テンペスト

第十三話 風、騒ぐ

 アマンダとニッキーを乗せたスプラッシュが疾風のように走り去っていった。

 直後それを確認したアトラスが物陰から出てくる。COCOの黒服の男達を制圧し、地面にくずおれるジェシーは肩を震わせていた。

「なんだ、泣いてるのか」

 アトラスは屈みこんで、声を殺して泣いているジェシーの背中に手を添えた。

「ごめんなさい、アトラス兄さん……僕は、また……」

「いいんだよ、ジェシー。あとは僕がやっておくから」

 アトラスは木の上で待機しているジョンに合図を送った。COCOの迎えが来る前にジョンを安全な場所へ避難させなければならない。この件に関わった人間は少ない方がいい。

「アトラス、大丈夫か!?」

 ギャバンがハーディ、ローディ、コーディを連れて早足で来た。ハーディが気絶している男達を仰向けに並べ、ローディがジョンが撃った銃弾を探して拾い、コーディがシクシク泣いているジェシーを担いで宿舎に連れて行く。

「一体ジェシーは何をしようとしたんだ」

 ギャバンは事態が飲み込めず爆発寸前だった。バークは昨日の幹部会議の後どこかへ行ってから姿が見えないし、その分の皺寄せが全部ギャバンに来ていた。加えてこの騒ぎだ。アトラスはギャバンがジェシーに怒鳴り散らさないよう説得することから始めた。

「詳しくはあとで話すよ、おじさん。もうすぐネリ・スクワブが来る。引き渡しは中止だと伝えないといけない」

 言っているそばからCOCOの黒塗りの車が宿舎の敷地内に入って来た。


*     *     *


 ネリ・スクワブとの交渉は宿舎の会議室で行われた。バーク不在のため、バークヒルズ側の代表者はギャバンだ。状況を理解していないギャバンに代わり、アトラス隊が直接の交渉に当たる。

「ジェシー・ローズはいないのか。あいつがいないなら俺はどんな話も聞くつもりはないぞ」

 ネリ・スクワブは威丈高にそう言った。バークヒルズ側から持ち掛けられたアマンダ・ネイル引き渡しを一方的に中止させたのだから無理もなかった。

 アトラスは冷静であろうと努力した。妙なことだが、アトラスはこのネリ・スクワブという男に好意的な感情を抱くことができなかった。アトラスが幹部になる前からCOCOのバークヒルズ支部の副支部長を務める敏腕だが、どうにも好かない。ジェシーはよりにもよってどうしてこんな男と重大な交渉をしてしまったのか気が知れなかった。

「今回の騒動はジェシーの独断によるものです。バークヒルズ側の意思ではありません。アマンダ・ネイルとコピアガンについては我々も対応に追われているのは事実ですが、彼女がそれを手にした経緯も踏まえ、リヴォルタに穏便な形で引き渡しを行えるものとは考えにくい。この件は一度白紙に戻し、必要ならばCOCOの意見も聞いたうえで改めてお願いしたい」

「白紙? それだけで済むと思っているのか?」

 ネリ・スクワブの目は笑っていた。とても嫌な空気をまとった笑顔だ。それは相手からもっと多くを引き出そうとする剛の者の目だ。

「ジェシー・ローズを人質としてこちらに渡すのはどうだ?」

 一同はネリ・スクワブの言葉に息をのんだ。

「悪くねえ話だろ? お宅さんは最年少幹部の独断専行にお悩みだ。自分達では抑えつけようがない血気盛んな若者をこっちで面倒みてやろうってんだ。アマンダ・ネイルの件はそれでカタをつけてやる」

 アトラスは動悸がした。ジェシーをこの男の根城へやる? そんな非情なことができるわけがない。この男は危険だ。これは単なる勘だが、絶対にその選択肢だけは選んではいけないと心が叫んでいた。

 だが、こちらは譲歩をお願いできる立場ではない。ジェシーがしでかした失敗を本人に尻ぬぐいさせるだけだ。ジェシーには責任がある。

「兄さん、それはダメだ!」

 アトラスが思考を巡らせていると、コーディがアトラスに向かって声を張り上げた。

「コーディ、お前に発言権はないぞ」

 ギャバンがたしなめるが、コーディは止まらなかった。アトラスがコーディにもっと話してくれと目で訴えていた。幹部の自分が言えずにいたことをコーディは勇気を出して言おうとしてくれている。

