バーク・ロックの息子 後編

 バークとジェシーが試合をするという噂はあっという間に町中に広まった。前日にジェシーがグレイブに勝ったことで、ジェシーの強さがどんなものかと皆が噂し、バークとの試合を一目見ようと町の住民が続々とギャングの宿舎のグラウンドに集まった。

 ハーディ、ローディ、コーディが新入りを集めてギャラリー席を作っていた。夕方の4時に試合が始まるというのに、昼の2時には人が集まり始め、これはきちんと席を用意しないと面倒なことになると思ったのだった。ロープがついた杭を打って格闘場とギャラリー席を分け、前席に椅子を用意した。比較的前に座るのはギャングのメンバーなどの屈強な男達にして、万が一ジェシーとバークの攻撃がギャラリーに当たっても被害が最小限になるようにした。

 前回のバークとの試合のこともあったので、アトラスはいつでも仲裁に入れるようにすぐに格闘場に入れる場所に陣取った。ドキドキしながら開始時間を待っていると、場違いなかわいらしい声が聞こえてきて、アトラスは嫌な予感を抱きながら後ろを振り返った。

「ニッキー! ダメだったら!」

「ジェシーさんの試合が見たいの!」

 男達で埋め尽くされたギャラリー席の後ろでぴょんぴょん飛び跳ねて格闘場を見ようとするニッキーと、それを追いかけてきたハンナの姿があった。

「あ! アトラスさん!」

 ニッキーは屈託のない笑顔でアトラスに手を振る。ハンナは気まずそうな顔でアトラスに会釈をする。

「この子がどうしても試合が見たいって言って聞かないんです」

 申し訳なさそうに話すハンナとは裏腹にニッキーは元気いっぱいアトラスにしがみついた。

「ねえ、アトラスさん。アタシここからじゃ全然見えないの。前の方に連れてって」

 アトラスはニッキーを抱っこした。ニッキーは急に視界が高くなって歓声を上げる。

「わあ! これなら見えるかも」

「いや、ダメだよ」

「え?」

「この試合は子供が見るものじゃないんだ。ましてや女の子が見るだなんて絶対ダメ」

「やだやだ! ジェシーさんの試合見るの!」

「見たって面白くないよ」

「面白いもん!」

「やれやれ」

 アトラスがニッキーへの対応に困っていると、冷徹な顔をしたレアド先生が現れた。ニッキーはそうと気付かずアトラスに一生懸命かわいくお願いしている。アトラスはレアド先生にアイコンタクトを取り、ニッキーを地面に下ろした。

「ニッキー、おうちに帰らないとこわーい人が来るよ」

「怖い人なんかいないもん!」

「そうかなあ?」

 ニッキーが膨れっ面をしてアトラスを睨んだ。その背後に立ったレアド先生はニッキーに声をかけた。

「ニッキー。うちに帰りなさい」

 ニッキーはその声を聞いた瞬間、さっきまでとは打って変わって恐怖に身を震わせた。

「お、お父さん……」

 ニッキーは父が怒っているのだと声音だけでわかっていた。厳格な父親はニッキーがギャングと関わることを大反対している。ギャングの宿舎の近くを通るだけでも怒るほどだった。

「ここは子供が来る所じゃない。お前には関係ない世界なんだ。家に帰ってお母さんのお手伝いをしてあげなさい」

「でも、お父さんはギャングと仲が良いじゃない」

「お前と私は違うんだ」

「違くないもん……」

「わがままを言うんじゃない」

 ニッキーは父親の顔を真正面から見上げることができなかった。父には何を言っても無駄だということはたった10年の人生で痛感していた。ジャッキー・レアドにとって大事なものは患者と紛争時代からの仲間だけで、妻と娘は眼中にないのだ。ニッキーは父親に愛情をかけられた思い出を一つも持っていなかった。

「わかったなら帰りなさい」

 ニッキーは意気消沈して宿舎の出入り口にトボトボと歩いて行った。アトラスは近くにいた弟に声をかけ、ニッキーを家まで送るように言った。

 レアド先生はいつの間にかその場からいなくなっており、後にはハンナとアトラスだけが残された。

「君は帰らないの?」

 アトラスの方から口を開いた。ハンナはぴくっとまぶたを動かしたが、黙したままだった。目を合わせず、何かを考えているようだった。

「ジェシーはグレイブに勝ったんでしょ?」

 しばらくして、ハンナが口を開いた。アトラスは半分誇らしげに、半分はハンナに同情するように頷いた。

「あの子はもう変わってしまったのね」

 子供の頃から妹のようにジェシーをかわいがってきた姉からすれば、ジェシーの成長は素直に喜べるものではないだろう。アトラスにはひしひしとその寂しさが伝わってくる。悪いことではないはずなのに、心が重たくなるのは何故だろう。その行く先への不安があるからなのだろうか。

