第13話 虹色の瞳

 叫んだことで涙が柔らかくなった気がした。さらさらと流れ始めた涙は留まることを知らず、黒いハンカチをたっぷりと湿らせる。濡れて重くなったハンカチは――


(あれ? 違う……これ、濡れたから重くなったんじゃない)


 ハンカチの中に小石のような感触があった。アタッシュケースを置いて、ハンカチを開くと、鈴を握って振ったような音がした。黒の隙間に見えた金色に、涙が落ちる。


(これ……さっきのコイン)


 お巡りさんに渡されたコインだ。きっと黒ドレスさんが拾ってくれたのだろう。さっきはよく見えなかったけれど、翼を広げた竜が刻印されている。


 じっと見ていると、お巡りさんの怯える表情が浮かんできて、心が冷えた。わたしがみんなに拒絶された象徴のようなものだ。


 重みはあるけれど、大きさは十円で買える駄菓子とそう変わらない。畑の中に投げたら、二度と見る必要はなくなるだろう。


(でも、わたしが女の子のために作品を完成させた証でもある)


 コインをハンカチから手のひらに落として、野球の投手を真似て振りかぶる。


(このまま投げてしまうのは簡単だけど)


 力を抜いて、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。コインを落とすと、ずっしりとした重みがポケットの中で強い存在感を出していた。


(見えなければ、そんなに嫌じゃない)


 気づいたら涙は乾いていた。


 右に広がる畑にも、左に広がる牧場にも、誰一人いなくて、自分以外の人間が全て消えてしまったのではないかと思えてくる。


(たぶん他の人は、わたしが消えてしまえばいいって思ってるんだ)


 わたしだって、この集落から消えてしまいたい。人のいない場所とはいわないから、人の悪意が見えない場所に行きたい。


(そんな場所、あるのかな……)


 考えにかかった雲を頭を振って払いのける。暗い考えはだめだ。わたしはここにいるのが嫌だから、ここを去る。それだけでいい。


(とはいえ電車が走っているわけでもないし、どうやってここから出ていこうか……)


 何の考えも無しに森へと入ったら、ただ遭難するだけだろう。


(ここに来た方法で出ていくっていうのが、妥当な考えではあるよね)


 普通の方法で来たのならば――という前提なのはわかっている。それでも思いついたのはこれだけだった。


 早くも歩き慣れた道を通って、森へと入っていく。


 集落が見えなくなった頃に見えるのが、事件のあった小屋だ。唯一の住人であった女の子を失い、この小屋はどうなってしまうのだろうか。


(わたしには関係ないことか)


 小屋の横を通り過ぎ、もっと森の奥へ。


 二つある道の、上っている方を進んでく。まだ昼間だというのに、道から外れた森は月が出る前のように暗く、踏み込んだら最後。別の世界に飲み込まれてしまいそうだ。


(それはそれで、願ったり叶ったりな気もするけど)


 それは最後の手段ということで、今は道を外れないように進んでいく。上り坂で足がだるくなってきても、今は荷物を持ってくれる人はいない。


 両腕が限界を迎えてアタッシュケースを置きたくなった頃に、昼の明るさの残る広場に出た。


 相変わらず鳥居もやしろもない。


(あのときは確か、疲れて神社の軒下で寝てしまって……)


 前の足跡をたどって、わたしが寝ていた位置を探す。


(あった)


 足跡が途切れて、わたしの背中の跡が残っている場所を見つけた。そこは土がむき出しになっている。


(さすがに、土に直接寝るのはちょっと……)


 髪も服も土まみれになるのは間違いない。とはいえ近くはどこも似たようなものだ。草の生えているところまで行くと、広場の外に出てしまう。


(しかたない)


 アタッシュケースを足元に置き、広場を縁取るように生えている木に近寄った。そして手の届く枝から葉っぱを一枚ずつもいで、集めていく。


 ジャージの裾を持ちあげて、ハンモックの要領でお皿を作り、そこが山盛りになるまで集めた。それをアタッシュケースの横にぶちまける。


 それを三回繰り返したら平らに広げて、アタッシュケース四個分の広さの土を隠した。


(とりあえずこんなものかな)


 葉っぱの座敷に座ると、土の固さがそのままお尻へと伝わってきた。布団と呼ぶためには、あと二十往復ほど必要そうだ。


(土がつかなければ、まぁいいかな)