「ジェシーのことは俺がなんとかしますから、バークヒルズから追い出すなんてことしないでください。俺はジェシーのことは怖えけど、それでも大事な弟なんだ。あいつは俺より有能で、頭が良くて、自分の理想を実現させるために必死で頑張ってる。それが一度裏目に出たくらいであいつの歩みを止めさせようとなんてしないでください。あいつは俺達にとってもこの町にとっても大事な人の1人でしょ?」

「コーディ、やめないか!」

「アトラス兄さん!」

 ギャバンが声を張り上げるが、それよりさらに大きな声でコーディは被せてきた。アトラスはわずかに頷いて、ネリ・スクワブに視線を移した。コーディには全て通じたらしかった。黙ってアトラスが告げる言葉を待った。

「スクワブ副支部長。申し訳ないが、今ジェシーを失うわけにはいきません。ジェシーがギャングの幹部として上げた功績は確かです。彼の手腕は認めるべきだ。その代わり、ジェシー・ローズが今後、独断で重要な判断を行うことができないよう、コーディ・グラスを見張り役につけます」

「なんだと? お前ら、そんな言い分がまかり通ると思ってるのかよ」

 ネリ・スクワブは間髪入れずに言い放った。

 アトラスだってこんな自分達に都合のいい交渉があるわけがないと思っている。だが、こうするしかないのだ。もしもジェシーをネリ・スクワブに引き渡したら、ジェシーがアマンダにしようとしたことと同じことをすることになる。

「アンタ、よくもそんな上から言えたものね。副支部長ごときが偉そうに」

 その時だった。会議室に聞き覚えのない女の声が響き渡った。ツルっとした素材のピンヒールのカツカツという音と共に、甘い香水の匂いを振り撒く女が会議室に入ってきた。その後ろから禿げ頭で恰幅のいい高級スーツに身を包んだ中年男性が続く。

「し、支部長じゃないですか……! どうしてここに?」

 ネリ・スクワブは先程までとは態度を一変させ、背筋を正していた。

「君がアトラス君でしょ? ジェシーにそっくりね。彼ももう少し大人になったら君みたいな青年になるのかしら」

 アトラスは顔を近づけてくる女を無意識に避けた。香水の匂いで鼻が曲がりそうだった。

 女はバークヒルズの人間達から発せられる疑問符を感じ取ったらしく、自ら自己紹介を始めた。

「ここにいるのはCOCOバークヒルズ支部の支部長、カッポラ・アンダンテよ。そして、私はカッポラの秘書のハル・ハラン。よろしく」

「秘書……?」

 バークヒルズ側の人間はこんな女に秘書が務まるのかと一瞬疑った。ハル・ハランはダークブラウンの髪を結い上げ、紅い口紅とマニキュアが映える黒いロングドレスを着ていた。その見た目は秘書というより愛人と呼ぶべきだった。

「スクワブ副支部長、本件は私が預からせてもらう」

 カッポラ・アンダンテはバークヒルズ側が状況についていけないのをよそにネリ・スクワブに話しかける。

「支部長、この程度のことは俺にやらせてもらえないですか? 何も支部長自ら出るほどのことじゃありませんよ」

「お前の独断で起きた不祥事を私に黙認しろと?」

「そ、そういうわけでは……」

 どうやらカッポラ・アンダンテとネリ・スクワブの力関係は見たままのようだった。COCO側もネリ・スクワブの独断専行に振り回されているらしい。

「ちょっと待ってください。あなたはジェシーに会ったことがあるんですか?」

 コーディが再び場の空気を変えた。疑問を投げかけられたハル・ハランはゴールドのアイシャドウを光らせたゴテゴテのアイメイクをした目をコーディに向ける。ビューラーで持ち上げたまつげはマスカラでガチガチに固まったいて、ハル・ハランの大きな目をより大きく見せた。

「だって、そこに――」

 ハル・ハランが会議室の扉の向こうを指さすと、ジェシーが扉の影から姿を現した。

「ジェシー! 休んでろって言っただろうが」

 コーディが立ち上がってジェシーを追い返そうとする。ジェシーはいつになく弱気な態度で目の前に立ちはだかったコーディを見上げる。どうやらやり取りは全部聞かれていたようだ。

