ノーカウントパンチ

第14話 新しい街と金貨の価値

 走る車は揺りかごだ。数年ぶりに味わう夢見心地の終わりは、数年前の『いつも』と同じだった。車が止まると音楽が途切れるように、現実に引き戻されるのだ。


「ん……」


 体を起こそうとすると、自然と声が出た。車の中では変な格好で寝ることが多いけれど、うつ伏せで寝るのは初めてかもしれない。


 温かい『それ』から頭を離すと、間に入ってきた空気が冷たかった。まるで陽だまりに吹き込んだ夕風のようだ。


 最初に目に入ったのは黒だった。暗いのではない。夜を思わせる黒が、揺れるオレンジの光に照らされていた。


「――――」


 降ってきた声に頭を上げると、くすぐるような笑顔がわたしを見ていた。


(もしお姉ちゃんがいたら、こんな感じなのかな)


 わたしはそんなお姉ちゃんにはなれなったけれど……と、心の中でつぶやき終わってから、気が付いた。


 わたしが今、何をやっているのかに。


「ご、ごめんなさいっ……!」


 黒ドレスさんから大急ぎで離れた。勢い余って後ろに倒れそうになる。


 ほろにしがみついて何とか体勢を立て直し、黒ドレスさんに赤べこ並みに頭を下げた。


「ね、寝れなくてっ!」


 自分でも、意味不明なことを口走っているなと思った。言葉が通じないことに、今一度感謝した。


 どうして黒ドレスさんに抱かれるように寝ていたかというと、わたしのお尻が馬車の振動に耐えきれなかったからだ。


 馬車が走り出してすぐに、硬いアタッシュケースに座るわたしのお尻は悲鳴を上げた。どうしても我慢できなかったわたしは、両手を前についてお尻を浮かしたのだ。その姿勢はカエルの様だっただろう。


 しかし馬車は数時間で目的地に着くようなものではなかった。日が落ちて、夜が明けても目的地には着かない。


 もちろんカエルのポーズで寝れるわけもなく、他の乗客が寝ているなかでも、わたしはずっと起きていた。


 そして、みんなが起きて、一度目の休憩を挟んだ後だ。お腹においしくないパンを入れたのが、よくなかったのかもしれない。


 カエルのポーズでもまぶたが重くなり始めて、時折意識が途切れるようになった。その後、前に倒れたのだけは覚えている。


 正面に座っていたのは、黒ドレスさんだ。


(黒ドレスさんのほうに倒れこんで、そのまま寝ちゃったんだ……)


 そのまま起こさないでいてくれた黒ドレスさんには、感謝しかない。


 申し訳ない思いで見上げると、黒ドレスさんは微笑み返してくれた。そして開いた右手で外を示す。


 馬車の後ろ側が開いていて、外に若い男がいた。青いセーターの上に革の胸当てをしている。左胸には、翼を開いたコウモリのようなマークが入っていた。


 少し離れたところにも、同じ格好をしている人が立っている。その人は槍を持っていた。


(兵隊さんかな?)


 兵隊さんはこちらに身を乗り出して、わたしに手を差し伸べていた。


「あ、どうも……」


 戸惑いながらも、促されるままに馬車から飛び降りる。


 台とかはなかったけれど、体をしっかり支えてくれたので転んだりはしなかったし、足も全然痛くなかった。


 兵隊さんはわたしから手を離すと、馬車に上半身を突っ込んで、アタッシュケースを引っ張り出す。あまりにも軽々こなしているので、わたしもそのつもりで受け取ってしまい、漬物石のような重みに前へ倒れそうになった。


「とっ……」


 背中を反らして体勢を整えると、上がった視線の先で、大仏を思わせる巨大な影が見下ろしていた。


 それは大きな建物で、布張りの羽が三枚ついている。


風車ふうしゃ……?)


 オランダを紹介するときに必ず出てくる風車。それによく似ている。


 風が吹いていないからか、羽は回っていない。周りに猫じゃらしのような草がびっしり生えているけれど、きっと麦か何かの畑なのだろう。


 絵画の落穂ひろいを連想する動きをしている人の姿が、五つほどあった。緑や黄に染められた服を重ね着しているようで、前の集落の人と比べると豊かそうに見える。


(あの集落には、この風車みたいな立派な建物なかったものね)


 風車は白く塗られていて、素材はよくわからない。けれど木ではなさそうだ。あの集落で木造じゃない建物は、教会くらいしかなかった。


(とはいえ、ここも農村みたいだし、風車1つくらいなら――)


 辺りを見回し始めた瞬間に、考えが止まった。


 目の端にもう一つ風車が入ったのだ。そしてその先、100m程遠くにももう一つ。さらに視線を動かすと、それは一つや二つではなかった。二十は優に超える数の風車がぽつぽつと点在している。


 小さいとはいえない建造物がこれだけの数あっても『並んでいる』という印象を受けないのは、十分な広さがあるからだろう。平らな土地がずっと続いている。はるか遠くに見える山の麓まで、畑が続いているのではと思ったほどだ。