 一度座ったら、立つ気力など起きなかった。なんといっても徹夜明けなのだ。横になったら、十秒と経たずに意識を持っていかれる自信がある。


(今は好都合……)


 ここに来たときの再現をするなら、眠らないといけない。寝転がると、土の固さは石と変わらないのではないかと思えた。でもそんなことが気にならないくらい、横になれたことを体が喜んでいる。


(もっといい世界に行けますように)


 パセリみたいな青臭い香りに包まれると、自然とまぶたが落ちた。



~~~~~~~~~~~~~~~



 たぶん朝ではない。こう思ったのは、寝る前のことを覚えていたからではなかった。


 目を開ける前に、背中に痛みを感じたからだ。こういうときは決まって、ゲームか漫画を読みながら寝落ちして、床で寝てしまったときなのだ。そして起きる時間は、いつも深夜かおやつどき。


 起きるきっかけは色々あるけれど、今回は誰かが起こしに来たようだ。


 肩をつつくように、体がゆすぶられる。


「――――」


 声も聞こえた。何を言っているのかはわからないけれど、スズメのさえずりをもっと優しくしたような響きは、目覚ましには少し弱い。


 うっすら開いた目に入ってきた光は、過度な白を感じさせることなく、まるで目を慣らすために調光されているかのようだった。


 黒い影が覗き込んでくる。


「誰……?」


 こんなに優しく起こしてくれる人を、わたしは知らない。


「――」


 応えてくれた声の意を、汲み取ることができない。


 聞こえるのにわからないという、この嫌がらせのような感じには覚えがあった。


(そうか。わたしはまだ……)


 目の前の顔がいきなり見えるようになった気がしたのは、自分の状況を思い出したからだろうか。凝り固まった体をぐっと伸ばしてから体を起こすと、覗き込んでいた影は一歩だけ下がった。


「黒ドレスさん……」


 あの教会で、唯一わたしを拒絶しなかった人だ。集落から離れられないのは悲しいことのはずなのに、不思議と何も思わなかった。


 見つけてもらってうれしいということもなく、ほとんど無感情だ。


 伸ばされた手を握って立ち上がり、いったいどうしたのだろうと黒ドレスさんに目を向けていると、黒ドレスさんがわたしのアタッシュケースを持ち上げた。


「え? ちょっと……!」


 取り戻そうと手を伸ばすと、黒ドレスさんはアタッシュケースを体の前に動かして避けた。そして歯を見せてにっこりと笑いかけてくる。


 さっきまで、口元だけの静かな微笑みしか見せていなかった人が、アイドル女優のように笑ったのに驚いて、体が固まる。


 その間に黒ドレスさんは前へと進んでいき、少し離れた場所に置いてあった革の鞄を肩にかけた。


 サッカーボール二つぶんくらいの大きさで、見るからにぎっしり詰まった鞄なのに、重そうにしている様子はない。振り返ってわたしに静かな微笑みを向けてから、集落に戻る道へと入っていく。


(ついてこいってこと……かな?)


 アタッシュケースを盗みたいだけなら、わたしを起こす必要なんてない。


 黒ドレスさんの足は思ったより早かったけれど、荷物を失って身軽なわたしなら、十分についていくことができた。


 黒ドレスさんは迷いなく道を降りていくと、事件のあった小屋には見向きもせずに、集落の方へと足を進める。


 正直、集落に戻るのは気が進まなかったけれど、アタッシュケースを握られている以上無視することもできない。


(悪い人ではないだろうし)


 わたしを集落まで連れて行って、何をしようとしているのかはわからない。それでも今の状況を変えられるのならと、わたしも足を止めなかった。


 集落は相変わらず人の姿がない。推理ショーを終えてから、どれくらいの時間が経っているのだろうか。多少日は傾いてきていたけれど、まだ山に沈むまでは太陽三つくらい分くらいある。


(日本の時間だと、三時くらいかな?)


 寝ていた時間は四、五時間ってところだろうか。


 お葬式がどういう手順で進んでいるのかわからないけれど、たぶんもう終わっている。


 どこかにお巡りさんたちがいるかもしれないというだけで、わたしの視線はトンボを追うように集落じゅうを飛び回った。それでも人の姿は一つも見当たらない。


 交番の前も通ったけれど、お巡りさんの姿はなかった。まるで示し合わせて隠れているかのようだ。


(お葬式の日は外に出ちゃいけないとか、そういう決まりでもあるのかな)

 