「ごめんなさい。でも、僕も聞くべきだと思って」

「お前がいても余計話がややこしくなるだけだ」

「そうだよね、僕は……」

「ああ、もう。らしくないな。しっかりしろよ」

 ジェシーはコーディの背後でニヤニヤと自分を見つめる視線に気付いていた。ネリ・スクワブだ。あの視線は背筋を凍らせる。と同時に、自分の中で少しだけスイッチが切り替わったのをジェシーは感じた。

「わかってるよ。兄さん。でも僕は幹部だよ。自分の失敗は自分でカタをつける」

 ジェシーはコーディを押し退けて会議室の中に入った。その場にいた全員の視線がジェシーに集められる。

「僕を人質にするならしてください。それで全てが丸く収まるなら、僕は何だってしてやります」

 ジェシーの発言にいち早く喜んだのはネリ・スクワブだった。

「ジェシー、歓迎するぜ」

 ジェシーは氷のように冷たい青い目でネリ・スクワブをじっと見つめた。

「お前、バカな真似はよせ!」

 コーディはジェシーの肩を掴んで自分の方へジェシーを向けさせた。ジェシーの決意は固かった。コーディにはそれが心を固く閉ざしているように見えた。

「嫌ならやらなくていいんだぞ?」

「嫌とかなんとか言える立場じゃないことくらい、自分が一番よくわかってる」

「ジェシー、頼むよ……」

「ジェシー」

 アトラスもジェシーに声をかけた。アトラスもジェシーが本気で自分を犠牲にするつもりなのだと感じ取っていた。それは崇高な自己犠牲のようでもあるが、ただの自暴自棄だった。

「君がそのつもりなら、僕らはそれを止めるだけだよ」

 アトラスが言うと、ジェシーは一瞬だけ悲しそうな目でアトラスを見た。目を逸らすとジェシーは元の凍り付いた瞳の色を取り戻していた。

「待ちたまえ、君達」

 カッポラ・アンダンテが口を開いた

「私は今、ネリ・スクワブ副支部長の独断では決めさせないと言ったはずだが」

 ずっと黙っていたギャバンも堰を切るように話し出した。

「その通りだ。お前達。ここにいる人間で決定権を持つのは俺とアンダンテ支部長だ。お前達の気持ちはよくわかった。それを踏まえた上で俺達が決める。いいな?」

「そうですね、おじさん」

 アトラスはそれだけ言うと顔を伏せて押し黙った。コーディはジェシーを椅子に座らせ、カッポラ・アンダンテとハル・ハランも席に着いた。

 ハル・ハランが場の空気を読んで勝手に司会を始める。

「今回のアマンダ・ネイル引き渡しに関する騒動はネリ・スクワブCOCO副支部長とジェシー・ローズ幹部の独断によるものです。組織としてはどちらも自分達の意思ではないとの見解でよろしいですね?」

 沈黙を賛成の意と取ったハル・ハランは続ける。

「それでは、双方の意見をまとめると、ジェシー・ローズは幹部の権限を一部はく奪、コーディ・グラスの監視の下、病院業務に関することのみ今後も務めていく。ネリ・スクワブは副支部長の任を解き、後任はわたくしハル・ハランということにします」

「おい、それどういうことだよ!?」

 ネリ・スクワブは寝耳に水の事態に声を荒げた。

「おめでとう、スクワブ。アンタは今から私の下で働けるのよ」

「このクソ女!」

「口を慎め、スクワブ」

 カッポラ・アンダンテの一声でネリ・スクワブは黙った。反対意見がないため(厳密には反対意見を押しつぶしたため)、ハル・ハランの言った内容で全員合意したと判断が下った。

 カッポラ・アンダンテとギャバンが誓約書に署名をし、それで今回の騒動は手打ちになった。COCOのメンバーは見送りは不要と断りあっさりと帰っていき、会議室にはギャングのメンバーだけが残った。

