第十話 泣き虫ジェシー

 ジェシー・ローズは生まれた時から美少年だった。母エミリーは童顔の美女で、父親違いの姉ハンナも愛嬌のあるかわいらしい少女だった。

 ジェシーのかわいさは見る者全てが癒されるほどだった。幼少期、母と姉はジェシーに女の子の服を着させて、波打つ金髪を結っておめかしして出かけた。近所の人達はジェシーを女の子だと勘違いした。

 7歳になって学校に行き始めた頃、ジェシーは自身の服装が男の子のものではないと気付き始める。チャンバラごっこや外遊びをしたくても女の子の格好をしたジェシーは仲間に入れてもらえない。これがジェシーの最初のアイデンティティの崩壊であった。

 ジェシーは母に男の子の服が着たいと正直に話したが、かわいらしいジェシーが男らしくなっていくことを拒んだ母はジェシーの頼みを却下した。姉も相変わらずジェシーを妹のように猫かわいがりした。ジェシーの苛立ちは頂点に達した。ジェシーは家を飛び出した。

 その頃、アトラスとグレイブはまだギャングに入っていなかった。アトラスは14歳、グレイブはまだ10歳だった。

 アトラスとグレイブは学校帰りに遊びながら家へ向かっていた。夕方、ポツンと道端に座り込むジェシーを見つけた2人はジェシーに声をかけた。

「ジェシー、何してるんだ? そんな所に座ったらスカートが台無しじゃないか」

 アトラスはジェシーを立たせて服についた砂埃をはらってやろうとしたが、ジェシーはアトラスが伸ばしてきた手を払いのけた。

「いいんだよ! こんなの!」

 いつになくカンカンに怒っているジェシーを前に、アトラスとグレイブは何かあったのだと察した。

「かわいいスカートなのに。そんなにきれいなフリルが作れるのはこの町では君のお母さんしかいないんだよ」

「お母さん嫌い!」

 ジェシーの怒りの矛先は母親だとアトラスは理解した。

「お母さんに叱られたのか?」

「お母さんはジェシーにいっつもスカート着せるの! でもジェシーはスカートは嫌なの!」

 ジェシーが泣きながら訴える。グレイブは明らかに自分の手には負えないと感じ、ジェシーを放っておいて帰ろうとアトラスに目で合図するが、アトラスは何か不穏な空気を感じてその場を離れなかった。

「ジェシーはスカート嫌いなの?」

「スカートはジェシーが着る服じゃないの!」

「どうして?」

「ジェシーは男の子なの!」

 アトラスとグレイブはジェシーが男の子なわけがないと思った。顔を見合わせる2人。グレイブは完全にお手上げ状態だった。

「とりあえず、僕の家においで」

 アトラスはジェシーの腕を掴んで無理矢理立たせた。

「兄貴、俺は?」

 グレイブはやっとのことで声を出してアトラスに気持ちを伝えた。

「いいよ、ここからは僕1人でやるから」

「じゃあ俺先帰るよ」

 グレイブは気が軽くなってスキップでもしそうな勢いで足早に自分の家の方向へ消えて行った。

 アトラスは手を繋いで隣を歩くジェシーの横顔を見ながら男の子らしさを探した。たしかに女の子にしては骨格がしっかりしているかもしれない。だが、7歳ではこのくらいの女の子は探せばいるだろう。ほっぺたはほんのり紅く、柔らかそうでちっとも男らしさはない。しかし、これも小さい頃は男の子でも色白ならありえない事ではない。アトラスは結局脱がせて見るしかないのか、しかし、それで女の子だったらどうしよう、とよくない想像をしながら家路を急いだ。

 アトラスの家に着くと、シンディばあさんが出迎えた。既にシンディばあさんの娘のヴァネッサは亡くなった後で、その家にはアトラスとシンディばあさんしか住んでいなかった。