 それなら好都合だし、女の人もそのタイミングを狙って、わたしを連れだしたのかもしれない。


(だとしても、本当に目的が謎なんだけど)


 歩いた先に、何か見せたいものでもあるのだろうか。


(うーん……思いつくものといえば、お墓かな)


 女の子のお墓はきっと、集落の中にあるのだろう。そこに花でも手向けさせてくれようとしているのなら、有難いことだ。


(お葬式をめちゃくちゃにしちゃったもんね。といっても、わたし花とか持ってきてないんだけど)


 頭の中にぱっと思いついたのは、毒草の青い花だった。それを女の子のお墓に置いたら、ちょっと皮肉が効きすぎている。


(何か代わりに置けるものでもあれば――)


 ポケットを探ろうとするのと、女の人に声をかけられるのは同時だった。


 女の人が視線で示す先にあったのは、お墓ではなく汚い馬車だった。土色のテントに木の車輪がつけられているだけにしか見えないそれには、すでに二人の乗客がいる。


 二人とも見たことのない顔で、一人は外套で体を覆った若い男。もう一人は黄色いワンピースに赤いセーターを着た、ちょっと派手なおばあちゃんだ。


 二人は知り合いでもないようで、じっと黙ったまま馬車の中に座っていた。黒ドレスさんが馬車に近寄っても、特に反応もない。


(もしかしてこれ、乗り合い馬車?)


 映画とか見たことがある。いわゆる路線バスみたいな馬車だ。黒ドレスさんは大き目な鞄を持っていたし、きっとこれでこの集落から出ていくのだろう。


(わたしも乗れってことだよね?)


 わざわざここに連れてきて、見送れってことはないだろう。


 ただこの集落から離れるということは、あの広場に二度と行けなくなるということでもある。あの広場はわたしにとって、家に帰る唯一の手掛かりだ。


(ここを離れれば、もう家に帰れないかもしれない……)


 視界が闇に包まれた気がした。目に映るのは、差し出される手のひらだけ。ここに残って一人で帰る方法を探すか、ここを離れて、どうなるかわからない場所へ向かうか。


(同じ闇でも、絶望が影を落としてるだけの闇と、ただ先が見えないってだけの闇なら)


 わたしは正面の手に、手の平を重ねた。抱き寄せられるように馬車へと引きこまれ、黒ドレスさんの腕へと収まる。わたしにはない柔らかさがわたしの頭を受け止めてくれた。


「あ、ご、ごめんなさい」


 柔らかさに身をゆだねていると、別の絶望に襲われそうだったので、すぐに黒ドレスさんの胸から頭を離す。


 馬車の中は軽トラックの荷台のようになっていて、椅子なんて上等なものはなかった。男の人もおばあちゃんも、自分の荷物を椅子代わりに座っているようだ。


(そういえばわたしのアタッシュケースは?)


 わたしが外を覗き込もうとすると、黒ドレスさんがアタッシュケースを差し出してそれを遮った。


 手放していたのはちょっとの間だけだったのに、ずっしりとした重さがなんだか懐かしく感じる。座るのにちょうどいい大きさだ。


(でも固い……)


 他の人たちが座っている鞄は、服でも詰まっているのか、見るからにふかふかで座り心地が良さそうだ。どれくらいの時間を馬車の中で過ごすのかわからないけれど、わたしのお尻はもつのだろうか。


(痛くなったら、そのときに考えよう)


 黒ドレスさんが御者に声をかけると、電車の走り始めと同じようにガクンと揺れて、馬車が動き出した。


 大きな振り子時計を思わせるゆったりとした馬の足音は、急ぎの旅ではないのだとわたしに教えてくれる。それでも木の車輪と踏み固められただけのダートの組み合わせは、わたしのお尻をリズムよく叩いた。時折、飛び跳ねるような強い衝撃も起こる。


(あまり長くはもちそうにない……)


 開いたままになっている後ろから外を見ると、集落のそこらにあった木の家が離れていくのが見えた。広場で帰る方法を探れなくなったのは残念だけれど、あの集落自体に思い残すことはない。


(そうでもないか……)


 女の子の顔が浮かんだ。なぜ殺されなければならなかったのか、言葉のわからないわたしには知る由もない。


 この世界のことをもっと知れば、わかるときが来るのだろうか。


 そしてわたしがもっと気になるのは、思い浮かんだ女の子に欠けている部分。


(女の子の目の色は何色だったんだろう)


 わたしの中で、女の子の瞳は永久に虹色になったのだ。

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