「――――」


 黒ドレスさんの声に振り向くと、馬車に乗っていた人たちが腰の曲がった老人の前に並んでいた。


 老人に見覚えはなかったけれど、きっと馬車の関係者なのだろう。最前列にいた紳士はコインを数枚だけ老人に渡していた。


 老人はお金を受け取ると、横に並ぶお婆ちゃんの前へと動き、またコインを受け取る。


 そして、こちらへと向かってくると、黒ドレスさんの前に立った。


 黒ドレスさんが目の前でお金を払う姿を見ていると、視線に気づいて口元だけの笑みを送ってきた。それに合わせるかのように、老人がわたしの前に立つ。


「え? お金? えっと……」


 反射的にポケットを探ると、石がこすれるような嫌な感触がする。お巡りさんに渡された三枚の金貨だ。


 手で触るまで、あるのを忘れていた。ポケットに入れたときにはあんなに存在感があったのに、一晩経っただけで、つけ慣れた腕時計のように馴染んでいたのだ。


(あれ? 黒ドレスさんたちは何を何枚渡していたっけ?)


 ちゃんと見ておけばよかった。


「これしかないけど……」


 コインを手に持ってみると、重みは変わっていなかった。


 手の平に広げた三枚の金色は、水面のようにキラキラと輝いて存在を主張している。


 わたしにとっては嫌なことを思い出す輝きだけれど、これが本当の金なら価値のある輝きのはずだ。運賃の相場はわからないけれど、わたしの常識では十二分に足りる。


(この世界でも金に価値があるとは限らないけど)


 老人は一言だけ何か言い、コインを一枚だけ取って馬車の運転席――というのだろうか。馬車の前部分へと姿を消した。


 嫌な思い出のあるコインだけれど、二枚も残ってなんだか安心した。


(この後もお金は必要だろうし)


 ポケットに戻すと、また重みで存在感を出し始める。その存在感は『同じことを起こさないように気をつけろ』と警告しているようにも思えたし、『自分のしたことを誇りに思え』と称賛しているようにも思えた。


(あんな事件なんてそうそう起きないだろうし、わたしから前に出ることなんてもうないだろうから、どっちでもいいか)


 黒ドレスさんに向き直った。


「えっと……」


 わたしがお金を払い終わっても、黒ドレスさんがどこかに動く気配がない。ただ立ったまま、『なにか?』と言うようにわたしに微笑みかける。


 どうしようと考えていると、後ろから肩を叩かれた。


 振り向くと目の前にあったのは、枯木色の薄汚れた袋だ。さっきの老人が、袋をわたしに向けて突き出していた。


「え? ん……?」


 アタッシュケースを置いて両手を前に出すと、老人はその上に袋を落とした。


「うぇ!」


 鉄球のような重みを支えきれずに、手の間を袋がすり抜ける。反射的に握った手が、運よく閉じられた袋の口をつかんだけれど、重さに負けてバランスを崩し、地面に袋の底がついた。


「重た……!」


 ボーリングの球でも入っていそうな袋を持ち上げて口を開いてみると、最初は小石が詰まっているように見えた。でも袋の中に光が入ると、それらはキラキラと銀色に光った。


(これってもしかして……)


 輝きの色合いは違っていたけれど、見覚えのある輝きだ。ポケットに入っている二枚のコインの色違いが、袋いっぱいに詰まっていた。


(お金だよね? どうしてこんなに……)


 思い当たるのは一つ。


(これって、お釣り? もしかして、お巡りさんに貰ったコインって、すごく高額なんじゃ……)


 馬車の運賃がどの程度なのかわからないけれど、わたしの世界の乗り物でいうと夜行バスみたいなものなのだろう。少なくとも千円とかで乗れるものではないはずだ。


 でも金貨は一枚でそれを払いきるどころか、持て余すほどのお釣りが返ってきた。


(こんな高い金貨を三枚もくれるなんて、お巡りさんもやっぱり悪いと思ってたのかな?)


 思い出したくもないけれど、お巡りさんの表情が頭に浮かんだ。その怯え切った表情は『これをやるから見逃してくれ』と言っているように思えた。


(わたしのためじゃなくて、自分のために金貨を渡したんだよね。きっと、ただお金持ちだっただけなんだ)


 今思えば、あの集落の中ではかなり身なりが良かった気がする。


(やめよう。ただイライラするだけだ)


 これからのことを考えた方がいい。


 黒ドレスさんの方を見ると、十歩くらい進んだところで、待つようにこちらを見ていた。


「ご、ごめん……」


 アタッシュケースを拾いあげて小走りで黒ドレスさんの横に並んだ。


 両手に重たい荷物を持つことになって、軽快な足取りというわけにはいかなかったけれど、気持ちはとても軽やかだった。


 わたしたちが進む道は麦畑に挟まれている。その先にあるのは、風車でも畑でも山でもない。


 紅葉を思わせる赤茶色の町だ。煉瓦や瓦の建物がたくさん見える。色彩の統一された家屋の並ぶ街並みは、ヨーロッパの旧市街を連想させた。


(オシャレな場所は苦手だけど、穴だけのトイレからは解放されそう)


 知らない場所に向かうのは、いつだって怖い。


 それでもわたしは、黒ドレスさんの後ろを追いかけて行った。

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