「あら、ジェシーちゃん。どうしたのそんな砂だらけの格好で」

 シンディばあさんがジェシーを女の子のように扱うのでジェシーはムスッとしかめっ面をした。シンディばあさんは何かあったのかとアトラスの方を見る。

「おばさん、僕の子供の頃の服あるかな?」

「まあ、どうして?」

「ジェシーにあげようと思って」

「でもジェシーちゃんにあげられるような服なんて持ってないでしょ。ヴァネッサのだったら小さい頃の服があるわよ」

「僕は女の子じゃないの!」

 ジェシーはシンディばあさんが女の子の服を持ってこようとするので思わず怒鳴った。シンディばあさんは全く状況が理解できずオロオロする。

「お願い、おばさん。僕の服を持ってきて」

「わ、わかったわ。待っててね」

 シンディばあさんは大事にしまっておいたアトラスの子供服を片っ端から出した。虫に食われていて着られない服もあり、すぐに着られる服は数着しか残らなかった。アトラスがジェシーを自室に連れていった。ジェシーは男の子の服が並んだ部屋に案内されて歓喜のあまり忌々しい女の子の服を脱ぎ去り、下着姿でアトラスの服を吟味し始めた。

 アトラスはジェシーが女児用の下着を着ていたので、追加でシンディばあさんに下着も出してもらった。ジェシーは本当に男の子だった。生まれてからずっとジェシーを女の子扱いしていたエミリーとハンナにアトラスは恐怖すら覚えた。

 ジェシーは喜んで服を着替えた。細身のジェシーはアトラスの服がピッタリだった。どれでも好きな服を着ていいと言ったら、上下の組み合わせ方などを何度も変えて選んでいて、ちょっと女の子みたいだなとアトラスは思ったが、決して口には出さなかった。

 男の子の服を着てご機嫌になったジェシーはその晩、シンディばあさんの作った夕飯を食べて、アトラスと一緒に眠った。

 翌日、アトラスはエミリーとハンナに事情を聞きに行き、きちんと男の子として接するように約束させ、ジェシーを家に帰した。それ以来、ジェシーはアトラスの手助けで男の子として町の人達に馴染めるように努力していった。


*     *     *


 ジェシーがアトラスのお下がりをもらった半年後、アトラスとグレイブに事件が起こる。無断でギャングの武器庫に侵入したアトラスとグレイブは扱い方もわからない武器を手当たり次第に物色した。アトラスが触っていた銃が暴発しグレイブが頭に怪我をしてしまった。弾が当たったのではなく、暴発して驚いた拍子に梯子から落ちて木箱の角に頭をぶつけただけで大事には至らなかった。しかし、グレイブを誘ったアトラスは責任を感じてギャングに入り、武器庫番をやりながら武器の扱いを勉強することにした。ジェシーと直接会う機会は減ってしまった。

 ジェシーは男の子の服をくれたあの日以来、アトラスのことが大好きになった。自分を男の子として世間に馴染めるように手伝ってくれたアトラスを尊敬し、いつでも一緒に行動したがった。アトラスがグレイブを怪我させた事件でギャングに入ってしまうと、アトラスは武器庫の隣の部屋で寝泊まりするようになり、学校にも来なくなった。ジェシーはアトラスと滅多に会えなくなったが、それでもめげなかった。数日に一回はギャングで働いているアトラスに会いに来た。

「こーんにちはー!」

 ギャングの宿舎の門をくぐってジェシーは大きな声で挨拶した。細い手足を優雅に振ってジェシーは敷地に入って行く。男の子の服を着て、活発な少年になってもジェシーは相変わらず髪を伸ばしていた。ジェシーは自身を男の子だと認め、男の子として扱われることを望んだが、それと同時に自分の美しい金髪も好きだった。癖のある金髪は陽光を受けて光り輝き、まるで波打つ金のワイヤーのようだった。

「ジェシー、また来たのか」

「ローレンスおじさん!」

 偶然通りかかったローレンス・ロックがジェシーの相手をする。ローレンスはバークの従兄で、本来ならロック家の家業を継ぐはずの男だった。リヴォルタの事故があった時は首都フレイムシティの大学に通って経営学を学んでいた。ラグビー部に入っていて、度胸と根性があった。ロック家が所有する工場や土地が居住可能地域でなくなって受け継ぐものを全て失ってしまった。バークがウェイストランド奪還のために立ち上がったと聞き、バークに協力するために大学を辞めて戻ってきてからずっとバークの下で働いている。