「バークさんに勝てると思う?」

「わからない」

 アトラスは即答した。本音が言えなかったからだ。ジェシーは強くなったが、バークの強さはそれとは異質だ。バークの格闘術は格闘訓練で身に着けたものではなく、殺し合いの実戦で培われたものだ。相手を先に殺さなければ自分が殺されるという過酷な状況で生き延びてきた人間が格闘訓練ごときで負けるわけがないのだ。

「……私、怖いの。ジェシーが前とは違う人間になってしまうのが……平気で人を殺す人になってしまったらどうしようって……」

 アトラスは何も言えなかった。人を殺したことがあるグレイブにさえ勝てるようになったジェシーはもう既に今までとは違う何かだろう。しかし、ジェシーには志がある。1人でも多くの人の命を救いたいという強い思いがあれば、ジェシーはきっと悪い方には向かないはずだとアトラスは願っていた。

「ハンナ、見て行くか? ジェシーの試合」

 ハンナは止められると思っていたので、アトラスの言葉にはっとして顔を上げた。

「ジェシーは変わったけど、それは体を鍛えたってだけの話だ。心の優しさだけは忘れていない。この試合を見たらきっとわかると思うんだ」

「何でそう思うの?」

「ジェシーはさ、他の兄弟と違って喧嘩で強くなるためにギャングに入ろうとしたんじゃないんだ。ジェシーは病院の設備を整えるためにギャングに入ろうとしているんだよ。そしたら父さんがジェシーにギャングは向かないからって無茶な約束をして、こういう事になってしまった。ジェシーにとってこの試合は目的じゃなくて、目標にたどり着くための手段。だから、きっとジェシーは大丈夫だと思うんだ」

「……見たい」

「え?」

「私もジェシーの試合を見たいわ」

 ハンナの身長ではギャラリー席の後ろからでは見ることができないので、アトラスは自分が確保した椅子を弟に譲り、その後ろの立見席の一番前にハンナを案内した。それでももしものことがあるので、ハンナのそばには自分がいることにして、ハンナに危害が及ばないように備えた。

「もうすぐ試合が始まるね」

 審判のギャバンが格闘場に入ってきた。救護班のローディも格闘場の端に座っている。

意識を集中させているジェシーが静かに格闘場に入る。ジェシーに気付いたギャラリーが歓声を上げる。ハンナはジェシーがそんな風に歓迎されているのを初めて見た。

 続いてバークが格闘場に入ってくる。いつもと同じお気楽そうな態度だ。ギャラリーはボスのお出ましにさっと静まる。

 ジェシーとバークが格闘場の中心で対峙する。バークはジェシーのその佇まいだけで以前よりはるかに鍛え上げられたと見て取る。ジェシーは前回の顔面を殴られた時の恐怖を思い出すが、それを意識に追い出す。

「ジェシー、いいか。これは俺とお前の真剣勝負だ」

 バークは静かに言った。

「俺は手加減しねえし、お前も死ぬ気で来い」

 ジェシーは返事をしなかったが、バークはちゃんとジェシーが聞いていると察した。ギャバンが間に入り、2人は2、3歩下がる。

「始め!」

 ジェシーとバークの試合が始まった。グレイブと違ってバークの体重は平均的だが、その分俊敏さがある。あらゆる戦闘に精通した熟練で、その強さはバークヒルズでは誰もが知っている。たとえ40歳になったとはいえ、まだ衰えは知らない。

 バークが先手を仕掛け、ジェシーの腕を掴んで捻ろうとする。ジェシーは考えるよりも体が先に動き、掴まれそうになる腕を振り上げよける。バークは動きを止めずに肘鉄を繰り出す。ジェシーはバック転してバークから距離を取りつつ肘鉄を回避する。バークの攻撃は止まらない。軽く跳び上がりながら間合いを詰めて勢いに乗ってジェシーに突っ込んでくる。ジェシーはバークの胸倉を掴んで仰向けに倒れる。一発顔に入ったが今のジェシーはそれだけじゃ怯まない。半回転させバークを押し倒して一発お返ししてやった。バークはジェシーの腹に膝蹴りを食らわし、次に横っ腹を蹴り、引き剝がす。ジェシーは痛みに耐えながら横に倒れる。2人はほぼ同時に立ち上がる。