「兄さん、僕、ここにいていいの……?」

 ジェシーは縋るような目でアトラス達の顔を順に見ていった。隣に座っていたコーディが思わずジェシーを抱きしめる。

「よかったな、ジェシー!」

「ちょっと、やめてよ。子供じゃないんだから」

「かわいくねえな、お前! アトラス兄さんにはすぐ甘えるくせに!」

「アトラス兄さんは別格だからね。コーディ兄さんと一緒にしないでよ」

 アトラスはじゃれ合うコーディとジェシーを見て微笑んだ。見るとハーディとローディも弟だと思っていたコーディが兄の顔を見せるのを新鮮な気持ちで眺めていた。


*     *     *


 ジェシーは宿舎でコーディと一緒に夕飯を食べていた。病院で軽い食事を摂るだけの毎日だったジェシーは温かいスープを飲むのが久しぶりだった。兄と一緒に囲む温かい夕飯はジェシーの冷え切った心を温めた。

 アトラスも今日は早めに夕飯を食べに来て、ドロシーと何か話していた。ジェシーとコーディの席に来た時、アトラスは自分のトレイにスープとパンの他にカップを3つ乗せていた。

「ドロシーがホットミルクを作ってくれたよ。3人で飲もう」

「お! ホットミルク!」

 コーディは我先にとカップを掴んで両手で抱えた。

「あったけ~」

 ジェシーも笑って同じようにカップを手に取ると両手をピタッとカップに押し付けた。

「今日は色々あったね」

 アトラスはパンをちぎってホットミルクに浸してから口に入れる。

「僕は兄失格だ」

 ジェシーはホットミルクに視線を落として呟いた。

「アマンダに僕は兄らしいことをしてやれなかった。僕はあいつを敵みたく思って、傷つけて捨てた。バークヒルズに住む人達は皆が家族だと言いながら、血の繋がった妹を排除しようとしたんだ」

「アマンダのことだから今頃カンカンに怒ってるかもね。コピアガンで撃たれるんじゃないの?」

 アトラスは場の空気を明るくしようと冗談めかして言った。

「あいつが僕を撃ちたいなら僕はそれを受け止めるしかない」

 だが、ジェシーは真剣そのものだった。それだけ今回の失態を重く受け止めているようだった。

「大丈夫だよ。アマンダとニッキーは町の外にある隠れ家にいる。ジョンが明日、迎えに行くことになってるよ。ちゃんと非常食もたくさん持たせたし、ニッキーが上手い事話してくれてるはずだから心配いらない」

 アトラスは精一杯ジェシーの気持ちが軽くなるように状況を話したが、ジェシーはより顔を曇らせた。

「それでも僕はアマンダに会わす顔がないよ」

 アトラスとコーディはジェシーに何と声をかけるべきか迷った。いつも自信満々なジェシーがここまで気を落としているのは見ていて辛かった。

「君が反省していることはアマンダにも伝わるはずだ。それでも君を撃つような子じゃないよ、あの子は。グレイブの時もそうだった」

 アトラスは優しくそう言った。ジェシーはそれを聞いてボソッと呟く。

「あいつは僕より立派だな」

 アトラスとコーディはギョッとした。ジェシーの発言はとある事件のことを指しているのだと2人は勘づいていた。ジェシーは以前にバークを殺しかけたことがあったのだ。間一髪のところで止めたのがアトラスだった。

「卑屈になるな、ジェシー。君は幹部にふさわしい人間だ」

「そうだぞ、ジェシー。お前がいるからこの町の人口はギリギリで保たれているようなもんなんだぞ。そうじゃなきゃとっくに3桁切ってる」

 アトラスとコーディは必死にジェシーを褒める。あの事件については言及するまでもないことだ。結果的にバークは死ななかったし、ジェシーはその後に幹部となり町に多大な貢献をしている。たった一度の過ちのせいでずっと自分を責め続けるのはいいことではない。

「それは大袈裟だな。グレイブ兄さんが略奪品をたくさん持ち帰ってくれるからだ」

 ジェシーはややふざけた調子で言った。グレイブの底なしの体力とどんな危険な状況でも自分だけは無傷で帰ってくる強さ、そして何より手が付けられない荒くれ者の弟達を束ねる統率力は容易には信じがたい。グレイブに関してだけはこの場にいる誰もが敵わないと思った。