「アトラス兄さんいる?」

「またアトラスか、今日は見てないなあ」

「いつになったら会えるのかな」

「それは俺にもわからないよ。でも、アトラスはアトラスなりに一生懸命働いてるんだ。応援してやれよ」

「うん」

 ジェシーはがっかりして宿舎を出た。アトラスに会える機会がめっきり減ってしまってジェシーは退屈していた。学校で友達もできたし、勉強もしないといけないから時々しか会いに来られないのに、行くと決まってアトラスは出て来なかった。武器庫に行けば会えるかもしれないが、武器庫は危ないから子供は立入禁止だと言われているので中には入れない。アトラスを時々町で見かけることがあっても、話しかけるのは困難だった。ジェシーは追いかけて挨拶しようとするが、アトラスはふっとどこかへ消えてしまうのだ。

 そのうち、ジェシーはアトラスを追いかけることを諦めて、自分のことに集中することにした。アトラスがいない間にジェシーが立派な男の子になったらきっとアトラスは喜んでくれると思ったのだ。それからジェシーは勉強も運動も今まで以上に頑張るようになり、友達も増えて、アトラスのことはたまにしか思い出さなくなっていった。


*     *     *


 それからまた数年後、14歳になったジェシーはある事に気付いた。アトラスを外で見かける時、必ず妹の誰かが一緒なのだ。アトラスの妹とあらばジェシーにとっては姉妹だ。弟の自分とは一切関わりを持たないのに、妹だったら会って喋っていると知ったジェシーはひどく傷ついた。

 ジェシーはハンナの部屋へ行き、クローゼットを開けた。女性物のワンピースがズラリと並んでいる。ハンナが背が高いのか、ジェシーが小さいのかは言い難いが、二人の体型はさほど変わらなかった。アトラスのお下がりの服を脱いでハンナのワンピースを着てみたら、肩が少し窮屈だが、ジェシーにも着ることができた。

 日が暮れかけた頃、ジェシーはアトラスを探して町を歩いた。このまま会えなかったらどうしよう。アトラスに会う前に誰かに見つかったら一生の恥だ。幼少期のトラウマが蘇り、心拍数が上がっていく。初めて履く女性用のぺたんこな靴はサイズが合わず窮屈で歩きにくかった。

 ジェシーは結局アトラスに会うことなく、宿舎の裏手まで来てしまった。武器庫の窓があるそこはほとんど人は通らない。武器庫には灯りがついていなかった。アトラスは武器庫にもいないということだ。

 諦めて帰ろうとした時、背後に人の気配がした。

「えっと、誰? 何でこんな所に来てるのかな?」

「アトラス兄さん!」

ジェシーはアトラスの声を聞いて嬉しくて勢いよく振り返った。が、靴が片方脱げてバランスを崩してアトラスの胸に飛び込んでしまった。

「大丈夫? あれ、君は……」

 ジェシーはしまったと思った。いくらワンピースを着ていたって抱きついたら体型でわかる。ジェシーは顔をアトラスの胸に押し付けて隠して、まだ声変わりしていないキンキンした高い声で言った。

「兄さん、忘れちゃったの? 私、キャシーよ」

「やめなよ、ジェシー」

 アトラスはジェシーが聞いたこともないような落ち着き払った低い声で言った。ジェシーはアトラスを失望させたと感じ、震えながら演技を続けた。

「どうして? 私は私なのに。アトラス兄さんは私が嫌いなの?」

「わかった。キャシー。君がそのつもりなら今後一生僕は君を女の子として扱わなければいけないな」

 ジェシーはまずい事になったと内心思った。だが、アトラスに会えた喜びが勝り、後のことは考えられなかった。

「う、嬉しい、兄さん。やっと会えたね」

「キャシー、顔を上げなさい」

 アトラスは命令口調だが優しい声で言った。ジェシーは徐に顔を上げた。数年ぶりに至近距離で見たアトラスはジェシーの記憶の中のアトラスより大人っぽい顔つきになり、刺すような視線は少しジェシーを緊張させた。