「少しはやるようになったじゃないか」

 バークはニカッと笑った。ジェシーは舐められていると思い仏頂面をする。

「だがまだ甘さが抜けてねえ」

 今度はジェシーから先に動いた。バークは後ろに下がりながらジェシーの攻撃を躱す。ジェシーの素早い攻撃は兄弟達にとっては厄介だったが、バークにとってはさほど脅威ではなかった。

 続けざまに攻撃をしかけるジェシー。ギャラリー席の目前まで下がったバークは攻撃を仕掛けてきた。ジェシーはさっと体勢を低くしてかわす。バークが足をかけようとしてくるのをジャンプでかわし、着地の勢いでバークの正面に突っ込む。だが、体重が軽いジェシーはバークに掴み返され投げ飛ばされる。

「くそっ!」

ジェシーは地面に転がり悪態をつく。己の小柄さに辟易した。しかし、自己嫌悪に陥っている暇はない。ジェシーは早く起き上がって体勢を整えないと、と思った。だが、起き上がろうとしたその時、バークの蹴りがジェシーの後頭部にヒットした。ギャラリー席から軽い悲鳴が上がった。

 ジェシーは起き上がれずに地面に顔をつけた。ガンガンと頭が割れるように痛かった。だが、それ以上に自分の中に得体の知れない感情がふつふつと沸き上がってきて、それに耐えられなかった。

 今、頭を後ろから蹴ったのか? この痛みはそれ以外に考えられない。下手したら首の骨が折れてもおかしくない一撃だった。父さんは僕が死んでも構わないのか? よくそんなことを実の息子にできるね。

 ジェシーは横目でギャラリー席を眺めた。ギャラリー席には町の住民の他にギャングに入った兄弟達がいる。ジェシーと違って体格に恵まれた兄弟達はこんなことをしなくてもギャングに入れてもらえている。ジェシーがギャングに入れなくてもバークは人手に困らない。

 ああ、そうか。父さんにとって息子は僕だけじゃないんだ。もっと強くて、何でも任せられる息子がこんなに沢山いる。女みたいな出来損ないの僕はいてもいなくてもいいんだ。

 ジェシーは泣かなかった。自分の中で何かが変わるのを感じた。痛みも感じない。頭は冴えていた。目の前にいるバークの体だけが視界に入っていた。

 こんな父親、いらない――。

 ギャバンはまだ勝敗を決していなかった。それはジェシーの闘志が消えていないのをわかっていたからだ。ジェシーはまだ試合が終わっていないことを確認すると姿勢を低く保ってバークに突進した。フェイントをかけて背後に回り込み、バークの首に取りついた。バークはバランスを崩して倒れる。ジェシーはバークの首を抱えたまま尻餅をつく。そして、両手で抱えたバークの首を一捻りしようと腕に力を込めた。

「うぐおおおおお……」

 首の骨を折られまいとバークも必死で抵抗した。しかし、ジェシーの細長く強靭な指はどれだけはがそうともバークの頭を抑えつけ続けた。

「ジェシー!」

 アトラスの声がジェシーを正気に戻した。ジェシーは動きを止める。

 今何をしようとした? 

 ジェシーは自分の状況を1つずつ確認しようと辺りを見た。バークの首にかけられたジェシーの手はまるで首の骨を折ろうとするかのような位置取りをしていた。

 僕はどうして実の父親を殺そうとしているんだ?

「そこまで! 勝者、ジェシー!」

ギャバンが叫んだ。ギャラリー席から喝采が沸き起こる。格闘訓練で初めてバークが負けた歴史的瞬間だった。

「何してる、ジェシー。早く離れろ」

 ジェシーは自分がしようとしたことが信じられなくてバークの首に手を添えたままうろたえていた。ギャバンが声をかけても茫然としたまま動かず、目だけがきょろきょろと動き続けていた。

 バークが頭突きをして、ジェシーの手から抜け出した。ジェシーは不意打ちに驚きつつもパッと手を後ろについた。バークはジェシーの眼前に立ち、銃を2発撃った。

 突然の銃声に辺りが静まり返る。何事かとギャラリーが格闘場に一斉に注目する。

 ジェシーは目を丸くして座り込んでいるし、バークはジェシーの目の前に立って銃を構えている。ジェシーの右横の地面に弾丸がめり込んでいた。

「どうして躊躇した!!」

 バークは怒っていた。

「だって、これは試合だから……」

 ジェシーは辛うじて声を出した。

「俺は初めに言ったぞ。これは俺とお前の真剣勝負だ」

「でも僕は父さんを殺すつもりは……」

「甘えるな! 戦場で敵に情けをかけるやつは死ぬぞ!」

「そんな……」

「いいか、ジェシー。ギャングは甘えたやつには務まらない。お前が本気で何かを成し遂げたいと思うなら躊躇するな」

「……はい」

 ジェシーはギャング入りがまた遠のいたと思った。バークに勝てたのに、バークはまだジェシーを甘いと叱りつけた。どうしたらこんな化け物みたいな父親に認めてもらえるのだろう。