「ねえ、それって、僕が幹部なのに何もしてないみたいに聞こえるんだけど」

 アトラスがふと自分だけ褒められていないことに気付いて口に出す。コーディはこれはいじれるぞとばかりにニコニコ笑いながら続けた。

「アトラス兄さんは本当に何もしてないですよね~!」

「コーディ! 何で言っちゃうんだよ!」

 それを聞いてジェシーも声を出して笑った。アトラスとコーディも先程までの神妙な空気がバカらしくなってゲラゲラと笑った。

 3人は傍から見れば普通の兄弟だった。それぞれ母親は違っても、ギャングとしての立場があっても、ずっと同じ町で暮らしてきた仲良しの兄弟なのだ。誰かが失敗したら慰めて、楽しいことは共有し、互いに支え合って生きている。

 3人が笑いながら夕飯を食べる様子をドロシーは遠くから見ていた。豊富な食材は手に入らない厳しい環境だが、工夫して作った食事を楽しんでくれる人達がいることがドロシーの何よりの生き甲斐だった。


*     *     *


 夕飯のあと、ジェシーは食堂から出た時にギャング病院の窓からランタンの灯りがチラチラと見えることに気付いた。誰かがギャング病院で夜勤をしているのだ。ジェシーはその夜の夜勤の担当者が自分だったことを思い出し、代わりに働いてくれている人にお礼を言いに行こうと思った。

「コーディ兄さん、僕、ちょっと病院見てくるよ」

「おう、そうか。じゃあ俺は先に寝るわ」

 コーディは眠たそうに返事をすると、ジェシーと別れて1人で宿舎の自分の部屋に帰った。

 ジェシーはさっき見えたギャング病院の灯りのついた部屋に向かった。ランタンの持ち主はすでにその部屋を出て、廊下を歩いていた。

「パリス……」

 ジェシーは暗がりを歩く後ろ姿だけでそれがパリスだとわかった。昨日の言い合いの後、一度も話していなかった。パリスは勤勉だが、まさかあんな仕打ちを受けたそばから代わりに働いてくれるとは思っていなかったのでジェシーは動揺した。

「ジェシーさんですか?」

 パリスは振り返ってランタンを持ち上げてジェシーの顔を照らした。いつになく頼りない目をしたジェシーがパリスの目に映った。

「今日は仕事を休んで申し訳なかった。ギャングのことでどうしても抜けられない用事ができて……」

「いつもより快適でしたよ、怖い顔した人がいないので」

 そんな事はちっとも思っていないのだが、パリスは少しくらいジェシーにキツイことを言ってやらなければ気が済まなかった。パリスはどんな反応が見られるかとドキドキしながらジェシーを見るが、ジェシーは俯いて何も言わなかった。パリスはそれを見ていじわる心などすっかりどこかへなくしてしまった。

「ジェシーさん、どうしたんですか」

「パリス、僕は……」

「何ですか?」

「僕は取り返しのつかないことをしてしまった……」

 ジェシーは弱々しい声で言った。

「大丈夫ですよ、ジェシーさん。私、聞きました。アマンダはニッキーが逃がしたんでしょ? きっと元気に戻ってきますよ」

「そうじゃない、僕は……兄として妹を守ってやるどころか、妹を自分の目的のために利用して捨てたんだ……」

 パリスがジェシーの頬に手を当てる。ジェシーの目からポロポロと涙が零れて温かい雫がパリスの手にかかる。

「パリス、君は僕にそんな惨い事をするなと忠告してくれたのに、僕は拒絶してしまった。君は最初からそれがどれだけアマンダを傷つけるかわかってくれていたのに……」

 泣いているジェシーをただ受け入れようとパリスは考えていた。ジェシーが己の弱い所をさらけ出すのはこれが初めてだ。

「大丈夫ですよ、ジェシーさん。大丈夫。アマンダが戻ってきたら誠心誠意謝って許してもらいましょう、ね?」

「うん……」

 パリスはジェシーを気が済むまで泣かせた。泣き虫ジェシーと呼ばれていじめられていた子供の頃に戻ったみたいにジェシーはパリスの腕の中で泣き続けた。ギャングに入ってからジェシーが虚勢を張り続けていたのだとパリスはその時知ったのだった。


*     *     *


 翌日、アトラスはジョンにアマンダとニッキーが隠れている秘密の場所まで2人を迎えに行かせた。交渉が難航することも想定して非常食を多めに持たせたとはいえ、今まで野宿などしたことがない女子2人を荒野に留まらせるのは心配だった。