「キャシー、いいか。よく聞いて。もし君が自分自身を女だと自覚しているなら僕は否定はしないよ」

アトラスはいつでもジェシーに優しかった。その時の記憶が一気に蘇る。ジェシーが自分らしくいられるように力を尽くして守ってくれたアトラスに、今この時嘘をついているのはジェシーの方だった。

「君が小さい頃に男の子の服が着たいと言って家出した時、僕は初めて君が男の子だと知ったんだ。男の子なのに女の子の服を無理矢理着させられるのはよくないと思って、できる限りの手助けをしてきたつもりだよ。でも、君が年頃になって、もしかして本当は心は女なのかもしれないと思うなら、手助けの仕方を変えていかないといけない。今までのこともあるから町の人達に説明するのも大変だ。だけど、僕は絶対に君を見放したりしないし、絶対に君を否定したりもしないから、正直に言ってごらん。君はキャシーなのか?」

 ジェシーは兄の愛の深さにボロボロと大粒の涙を流していた。

「ごめんなさい、兄さん……。違うんです……僕は男です……」

「じゃあどうして?」

 ジェシーは自分の不甲斐なさに押しつぶされそうだった。大好きな人を裏切った自分の浅はかな企みを後悔した。こうでもしなければアトラスから声をかけてもらえることもないなどと思い込んで、一番やってはいけない方法でアトラスの優しさを踏みにじった。

「兄さんがいけないだ……! 僕には一度も会いに来てくれないのに、姉さんや妹達とはよく町で話してる。僕にはちっとも構ってくれないのに……! 僕が妹だったら兄さんは僕にも優しくしてくれると思ったんだ……!」

 アトラスはジェシーを抱きしめた。小柄で少女にも見えるが骨ばった体格は男らしかった。だが、心はとても純粋で繊細で脆い。本物の女の子の方がジェシーよりよほど強かだ。自分を頼ってくれていた弟を無意識に突き放していたことをアトラスは後悔した。

「ごめん、ジェシー。僕は怖かったんだ。グレイブが怪我した時、僕はグレイブを死なせてしまうと思った。血が沢山出て、グレイブは意識を失いかけたんだよ。頭だったから血が沢山出たけど、傷はそこまで深くなかった。今は一緒にギャングに入って働いている。僕なんかよりずっとグレイブは健康で体力があって、僕なんかよりずっと立派にギャングをやっている。でも、僕はもうあんな思いはしたくないんだ。僕はもう弟を傷つけたくない。それで、君を遠ざけていただけなんだ。でもそれで君に辛い思いをさせてしまっていたんだね。ごめんね」

「兄さん、もう僕から離れないで」

「わかったよ。ジェシー。もう避けたりしない。いつでも会いに来ていいし、僕も君に会いに行くよ」

「ありがとう。兄さん、大好き」

「僕もだよ、ジェシー」

 アトラスはジェシーの髪をなでた。クシャクシャの髪は少し硬質で指に絡んで軋んだ。長い金髪を好きでいながら手入れは雑なところは妙に男らしかった。


*     *     *



 グレイブが報復部隊を結成し幹部になってから、遅れてバークはさらにグレイブに略奪部隊を結成させ、リヴォルタの支援物資を運ぶ輸送車を襲うように指示した。略奪部隊のメンバーにはウェイストランド奪還紛争の時にスナイパーとして活躍したローレンスも含まれていた。

 ある日、ジェシーはローレンスとアトラスがライフル銃の射撃訓練に行くのについていった。ライフル銃専用の射撃場はバークヒルズを出て少し行った所にあり、宿舎にある射撃場よりはるかに広い。

 ドォォオオン!