 しかし、バークは銃をしまうと嬉しそうな表情でギャバンに大声で話しかけた。

「見たか、ギャバン! 俺の息子が初めて俺に勝ったぞ! 子供は何人いてもいいな!」

 ギャバンは肩をすくめてやれやれという表情をした。

「殺されかけておいてよくそんなことが言えるな」

「当たり前だろ! 息子の成長を喜ばない親がどこにいる?」

「じゃあジェシーのギャング入りを認めるんだな?」

 ジェシーはパッと顔を上げた。バークの返答を待った。

「認める! 約束だからな!」

「父さん……!」

 ギャラリー席にいた男達が一斉に格闘場に侵入してきた。ジェシーを担ぎ上げて歓声を上げた。肩車をされたジェシーは皆の注目を一心に浴びて、両腕を上げて歓喜の叫びを上げた。

 ハンナは人が少なくなったギャラリー席でそれを見ていた。何も言わず、ただ弟の新たな人生の一歩を見届けた。ハンナにそれがどう映っていたのか、誰にもわからない。


*     *     *


 ジェシーはギャングに入ると他の新人達と同じく最初はギャバン教官の厳しい新人訓練を受けることになった。だが、それまでに鍛え過ぎたこともあり、ジェシーにとってそれはウォーミングアップにしかならなかった。3日で新人訓練を止めたジェシーは病院業務を覚えることに着手した。

 まずは病院の1日の流れを知ることからだった。カルテの書き方、薬の保管の仕方、患者とのコミュニケーション、往診などなど、町でたった3人しかいない医者では到底手が回らないほどの仕事量だった。

 略奪部隊が怪我をして帰ってきても、外科的治療ができる医者はレアド先生しかいない。最年長のマゴット先生は内科医だし、女の先生のサラ・ライカ先生は小児科医だった。レアド先生ですら、リヴォルタの事故が起こる前は研修医で、まともに手術を行ったことはなかった。レアド先生の外科的治療法は紛争に軍医的な立ち位置で参加した際に自然に身に着けた我流のやり方だった。

 医療関係の課題は山積みだった。医療物資の供給を強化すれば済むだけの話ではない。人手も不足していれば、技術も足りない。これでは死亡率が上がって当然だ。ジェシーは病院をまともにしていくには何年もかかると思った。だが、諦めなかった。毎日休まず病院に通い、まずは自分が3人の医者達の助手として何でもできるようになろうと躍起になっていた。


*     *     *


 ジェシーがギャングに入隊して2ヶ月が過ぎた。ある日の昼下がり、病院に急患が運び込まれた。女が2人馬車に轢かれたと聞いたジェシーは急いで運び込まれた患者のいる部屋へ向かった。

 間もなく担架で1人目の女性が運ばれてきた。クシャクシャの金髪と派手な色合いの服が見えた。ジェシーは患者の姿を見て、その場で動けなくなった。

「お母さん……?」

 看護師がベッドに移された患者の周りを取り囲んだ。怪我の状態を見て看護師達は即座に治療を諦めた。

「先生、これでは……」

「もう……手遅れです……」

 馬車に轢かれたエミリーは全身を引き裂かれて治療の施しようがなかった。まだ息はあったが意識はない。息を引き取るまでベッドに寝かせておくことしかできなかった。

 2人目の患者が運び込まれた。ジェシーはある可能性を否定しようとしたができず、2人目の患者を直視することができなかった。

「ジェ、ジェシー……」

 俯いて震えているジェシーに患者が声をかけた。ジェシーはその声の主が誰だかわかってしまい、ポロポロ涙をこぼした。

「おいで……」

 患者は死力を振り絞って腕を差し出した。

看護師達は患者に治療をしなかった。意識はあるが、内臓の一部が破裂している。内臓移植でもすれば助かるかもしれないが、バークヒルズでそんな手術はできない。

「私のかわいい弟……」

 患者がそう言った。馬車に轢かれた2人目の患者はハンナだった。

「何でなの……?」

「ごめんなさい、ジェシー……」

 ジェシーはハンナを見た。腹から下に布がかけられていて怪我の具合を見ることはできなかった。朦朧とする意識を奮い立たせ、ハンナはジェシーの手を握ろうと腕を伸ばしていた。