 ジョンはジークフリートに乗っていつもとは違って迂回せずに枯れ木小屋に直行した。早く2人に安全を知らせたいと思ってのことだった。

 地平線の彼方に枯れ木小屋が見えてくると、ジョンは何かがおかしいと胸がざわつくのを感じた。少しずつ近づくにつれて、その予感は確信へと変わっていった。

 枯れ木小屋にアマンダとニッキーはいなかった。それどこら、馬の足跡や2人が小屋で過ごした形跡も見当たらない。

 ジョンは焦りを抑えてバークヒルズに戻った。


*     *     *


 その頃、アマンダとニッキーは立入禁止区域の西南部をスプラッシュに乗って全力疾走していた。

 すっかり成長した牡馬のスプラッシュは女子2人を乗せるくらいわけなかった。既に2日は走り続けているのに疲れ一つ見せない。それどころか、久しぶりに主人とその友達を乗せて遠乗りするのが楽しくて仕方がないといった様子だった。

「ヒーハー!」

 ニッキーはその気になって甲高い声で叫ぶ。

「ニッキー、それ何?」

「本で読んだのよ! 馬に乗る人はこうやって叫ぶんだって!」

「どういう意味なの?」

「知らない!」

 2人はキャッキャと笑いながら夕日を背にして馬で駆けて行った。


*     *     *


 時刻は午後9時前だった。農地の真ん中にポツンと建つコンクリート建築の広めの建物に大勢の人が集まっていた。バークヒルズ近郊の田舎町の集会所だ。集まった人達の手には1枚のチラシが握られている。「コピアに救いの手」という見出しが書かれている。家庭用プリンターで刷られた安っぽいチラシだった。

「なかなか盛況じゃないか」

 ネリ・スクワブも列に混じって集会所へ入ろうとする。小さくなった安タバコをフィルターが擦り切れそうになるほど吸い続けていた。

「ここは禁煙です」

 入口に立っていた女が呼び止める。集会のために上品な服装に着替えているが、頬が日に焼けて赤くなり、日頃から炎天下で農作業をしているのが一目でわかった。小太りで無愛想な典型的なこの周辺に住む農家の女だった。ネリ・スクワブは女が指さす方にある喫煙所の看板を一瞥する。

「はいはい、わかってますよ」

 ネリ・スクワブは喫煙所の灰皿でタバコを捨て、集会所の中へ入った。

 座席は既に埋まっていたので立見席の端の壁にもたれて見物することにした。集まった人達は地元住民ばかりだとネリ・スクワブは思った。

 収容人数50人の狭い集会所は立見席ができるほど人がごった返した。この町にはウェイストランド出身者でリヴォルタの支援を受けている者も多くいる。彼らはバークヒルズの略奪部隊に支援物資を奪われて生活に困窮していた。農業中心の町では就ける仕事も限られているから、彼らにとっては死活問題だ。それでも町を出ないのは故郷だったウェイストランドの近くに住みたいという思いがあるからだろう。あるいは、どこへ行っても同じなら、支援を受けられる場所の方がいいという考えからか。

「やっぱり帰ります。妹を放っておけないので」

 座席の前から2列目の真ん中の辺りに座ったスポーツ刈りの男子が立ち上がって客席から抜け出ようとしていた。左右に座っていた年配の女性達が男子を引き留めようとする。

「エイジャ、何も怖がることはないのよ。今から出てくる人はきっとあなた達を救ってくださるわ」

「マイラはステイシーさんが見てくれてるから安心して」

「でも……」

「さあ、もうそろそろ始まる時間よ。座って」

 エイジャと呼ばれた男子は仕方なく席についた。と同時にステージの幕が開いた。ステージ裏では地元住民の有志が数人で照明や幕の上げ下ろしを担当していた。

 誰もいないステージが顕になり、見物客は静かになった。咳払いがやたらと響く。普段着の司会の男がステージに現れた。

「こんばんは、皆さん。寒い中来てくださりありがとうございます。今夜はバークヒルズの横暴に頭を悩ませている我々に救いの手を差し伸べてくださる導師様をご紹介しましょう」