 ローレンスのスナイパーライフルが腹の底に響く重たい銃声を放つ。ジェシーはローレンスが訓練している間、後ろで待っている。雲一つない晴れた日で、風が心地よかった。春の陽光をキラキラと反射する蝶が一匹ジェシーの前を飛び過ぎる。

「アトラス兄さん! 見て! 蝶だよ!」

 ジェシーは金色に輝く鱗粉を落として飛ぶ小さな金色の蝶を指さしてアトラスを呼ぶ。アトラスはスコープの調整をする手を止めて振り返る。

「蝶?」

「ほら!」

 ジェシーはアトラスが金色に輝く蝶を見て喜ぶと思ったが、アトラスはその蝶を一目見ると血相を変えた。

「ジェシー、その蝶は触っちゃダメだ」

「どうして?」

「こんな所にもいるんだな」

 アトラスは銃を置いてジェシーのそばに駆け寄り、ジェシーの服についた鱗粉を黄ばんだハンカチで払った。

「この鱗粉はコピアを含んでいるんだ」

「えっ!」

「大丈夫。君はもう16歳だからこの程度のコピアで体に影響は出ない」

「あの蝶、一体何なの?」

「コピアコガネシジミというウェイストランドにしか生息しない新種の蝶だ。鱗粉にコピアを含むこと以外は普通の蝶。ウェイストランドの中でしか生きられないと聞いてたけど、コピア汚染濃度の低いこんな場所にも飛んで来られるとは思わなかった」

「アトラス兄さんは物知りだね」

「役所に書類を提出しに行った時にちょうどニュースを見たんだよ。リヴォルタはウェイストランドの自然環境の調査結果を一般開示しているから」

「へえ」

 ドォォオオン!

 ローレンスのスナイパーライフルの音が2人の会話を邪魔する。後ろで聞いているだけでもちびりそうな轟音だった。こんな恐ろしい物を日々扱う仕事をしているローレンスやアトラスがジェシーには理解できない。

「今日はこんなもんにしとくか」

 ローレンスが銃を脇に置いて仰向けになり伸びをする。ジェシーは優し気なローレンスの笑顔を見て安心してそばに寝転ぶ。

「ローレンスおじさん、その銃ってどんな時に使うの?」

 金髪であどけない表情のジェシーはまるでおとぎ話に出てくる男の子のようだった。縫製工場の女子達と仲が良いジェシーは凝った刺繍の入った洒落た服を作ってもらっている。服が汚れるのを嫌い、常に自分で洗濯するほど大事にしている。動物や植物を愛し、誰に対しても優しく接するいい子だった。

「うん? そうだな……」

 ローレンスはそんなジェシーに銃の使い道を説明する言葉に迷った。

「これは被害を最小限にするための手段だな」

「被害?」

「ああ。略奪には必ず怪我人が出る。このスナイパーライフルは遠くの標的を撃ち抜くことができるから、敵も味方も無駄に撃ち合わずに事を終わらせることができる」

「どうして銃で人を傷つけなくちゃいけないの?」

「それはなあ……」

 ジェシーの青い目は澄み切った青空のように温かく、穢れない色をしていた。その瞳の輝きをローレンスはいつまでも失わないでほしいと思った。

「なあ、ジェシー」

「何?」

「この町の人達は好きか?」

「好きだよ。たまにケンカしたり、ムカつく相手もいるけど」

「その人達が苦しむところは見たくないだろ?」

「うん。僕は皆が平和に暮らしてほしいと思うよ」

「バークヒルズの人間はな、ジェシー。バークヒルズに住んでいる全ての人間が俺達の家族だ。俺達はこんなちっぽけな町で自給自足の生活をしている大きな家族なんだ」

「皆が家族?」

「そうだ。覚えておけ。俺達は家族を守るために汚れ仕事をするんだ。たとえそれがどんなに過酷で理不尽でも、それで家族が守れるなら俺達はためらっちゃいけないんだ」

「そうなんだ」

 そんな会話をした数週間後、ローレンスは略奪中に落馬して重傷で運ばれてきた。バークヒルズに病院は一つしかない。町の診療所ほどの設備しかない小さな病院でローレンスは手術を受けることになった。