「まだ僕は何も変えられていないのに、どうしてこんなことになったの?」

「お母さんがかばってくれたの……でも、ダメだった……私、死んじゃうのね……」

「嫌だよ! 行かないで! 僕を1人にしないで! お姉ちゃん……!」

 ジェシーはハンナの手を握った。弱々しい右手はローレンスのとは全く異なる温もりをジェシーに伝えた。ジェシーはローレンスが息を引き取った時を思い出す。だんだんと冷えて行き、力をなくしていく手のひらをぎゅっと握ってジェシーは最期まで声をかけ続けた。今握っているハンナの右手はすべすべしていて、優しさに溢れている。ジェシーがうっとおしいと思うほど愛してくれたたった1人の母親を共有する姉。か細くて、でもとても器用で、自分で作ったかわいいフリルのワンピースをジェシーに着せようとした。幼い頃その手に抱かれて寝かしつけられた。弟思いの姉の手だ。

「お姉ちゃん……お姉ちゃん……!」

 ジェシーは子供に戻ったみたいに泣いた。泣き虫なジェシーをいつも励ましてくれた快活な姉がどうしてこんなことになってしまったのだろう。理屈はわかっても心がついてこない。

 ハンナは弱々しく握り返した手を自分の頬に近づけて、ジェシーの手の甲を頬にピタッとつけた。

「あったかいね、ジェシー……」

「死なないでよ、お願いだから」

「ごめんね……」

 ハンナは手を離し、今度はジェシーの頭を撫でる。ジェシーはハンナが撫でやすいように頭を低くした。

「ジェシーは1人でも大丈夫……。私と違ってバークさんの息子だから……あなたは何でもできる……」

 ジェシーはしゃくり上げて泣いていてもう何も言えなかった。伝えたい思いは沢山あった。最近では喧嘩してばかりいたけど、ハンナの存在はジェシーにとってもかけがえのないものだった。母と姉の態度は弟の身を案じるが故のものだとわかっていた。自分は弱くて泣き虫で強情な弟だった。沢山心配かけたことを謝りたかった。どれだけ過酷だったとしても進むべき道を見つけたのだとちゃんと2人に言っておきたかった。こんな形ではなくて。

「お姉ちゃん……バカな弟でごめんなさい……僕はあなたが大好き……今でもずっと……これからも……ずっと大好きだから……」

「私も大好きよ……ジェシー……」

 ハンナは自分の髪に手をやった。もう手の感覚がなくてうまく指を動かせない。ジェシーはハンナの頭に手をやってハンナが何をしようとしているのか探った。花の髪飾りを外そうとしていた。ジェシーは代わりに髪飾りを外してハンナの手に持たせようとした。ハンナはそれを受け取らなった

「いいの……それ、あげる……」

「でも、これは……」

「だからあなたに持っていてほしいの……」

「僕が持っていても意味がないよ……」

「それがあれば……私も、お母さんも、おばあちゃんも……いつまでも、ずっと一緒よ……」

「お姉ちゃん……」

「ジェシー……頑張ってね……」

 ハンナは目を閉じた。

「お姉ちゃん……お姉ちゃん!!」

 ジェシーはハンナの肩を揺すった。だが反応はなかった。ハンナはもう息をしていなかった。

 ジェシーはわんわん泣いた。手にはしっかりハンナの髪飾りを握りしめて、ハンナの遺体の前で、日が暮れても、夜が更けても泣き続けた。


*     *     *


 あれから5年が経った。ジェシーはギャングの幹部になり、ギャング病院を設立した。ジェシーの頑張りは期待されていたレベルを凌駕した。患者には本来の優しい性格を存分に発揮するが、部下のことは恐怖で支配している。それがバークの見込み通りの展開なのかはわからない。だが、結果を見れば、バークがジェシーに課した課題は現在に活かされていると言わざるを得なかった。

 ジェシーは毎日患者のために休まず働いている。ジェシーを鼓舞し続けているのはハンナの最期の言葉だった。ジェシーは今でも肌身離さずハンナの髪飾りを持ち歩いている。辛くなった時はそれを見て気持ちを高めるのだ。

 ジェシーはバークヒルズで生きる全ての人達のために、大好きな家族のために、今日も己の全てを捧げる。

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