 客席は静かだ。これから何が起こるのか予測もつかないといった様子だった。

「それでは、導師様、どうぞ!」

 司会者の合図でスーッと音も立てずに人影が現れた。黒いマントを目深に被り、全身を覆い隠している。夜気を集めて人の形に成型したかのような冷たい雰囲気のある人物だった。見物客はステージ上の男だか女だかも判別がつかないマントの人物から目が離せなかった。マントの人物はステージ中央で立ち止まり、真正面を向いた。

「ご紹介ありがとう」

 マントの人物は口を開いた。とても静かで呼吸音すら感じさせない優しい声だった。それなのに、集会所の一番後ろの立見席の端にいるネリ・スクワブにまで正確に聞き取れた。その声を聞いた人達は直感で男かもしれないと判断した。

「私は今夜、皆さんにコピアはもう恐れるに足りないということをお伝えに来ました」

 客席がわずかにざわつく。そんな事があるものか、と言いたげな声が聞こえてくる。皆、疑心暗鬼なのだ。事故の張本人のリヴォルタでさえコピアの安全運用の実現にまだ達していないというのに、どこの馬の骨ともわからない人物にそんなことができるはずがない。

「出て来なさい」

 マントの男が舞台袖に声をかけると、シミだらけで繕いだらけのジャケットを着たティーンエイジャーの兄弟らしき男子が2人出てきた。着ていたジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくるとおぞましい火傷跡が現れた。彼らはバティラ兄弟だった。

「彼らはバークヒルズでコピア汚染により半身に火傷跡が残ってしまった哀れな兄弟です」

 さすがに同情の声が上がる。赤黒く変色した火傷跡はそれだけ見る人にインパクトを与えた。

「この火傷跡は普通の火傷とは違います。コピア汚染が続く限り、いつまでも治ることはなく、痛み続けるのです」

「ここはバークヒルズから遠くない。いずれ俺達も……!」

 見物客の1人が堪らず叫んだ。それを皮切りに堰を切ったように見物客は口々に嘆き始めた。

「皆さん、落ち着いてください。私が今、この場で、彼らの苦しみを取り除きましょう」

 マントの男はバティラ兄弟の前に両手を掲げた。見物客は再び静かになり、マントの男が何をするのか固唾を呑んで見守る。

 夜空に浮かぶ無数の星々のような小さな青白い煌めきがバティラ兄弟の火傷跡の周りに出現した。その煌めきがスーッとバティラ兄弟の体の表面を駆け巡る。すると、火傷跡は見る見るうちに消えていき、火傷をしていない部分と同じ色に変わった。

「すげえ……」

 スエックが呟く。

「痛くねえ……!」

 トマスが両腕を高く掲げて見物客にアピールする。

「なんてこった!」

「この人は神の使いか!?」

「これは奇跡だ!」

 見物客は歓声を上げた。マントの男は人々の賞賛を一身に浴びた。

「導師様! お願いがあります!」

 客席にいた男子が立ち上がって大声でマントの男を呼んだ。ネリ・スクワブはその男子は先程帰ろうとしていたエイジャだと気付いた。見物客はエイジャの大声に気付き、さっと静まる。

「あなたのその力があれば、妹は元気になりますか……?」

 マントの男の瞳は見えないが、きっとエイジャに真っ直ぐ向けられていて、耳はしっかりとエイジャの話を聞き取り、理解し、心を動かしていると見物客は感じた。

「あなた、名前は?」

 マントの男はエイジャに質問をした。

「俺はエイジャ・ガムです」

「エイジャ・ガム。あなたは私のために何ができますか?」

「何が……とは何ですか?」

 エイジャはうろたえた。マントの男は両腕を広げて語り出した。

「私はこれからコピアの汚染をこの世から永久に消し去るための行動に出ます。それには大勢の力が必要です。エイジャ・ガム。私が行動を起こすその時、あなたは私に協力してくれますか?」