「ローレンスおじさん!!」

 報せを受けたジェシーは手術を待っているローレンスの病室に駆け込んだ。ローレンスは辛うじて意識はあったものの、手足はあらぬ方向に曲がっていて腹からも血が出ていた。ジェシーはローレンスの姿を見て全身の血の気が引いた。

「おじさんしっかりして!」

 ジェシーは思わずローレンスの右手を握った。左から落馬したらしく、右腕だけは折れていなかった。

「ジェシー……」

 ローレンスは声と手の感触でジェシーに気付いたらしかった。目をうっすら開けてジェシーにニコッと笑いかけた。

「無理しないで、おじさん」

「大丈夫……俺は平気だ……」

 ジェシーにだって今のローレンスの状態が助かる見込みがあるとは思えないのに、ローレンスはジェシーに心配かけまいと声を搾り出して言った。

「もうすぐおじさんの奥さんと子供達も来るからね、しっかりして」

 ジェシーはローレンスに絶えず声をかけて意識を保たせようとした。

「麻酔がない!? それでどうやって手術するんですか!?」

 カーテンの向こうから医者や看護師が怒鳴り合っているのが聞こえてきた。ジェシーは手術が行われないのではないかとみるみる不安になっていく。事は一刻を争う。今にも死んでしまいそうなローレンスを前にジェシーはただ声をかけ続けることしかできなかった。

 ローレンスがジェシーの手をぎゅっと握った。ジェシーはローレンスが何かを言おうとしていると気付いて、自分の耳をローレンスの口元に近づけた。

「何? どうしたの、おじさん」

「レアド先生を呼べ……」

「レアド先生?」

 ジェシーはカーテンをめくって医者達に呼びかけた。

「レアド先生!」

 ジャッキー・レアドは顔を見た瞬間ジェシーの言おうとしていることを察した。早足でローレンスのベッドの脇に着くとローレンスを厳しい表情で見つめた。

「麻酔はいい……」

 ローレンスはレアド先生の目を見つめ返した。そこには確固たる意志の光が見えた。

「わかっているのか、ローレンス」

「頼む、ジャッキー……」

 レアド先生はウェイストランド奪還紛争の時に軍医の役割を果たした。まだ研修医だったが、故郷のために立ち上がる男達を応援すべく志願した。銃撃を受けた重傷者を麻酔なしで治療した経験も沢山ある。だが、助かるかどうかは本人の生きようとする力次第だ。レアド先生の努力虚しく散っていった仲間達が大勢いる。ローレンスは今こそ自分の生命力を試そうとしていた。

「麻酔はいいってどういうこと!?」

 ジェシーは紛争の英雄達の言葉少ななやり取りを青い顔をして聞いていた。ジェシーの悲痛な声に耳を傾けることなく、レアド先生は手術の準備を始める。

「ジェシー……」

 ローレンスは手に力を入れてジェシーの手を握り返した。ジェシーはローレンスの口元に耳を近づける

「お前は……ここに……」

「僕はここにいるよ! おじさん!」

 ローレンスは頷く。

「ああ……お前はとても、美しい……。まるで……エルフのよう……だ……。お前を……見ると……元気が……出る……」

「僕はここにいるから! 絶対離れないから! おじさん頑張って! お願い!」

 ジェシーはローレンスの手を握ったまま泣いた。看護師達は麻酔なしでの手術に怖気づいていて不安を隠せない表情で手術の道具をローレンスのベッドの周りに配置していた。その中で、レアド先生だけは冷静さを失わず、看護師達に淡々と指示を出していた。

「いいか、ローレンス。耐えろ!」

「ふぐっ、ぐっ、あああああ!!」

「おじさん! 頑張って!」

 レアド先生はまず腹に残った銃弾を取り出す手術を始めた。ローレンスは悲鳴を上げたが暴れるような真似はしなかった。ジェシーの手を握り返す力の強さがローレンスがまだ生きている証だった。

