ丼じゃん!」

 子供みたく喜ぶカズラにアオイもニッコリ笑いかける。子供の頃から家族の料理を用意していたアオイは今でもほぼ毎日欠かさず料理をしている。育ち盛りの男子並みの食欲を見せるカズラにご飯を作ってあげることはアオイにとって幸せなことだった。カズラはどんな料理もおいしいと言って食べてくれる。特にアケボシの卵料理が好きだ。弟のレンはどちらかというとアケボシ料理よりイグニス料理がいいと言いつつ、毎食残さず食べてくれた。いつかはカズラとレンとスバルの3人がアオイの作った料理を絶賛しながら食べてくれる日が来るのだと信じて疑わなかった。

「ピートのリハビリ、順調なんだ。年末までには終わりそうだぜ」

 カズラは食べながら今日あったことをアオイに話す。アオイはお茶を飲みながらカズラの話をうんうんと聞く。

「最初はマジでおっかなかったけどさ、アイツ、運動は得意だから、だんだん加減がわかってきて、もうキャッチボールもできるようになったよ」

「へえ、すごい」

「でもさ、たまにミスってヤベエ球投げてくるんだよ」

「ちゃんと避けた?」

「当たり前だろ! 当たってたら今頃帰って来てねえわ」

「だよね」

「ちょっとは怪我したよ。ほら、ここ擦りむいた」

 カズラは受け身を取ろうとしてすっ転んだ時に擦りむいた膝を見せた。

「あの部屋のタイル、ちょっと弾力性があるんだ。衝撃は吸収するけど、皮膚がこすったら痛えんだよ」

「薬塗っとく?」

「うん!」

 アオイは棚の救急箱から塗り薬を出してカズラの膝に塗る。最近は帰ってくるなりケンカになったり、疲れていて無愛想だったりしたが、なんだか今日はやけに機嫌がいいみたいだ。

「何だよ、アオイ。今日はよく笑うじゃんか」

カズラは嘘が付けないので正直に口に出してしまう。

「そうかな」

「カツ丼もおいしいし、最高だな!」

「ふふ、ありがとう」

「明日は私が先に出てスバルを託児室に連れてくよ。ピートのリハビリが朝早くから始まるから」

「そう? じゃあよろしくね」

 カズラはカツ丼を食べ終わった。サクッとシャワーを浴びようと思い、席を立つ。

「ねえ、カズラ」

「何だ?」

 カズラは真面目そうな顔で何かを言おうとするアオイの顔を見た。

「フュール・マキリ先生を覚えてる?」

 カズラはその質問にドキッとした。

「あぁ、覚えてるよ。私達が大学生の時に亡くなった名誉教授だろ?」

 カズラはその質問をされたら必ず答えようと準備をしていた言葉を早口で言う。

「そう。その人」

「マキリ先生がどうしたんだ?」

「何でもないの。ただ、思い出しただけ。最近ウェイストランドでの事故が多いから」

 カズラは安心した。アオイは単にウェイストランドの安全性を心配しているだけだ。カズラが想定していた疑いは持っていない。カズラもアオイも別の極秘のプロジェクトに参加していて、互いの研究内容については知らなった。カズラの研究対象はアオイが口にしたフュール・マキリ名誉教授の研究を引き継いだリヴォルタの最重要トップシークレットの1つだった。

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