 それは映画に出てくる英雄がやるような仕草だった。マントが風で広がり、いかにも大きな志ある人物が一つの決断をしようとしているシーンに見えた。

「もちろんです! あなたのためなら何だってします!」

 エイジャはその地味だが効果的な演出に乗った。

「ありがとう。あなたの妹もそれがコピアの汚染によるものなら、私が治してあげましょう」

「ありがとうございます!」

 若者の純粋で強い意思がその場にいた人々の心を震わせた。他の見物客達も自分もその輪に加わろうと拳をあげて大声を張り上げた。

「私も協力する!」

「俺もだ!」

 あっという間に集会所は人々の熱気に包まれた。ネリ・スクワブだけがこの場でただ1人冷静さを保っていた。

 バークヒルズの略奪で逼迫しているこの小さな村では藁にもすがる思いなのだ。助けてくれるなら誰でもいい。それが奇跡でも嘘でも構わない。どうせ原理などわからないのだから。そもそも、コピアなどという万能なナノレベルの微粒子すら彼らの理解の範疇をとうに越えている。問題は理屈ではない。今この目で見た出来事が全てだ。

 では、マントの男がしたことは本当に奇跡なのか? いや、そんなことはありえない。中世ならともかく現代で本気で奇跡を信じる人間などいてたまるものか。これはコピアを科学的に治療したなんらかの技術だ。だとすれば、そんな事ができる人間は限られる。

 ネリ・スクワブはマントの男はリヴォルタが秘密裡に送ったコピア研究者なのではないかと疑った。それならコピアによる怪我の治療方法を知っていてもおかしくない。つまりこの集会はコピアによる病気や怪我を患っている人間を誘い出し、最新の治療方法の人体実験を行うための口実なのだ。村人を救うためではなく、リヴォルタの利益のために。

ネリ・スクワブは集会が終わってからマントの男がどんな人物なのかを確かめに行った。

「待ちなさい、来客がいますよ」

 マントの男は集会所の裏口から出てバスへ乗り込もうとする部下達を引き留めた。ネリ・スクワブは姿を見られる前に存在を気付かれたことに驚いた。

「出て来なさい。私はどのような批判でもお受けしますよ」

 ネリ・スクワブは観念してマントの男とその部下達の前に出た。

「いや~、どうもどうも。先程はすごい奇跡みたいなもんを見せていただいて、本当に驚きです~」

「何だこの男は」

「導師様、相手にするだけ無駄ですよ」

 部下達はノリの軽いネリ・スクワブの挨拶にもろに嫌悪感を発した。その態度にはよそ者を嫌う田舎者の悪い癖がよく出ていた。

「まあ、そう言わずに。何か聞きたいことがあってここまで来てくれたのでしょう。まずは話を聞こうではありませんか」

 マントの男はネリ・スクワブを真っ直ぐ見つめているようだった。マントの奥の顔は見えないのでわからないが、そうだろうとネリ・スクワブは思った。

 マントの男は暗がりに立っていてもどこにいるのかすぐにわかる不思議な存在感があった。声は近くで聞いても遠くで聞いても同じように聞こえるのが気味悪かった。

「俺はCOCOのネリ・スクワブ。アンタのその奇跡とやらは、実はリヴォルタの最新技術なんじゃないかと思うんだが、違うかね?」

 マントの男はすぐには返事をしなかった。数秒経った後、こう言った。

「私をリヴォルタの回し者だと疑っているのですね。無理もありません。ですが、違います。リヴォルタは決してコピアを手放そうとはしません。私のこの力はコピアを消し去るためにあるのです」

 マントの男の言葉選びは簡潔かつ論理的だった。科学的な知識のないネリ・スクワブでもわかる言葉を使いながら、反論の余地のない事実のみを述べて自身の考えを説明した。

結果的にマントの男はリヴォルタとは無関係だとわかった。能力の出どころはわからないが、マントの男の目的はCOCOの活動と近いところがある。ネリ・スクワブはマントの男の活動を支援すると約束した。

 帰り際、ネリ・スクワブは逸る気持ちを抑えるのに必死だった。マントの男をCOCOに引き入れれば副支部長の座を取り返すことも容易い。いや、副支部長なんて目ではない。マントの男の能力が知れ渡りコピアによる脅威がもう昔のものだとわかれば、COCOはリヴォルタに替わってコピアに関する主導権を握ることになる。その重要人物を拾い上げたネリ・スクワブはCOCOを我が物にすることだって可能だ。これはネリ・スクワブにとっても願ってもない好機だった。マントの男の活動に乗っかり、COCOを奪い返そうとネリ・スクワブは企んでいた。

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