 ジェシーはローレンスの叫び声に負けまいと声を張り上げてローレンスを励ました。必死に何度も名前を呼んだ。

 ローレンスの妻と子供達も駆けつけた。だが、妻はローレンスが麻酔なしで手術していると聞いて病院の玄関で失神してしまった。子供達は幼すぎて手術を見せるわけにもいかないので、別の病室で手術が終わるまで待たせた。

 銃弾を取り出す手術は無事に終わった。ここからは骨折した箇所を正しい位置に直して固定する手術だった。


*     *     *


 二時間後。

ジェシーは病院のすぐ近くの丘に立っていた。辺りは暗くなり、雨が降りそうな重たい雲が夜空を覆い、星を一つ残らず隠していた。どんよりとした風がジェシーの金髪を揺らした。

 丘の上に背の高い男が登っていった。アトラスだ。ジェシーはアトラスに気付いてもピクリとも動かない。

「ローレンスおじさん、亡くなったんだってね」

 アトラスが言うと、ジェシーはまた女々しく泣き出した。アトラスはそっとジェシーの肩に手を置き、引き寄せる。ジェシーは温かいアトラスのぬくもりに触れて一層激しく泣いた。

「僕は何もできなかった! 麻酔もないし、まともな医療器具もないのに、ローレンスおじさんは最後まで耐えたんだ! でも、僕は……僕は手を握ってあげることしかできなかった!! 僕はただ、声をかけてあげただけで、頑張ったのは全部ローレンスおじさんなんだ……!」

 アトラスは何も言わなかった。何を言っても慰めにもならないのを一番よく理解していた。何故ならアトラスは幼い頃にこんな光景を目にして育ったのだから。戦場で産まれた子供アトラスにとって大人達が傷つき死んでいくのは幼い頃の日常風景だった。血に塗れた男達の中心にはバークとユリーカがいた。

 あれから少しは平和になったと思っていたのに、結局アトラスは戦場に身を置いている。その現状にやるせなさを感じていた。

「兄さん……どうしてこの町はこんなに貧しいんだろう。医療器具さえ揃っていれば助かるはずの人が死んでいくのなんておかしいよ……。どうしてこんな理不尽を受け入れなくちゃいけないの……?」

 アトラスにはジェシーにかけてあげられる言葉がない。これは起こるべくして起こった事態だとアトラスは感づいている。全ての元凶は町の仕事をほったらかして好き放題に出歩いているバークにあると思っていた。だが、父の疑惑を暴くことは難しい。

「兄さん……僕、決めたよ」

 ジェシーはひとしきり泣いた後、固い意志を感じさせる声で言った。

「僕はギャングに入る。幹部になってこの町を変えるんだ」

 アトラスはジェシーの顔を見下ろした。まだ子供だと思っていたジェシーの顔つきが少し大人になったような気がした。

「いつでも町の人が十分な医療を受けられるように僕が交渉役になる。リヴォルタからまた支援を受けられるようにして、略奪なんて行為もしなくていい町にするよ」

 アトラスは心なしか気が軽くなったような気がした。諦めかけていた現状に一筋の光が差し込むような希望をジェシーに見出した。アトラスが自分の無力さに嘆いている傍らで下の世代は順調に育っていたのだ。

「ジェシー、本気なら僕は応援するよ」

「ありがとう兄さん」

 すっかり泣き止んだジェシーはアトラスから離れて1人で丘を降りて行った。残されたアトラスは一瞬だけ寂しさのようなものを感じた。

 バークはジェシーのギャング入隊をすぐには承諾しなかった。心が綺麗過ぎるジェシーにギャングは務まらないだろうとのことだ。ジェシーはそれでも諦めなかった。父に認められるために厳しい訓練を乗り切り、医療の知識を身に着けた。その甲斐あって、ジェシーは格闘訓練で初めてバークに勝った人間になった。その報せはすぐさま町中に広がり、ジェシーは名声を轟かせた。ギャングに入ると、ジェシーはめきめきと実力を発揮し、瞬く間にギャングの幹部に成り上がった。そして、医療体制の改善のためにギャング病院を設立し、多くの人の命を救った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る